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No.444 小黒恵子氏の紹介記事-10 (ひかる女)

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。

 今回は、かわさき商工No.423に紹介された記事をご紹介いたします。

ひかる女 ~日本童謡協会 理事 小黒恵子さん~
 昭和三年、川崎市生まれ。中央大学法学部を卒業後、昭和三十八年、サトウハチローに師事して本格的な作詞活動をはじめる。以来、童謡集や詩曲集、合唱組曲など約四百曲もの作品を発表して、日本作詞大賞や日本童謡賞、赤い靴児童文化大賞など数々の賞を受賞。
 そのテーマは一貫して自然や動物への愛と平和への願い。地元、川崎でも多摩川などをテーマに多くの詩をつくる一方、公園緑化の推進者として「歴史と水と緑の川崎づくり」を呼びかける。去る十一月三日、川崎市教育文化会館で平成二年度の川崎文化賞(芸術部門)を受賞。

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この美しい地球に生きる悦びと幸せ   童謡を通して伝えたい
                小黒恵子さん(日本童謡協会理事)
 川﨑を童謡の 発信地に
平成二年度の川崎文化賞を受賞したばかりの小黒さんを、高津区諏訪の自宅に訪ねた。
 大山街道の面影が残る東急田園都市線二子新地駅から徒歩で約十分。秋深い明王院を過ぎて、大きな欅のある家が代々つづく小黒家である。
 小黒さんが『川崎地名百人一首』の中で、“けやき立つ多摩のほとりの諏訪河原みどりの伝言(ことづて)未来(あす)につたえて”と詠んだ、その欅の大木らしい。
 お屋敷然とした古い門構えをくぐると、あたり一面が落葉のじゅうたん。
「お待ちしていました」
秋もようのワンピース姿の小黒さんが庭ぼうきを手に、やさしい木漏れ日の中に現れた。「落葉で焼くサツマイモは、とてもおいしいのよ」と。
小黒さん自慢の焼イモは、広い庭で建築している人たちの、うれしいおやつになるようだ。
 「いえ、これは住まいなんかじゃなくて、子供たちの童謡館なんです。私のこれまでの作品や、日本の古い童謡とか、新しい童謡の資料などを集めて、小さなコンサートもできるようにして、川崎を童謡の発信地にするのが夢なんです。ええ、来年の夏には完成します」といって、うれしげに迎えてくれた。

 人との出会いが 詩との出会いに
 小黒さんはこんな自然の中で、動物や昆虫に囲まれて育った。幼いころの春には、多摩川の堤から、桃の花や菜の花畑を見て、楽しんだ。
 「自然って、ほんとうに素晴らしい。残された美しい自然をこれ以上壊したくない」
 小黒作品のテーマは、今も変わることはない・・・・・。
 小黒さんが詩と出会ったのは、戦後の混乱がようやく落ち着きを取り戻した昭和の二十九年ころ。でも、小黒さんはまだ戦後の混乱を引きずっていた。
 戦後の農地改革で大半の農地を失った両親から「これからは、女でも法律を知らなくては・・・・」といわれて、中央大学法学部を卒業したものの、世はまさに就職難時代。法律で武装した才女といっても、おいそれと就職できる時代ではなかったのだ。一時は商事会社に勤めたが、すぐに解散。仕方なく、お茶や生け花、三味線などの花嫁修業の日々を・・・・・。
 しかし、小黒さんは家でじっと嫁ぐ日を待つ女性ではなかった。
 「何かをしたかった」小黒さんは、新しい考え方の母親の声援もあって、渋谷に喫茶店を出すことに。それが昭和三十年ころ、今でこそ何百軒あるかわからない喫茶店も、当時は小黒さんの店『セーヌ』がわずか三軒目という時代。
 とにかく、思い切って喫茶店をはじめたことが新たな出発点となった。なじみ客の中に、すでに『週刊新潮』の表紙を飾っていた故谷内六郎氏がいた。
 「以前から谷内先生の絵に憧れていたのです。」そのうち谷内氏が、表紙用の原画を毎週見せてくれるようになった。そして「絵を批評してほしい」との谷内氏の求めに、「批評なんてとてもできないけど、せめて詩の形で自分の感想を表したかった」と小黒さん。
 尊敬する谷内氏との思わぬ出会いが、小黒さんの未知なる世界を発掘させてくれたのだった。

 自分色の詩を かきたい
 しかし、どんなに詩心があっても、いざそれを“詩”に表現するとなると、これはまったく別のこと。小黒さんはハタと困った。
 ちょうどその頃、サトウハチロー氏が門下生を募集していることを知り、急ぎ、サトウ先生の門をたたいた。ここで三年間、詩づくりの手ほどきを受けた。
 「習いたての詩で、谷内先生の絵に対して自己表現できるのが、なによりうれしかった」
 だが、詩の基本を覚えるにつれて、小黒さんの生来の創作欲は、サトウ先生の忠実な弟子であることを拒否するようになった。
「サトウ先生と同じ色に染まりたくなかった。自分の詩をかきたくなったのです。」
 小黒さんの本格的な詩づくりがはじまった。題材は身近にいくらでもころがっていた。四季の樹木や草花、犬や猫、そして昆虫が生命感あふれて、ささやきかけてくる。大好きな九官鳥も朝から晩まで「シツレイシマス」「シツレイシマス」とあいさつする。おかげで小黒さんが洋服をきるときも、クツをはくときも、思わず「シツレイシマス」。
そこで、生まれた詩が次の『シツレイシマス』(宇野誠一郎・作曲)。

   シツレイシマス
   大きい声出し シツレイシマス
   とくいになってる 九官鳥
   ぼくもやっぱり くせになり
   じぶんの服を きるときに
   ちょっと言っちゃう
   シツレイシマス

これが処女出版に結びついて、詩人・小黒さんの四十二歳のデビューとなった。

 大平原を走ったり パンダの名付け親に
小黒さんの手にかかると、すべてが生き生きとしてくる。まるでマジシャンだ。庭から襲ってくる“やぶ蚊”までが・・・・。

   おいらはやぶっ蚊 吸血鬼
   ブーンブーン
   誰をねらうか うまそうだ
   ゴクリなまつば わいてくる
   ハダカのこどもに 突進だ
   ドラドラキュッキュ ドラドラ
   ドラドラキュッキュ ドラキュラ
   ドラキュラ  (クニ河内・作曲)

とにくめないヤツに。
デパートで買ってきた“チャボ”もへんてこに鳴くと運の尽き。

   ぼくんちのチャボって へんなとり
   にわとりだから ニワトリ語
   毎日練習 してるけど
   いつになっても おぼえない
   けっけ ころっけ ころっけ
   けっこう コロッケ けっこう
   コロッケ けっこう  (三枝成章・作曲)

とやられてしまう。
 これらの歌は、NHKの『みんなのうた』などを通じて今なお放送され、全国の子どもたちに唄われている。
 そして小黒さんの自然と動物愛も地球サイズとなって広がり、『ライオンの子守唄』や『飛べしま馬』の舞台となった昭和五十四年のアフリカ取材では、自らジープを運転して、野生の動物たちと楽しい追いかけっこをしたくらい。
 また、黒柳徹子さんや小林亜星さんらと赤ちゃんパンダの名付け親となって『こんにちはトントン』(小林亜星・作曲)をつくったり、自作の『ふるさとは多摩川』(湯山昭・作曲)を文字通り実現しようと、降りしきる吹雪のなかで鮭の稚魚を放流したり、小黒さんの詩作活動は次第に“自然をとりもどす行動”へとふくらんだ。
 子どもたちとのコンサート(一九八九年はNHKホールで)も世界自然保護基金へのチャリティーコンサートとして定着するなど、小黒さんの活躍は公害をなくそうとするもので幅広い共感を呼んでいる。

 家族は 四人よ
 「おかげでいつの間にか、環境問題や公害問題の先生にされてしまって。勉強するのが大変」とうれしい悲鳴の小黒さん。
 実際、最近の小黒さんには環境問題の原稿依頼や講演依頼が殺到して、かんじんの詩作の時間がなかなかとれないのが悩み。現在も二ケ領用水の親水と緑化運動に知恵をしぼる毎日である。
「でも、私の小さな行動で少しでも緑美しい自然がとりもどせれば・・・・」と、自然を守る声がかかればどこえでも飛んでいく。
だから、ことし三月に父親の信吉さんが九十五歳で亡くなってからも、「少しも淋しくなんかありません。もともと一人っ子ですから。それに私には九官鳥と二匹の犬がいますから、にぎやかな四人暮らしですよ。ええ、来週も家族のストレス解消のために熱海にドライブしようと計画中です。」
 来年は、念願の童謡館が完成する。小黒さんの大好きな諏訪河原の緑は、未来をつぐ子どもたちが大切に守っていってくれるだろうと心から期待している。

かわさき商工 平成2年(1990年)12月15日発行

 私たち記念館スタッフは、この文章にある小黒恵子氏の想いを、常に心に刻んでいます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 次回は、1991(平成3)年以降の雑誌に掲載された小黒恵子氏のエッセイや記事をご紹介します。(S)

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