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配信後記(第2回)「推し、燃ゆ」のこと

質量のなさ、「絵解き」的読み、舎利を拾う

『推し、燃ゆ』を読んだあと、フレッシュなうちにと思ってTwitterでつぶやいたものをここに載せておく。ほとんど配信で話したことと変わりはないが、細かい印象は変わるかもしれない。

『推し、燃ゆ』、僕は結構ミーハーなところがあるので、読んだら案外グッと来てつい泣いてしまったりなんかするのかもしれないと思って読んだ。

サラッと読めてしまって逆に困惑してる。テーマの深刻さの割には質量が無くて、おとぎばなしでも読んだのかと思った。(続)

「これはやられた!」という口惜しさとか、力づくで納得させられるパワーが見えなくて、でも確かに文章は整っていて筆力はあるんだろうなって感じで、これが芥川賞なんだって思った。神聖視しすぎているのかもしれない。
著者も「今なのか、と思った」って言ってたし「令和の綿矢りさ」作りか?とか。

それは穿った見方をしすぎだろうけど、そういう斜に構えたくなるくらいには説得力のない芥川賞だった。他の作品も読みたい。ラストシーンの「めちゃくちゃにしてやろうと思ってるのに当たり障りない選択をする」ってところは、小狡い感じで好きですね。

鹿間・中田両氏と話している中で印象に残ったことに「綿棒は誰の遺骨か?(そもそも遺骨のメタファーなのか?)」という話がある。まず僕は初見時に「綿棒」を「麺棒」に誤読していて、「生活能力皆無のくせに麺棒あるのか……亡くなった祖母の家だからか……」とかとんちんかんな読みをしていたのだけど。

個人的にはその遺骨は「推し」のものであったと思っている。やはり「推しは命に関わる」「背骨」であるからには、骨壺に収められるべき舎利は「推し」のものだったに違いない。

今回の話では全く触れなかったけれど、主人公の友人の存在も気にはなる。最後の最後で「推し」とセフレ(だろう)の関係に至った彼女。信仰の対象としてではなく、地に足のついた人間として「推し」と性交する彼女。その様子は、主人公の「推し」とその恋人の関係性を思い起こさせる。

……こういった「絵解き」的読みは、読み方としては邪道だと思うのだけれど。とはいえ芥川賞作品を、ただキャラクターと物語を消費するだけで終わってはもったいないとも思う。

「隠された意味」「巧妙に張られた伏線」「メタ的な考察」など、明言されていないものをいかに読み取り言語化するかに血道をあげる鑑賞法は、かなりオタクしぐさに近い。

そんなものは審査員だの批評家だのに任せておいて、一個人の読書体験としては「好き」「あんまり好きじゃない」に分類する程度で終わらせたいとも思うのである。

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