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かけがえのなさはただの綺麗ごとじゃない。目を背けた者から貧しくなっていく◆新自由主義と貧困(下)


対談:「ぷろおご×伊予柑の大預言」の書き起こしをお送りします。



大預言を読む


○大預言とは?
ぷろおごと伊予柑が古典を消化して対話をし、
『大預言』を生みだそう!という企画

伊予柑
…人類補完計画を企む悪いおとな
ぷろおごとは数年の付き合いがある


こちらは対談を加筆編集したものです。

前回までの大預言

嫌なことでも案外、誰かと一緒ならたのしい。だから、あなたがほんとうに嫌なのは、一緒に苦しんでくれる誰かがいないことなんじゃないの?というのが前回のお話でした。

今回は、新自由主義とネタバレについてお送りします。わたしたちはなにを得て、なにを失い、そしてなにを求めているのでしょうか。

◾️前回記事はこちら


「パパ活おじさんはちいかわ」



名づけようのない関係性を強制力なしに築くことができるだろうか?


ぷろおご:登場人物がひとりだけの漫画なんかないでしょ。ひとりの小説もないよね。結局、誰かといて、それぞれのなかで物語は築かれていって、ようやくまとまりができてくるわけじゃないですか。

ひとりだったらなんでもしんどいし、なんでもつまんないとおもうんですよ


伊予柑:どうやってチームというか関係性をつくったらいいんでしょうね

ぷろおご:ニワトリと卵じゃないですけど、やっぱり趣味ですよね


伊予柑:あとは五人組みたいな仕組み

ぷろおご:強制力ね

伊予柑:趣味はしんどいんじゃないの?とは思うけど

ぷろおご:趣味の延長だとおもいますけどね、それがないと入ろうと思わないじゃないですか

伊予柑:会社以外で趣味じゃなく強制力がある場所ってないのかな?町内会とか

ぷろおご:やっぱり参加するのは自由だから。そこがむずかしいところですよね。結婚は女性にとってはかなり強制力があるのかな。期間限定ガチャなんで、まわしたくなるじゃないですか。そういう期間限定性があるから


伊予柑:結婚は少なくともふたりっていうペアにはなりますからね


東京はメタバース劇場。演劇「若くてきれいな女と金払いのいいおじさん」、その終演はいつ?


ぷろおご:池袋の西口を散歩したり、チャリでもタクシーでもいいんだけど、ずっと人間のペアを観察すると8割の男女ペアがパパ活おじさんと援交女性なんですよ

伊予柑:そうなんだ。俺、池袋に住んでるけど人間に興味なくて見てなかったわ

ぷろおご:すごいよ

伊予柑:何時ぐらいに行くといいの?

ぷろおご:何時でも。ピンポイントで人が多い時間だと彼らはあんまり

伊予柑:夜ぐらい?

ぷろおご:この時間(収録時刻は18時)とかでもいるし、休日の昼間もいるし、池袋西口のなんか全部そうですよ。若くて安い女の子っていう単語で検索をしてマッチングしたわけじゃないですか。その関係性って結局、おもしろくないというか、男は常に女性の代替を求めてるわけですよね

伊予柑:なんも残らないですね

ぷろおご:なんも残らないし、それこそ純粋な若い女とのセックスしかなくて、それを本気で楽しみ続けられる人ってしみけんしかいないんですよ

伊予柑:楽しんでるのかな?

ぷろおご:わかんないけど、しみけんさんだって、むちゃくちゃ儲かってるわけじゃないじゃないですか。金銭以外の報酬として楽しさ、嬉しさがあるからやり続けられるとおれは思ってるんですけど、純粋な気持ちで本気で追いかけられるのってほんとうにレアだから。それを一般化するのはむりなはなしですよね。

でも、ほかにやることないしさみしいし、需要される機会はなくて。とはいえ、めんどくさいことはしたくないし、縛られたくないし、怒られたくないし、ちょっとした衝動に駆られたい。そこで結局なにを買ったら・・・ってなってる

伊予柑:お金があるだけのちいかわがパパ活をする、

ぷろおご:そう、パパ活おじさんはちいかわ

伊予柑:ツラい

ぷろおご:ハチワレがいれば、そこで「僕たち…いろんなことがあったけど、」ってなるわけですよ

伊予柑:野球行こうぜってハチワレが言ったら、野球で満足する


新自由主義に生きた人々のネタバレで焼けた野に、種を蒔くのは誰か?


ぷろおご:欲求はひとりだとわからない。だから「エッ…パパ活すればいいの?」ってなるわけですよ。ツイッターを見て、「公園に行けばいいの?」って

伊予柑:さみしいおじさんを救うにはどうしたらいいんですか?

ぷろおご:さみしいおじさんが覚悟をきめるしかないですよ、やっぱり

伊予柑:覚悟なんてきめられないよ・・

ぷろおご:どうなんですかね。「現実を見て、」って覚悟するしかないみたいな雰囲気は感じますけどね結局、結婚して、子ども産んで、って

伊予柑:そうですね、結婚はきてますね


ぷろおご:結局、そっちのほうがゆたかなのでは?というのだよね。新自由主義に失敗した人々が露呈したおかげでネタバレをくらって

「あっ、このルートで行くとさみしいおじさんになってパパ活を続けるしかないんだ。それよりは子どもがいて、嫌なことはあるけど、それを一緒に乗り越える仲間がいたりして、そっちのほうがゆたかだよね。」って。そういう雰囲気を感じる。覚悟というか絶望ですよね。

こっちにいけば光があるとおもって、自由になろうとして、浮気もなんでもし放題だし、好きな時間に好きなことができる、自由じゃん。っておもうんだけど、ほとんどの人は使いこなせてない。

たぶん、「オレよりもあいつのほうがすごいのに。あのすごいやつが持て余している自由というものにオレは飛び込めるのか。オレはそんな大層なものはできない」ってなるわけじゃないですか。

そしたら結局、「ウン、結婚して、子どもがいたほうがいいのかな」ってなっていく気がしなくもない


自分の感情がわからなくなってしまったら、演劇をやるしかない


伊予柑:部活がほしいですね

ぷろおご:会社は学校でしょ?

伊予柑:はい、会社は学校です

ぷろおご:学校じゃない会社ってなんの価値があるんですか?みたいな

伊予柑:そういう意味で会社の学校性は見直されそうですね

ぷろおご:もっと学校になっていく。ぜんぶコンカフェになるとおもうんですよね。あらゆるサービスがコンカフェになっていくとおもっていて、コンセプトがなきゃおもしろくないですよ。

なにが欠落してるのかってコンセプトなんですよ。それこそ演劇の話。どういうふうにしていくかというコンセプトがあり、そこに従わなきゃいけない雰囲気があるから演劇がはじまるわけじゃないですか。

ここは学生コンカフェだからおれは学生の役で、みたいな。そういうのがあるからようやく入り込めるんですよね。それがないとみんなたのしくない

伊予柑:俺はコンカフェが頭のなかで婚カフェに変換された。会社は婚活カフェであるというのも響くなと思った

ぷろおご:なるほど、そっちもありますね

伊予柑:昔々の、神話の伝説によると一般職の女子は、結婚のために就職したらしいじゃないですか

ぷろおご:ほう

伊予柑:昭和のころはね

ぷろおご:そうなんだ

伊予柑:らしいんですよ。男性は総合職でバリバリで、女性は一般職で寿退社のために入社したらしいんですよ

ぷろおご:あれ、ナースのはなし?

伊予柑:ハンター?

ぷろおご:医療系ハンター?



伊予柑:改めて、結婚に向いた職場とかは流行りそう

ぷろおご:そうですよね。婚カフェ、出会いがある。学校って全部ありますもんね。部活するとマネージャーの女の子もいるし、自分のなかで出会いの最大化をはかるわけじゃないですか。陽キャグループに頑張って居座るためにスシローでぺろぺろしたりとか、とか

伊予柑:県大会で他校生と出会ったり


代替できるものと代替できないものはどう見極められる?


伊予柑:そうするとスラムはちょっと新自由主義なんじゃないですか?

ぷろおご:そうですかね?結局みんな戻ってくるじゃないですか。ほかにないから自由じゃないのでは?

伊予柑:もうちょっと学校になったほうがいい気がする


ぷろおご:そこらへん、うちはうまくやってるなあとおもいますけどね

新自由主義っぽいものしか入口にきてくれないじゃないですか。それで、入ってから自由だ〜とおもって抜けるんですけど、戻ってくるじゃないですか、戻ってくるとはどういうことかというと、ここで得たものはほかで得られなかったってことなんですよ

はたしてそれは、自由なのかしら・・

依存性のある違法薬物を使用するかはその人次第じゃないですか。で、それは自由ですか?っていうはなしで。依存物質って自由じゃないですよね。そこですよね。結局、人間関係も依存性だとおもうんですよ。

その人との関わることで得られるものがあって、それはほかの人からは得られないわけですよ、絶対に

似たようなものをおなじだと思い込むことはできるし、そのための演出がいろいろなされれば、思い込み続けられるんだけど、べつのものなんですよ。かけがえのないものって代替ができないし、すべては依存性なんですよ。

コミュニティなんて完全にかけがえのないものの集合体なわけで、ひとりメンバーが変わったって、かたちは変わるわけですよね。そこになんかこう、出入りは自由ですよ。って言うのは、なにも言っていないようなものだとおもう


どこまで代替可能かを考えることと、どこまでが自己か境界を考えることは同義的であるか?


伊予柑:新自由主義って代替可能性を追求するんです。それはスケールメリットをだしたいからで、

ぷろおご:アルバイトの学生ですよね

伊予柑:そう、それとマクドナルドは全部同じマクドナルドじゃないと困るわけなんですよ。ひとつひとつ異なってはならない

ぷろおご:どこのマクドナルド行ってもフィレオフィッシュ食べれますもんね

伊予柑:そう。で、コミュニティはそれぞれ個別ですよね。ってなると定食屋の味なわけですよね。それぞれの店があって、それぞれの店がある。コミュニティが流行っているのは定食屋への回帰なんだな、と


ぷろおご:居酒屋、赤ちょうちんってずっとあるじゃない?まさにあれは新自由主義ではない価値観だよね。そこでしか食べられないものを食べたいから行っていたり、そこに行かないと会えない口うるさいおばさんがいるから行くわけですよね。

ユニクロを着て生活する、新自由主義じゃないですか。でもべつに、ユニクロを着たからすべてが新自由主義かというとまったくそうではなくて、スナックにも行くし、学校にも行くし。会社はテレワークかもしれないけど、結構おもしろいし。割合だとおもうんですよね。

どこで必要最低限のものを代替可能なレベルで得て、代替できないものがあることも否定しないというか。人間関係なんてまさにそうだけど、代替可能な人間関係って人間関係として破綻してるよね、とかってところを思い出して戻していくという


物語のほかに自己を保証するものはあるのか?


伊予柑:最初のテーマに戻ってくると、新自由主義にお金を使うところがなくなったんですね

ぷろおご:たぶんそうですよね


伊予柑:新自由主義ではないところ、めんどくさいところ、かけがえのない定食屋みたいなものにもお金を使えるが、お金を使わなくても手に入る。

そうすると、あんまりお金要らないよねって話になるんだけど、工夫できない人はお金使おうね。パパ活は新自由主義のほうだからあんまりここにお金を使わないほうがいいよ、という



ぷろおご:ホストとかは意外と古風なんですよ。入り口は自由ですよ。代替可能っぽいガワをしてるんです。

でも、登場人物になったら、「私」が入り込むわけじゃないですか。そうなると、そこにはほかでは得られない要素がある。この男に一位になってもらいたい。だからいくらでも突っ込むわけですよ。

だってその関係性が失われたら物語は終わってしまうんですよ。ホストはまさに昔ながらのかけがえのない人間性を売っている数少ない場所だから、あれだけ繁盛し続けてるんだとおもっていて


与えられた役割をこなすことと、機能として個性を発揮することのちがいはどこにある?

伊予柑:かけがえのないプロ奢ラレヤーさん、2万円を受け取りながら・・


ぷろおご:おれはどうなんだろうね。おれはそこまで関係性ないかもね。みんな苦悩を抱えてらっしゃって、おれは人間の苦悩がすきだから、それを消費しあってるみたいなところはあるけど

ぷろおごの生態:苦悩を食べる


伊予柑:リピーターは少ない?

ぷろおご:少なくはない

伊予柑:その人たちは関係性なんですか?

ぷろおご:関係性もあるのかな、どうなんでしょうね。おれはだいたいの人間関係に関係性を感じるひとですよ


伊予柑:むこうは定期的なカウンセラーとして使ってるとかもあるんだろうしなあ

ぷろおご:そういう人もいるだろうけど、そういう人はリピーターにはならない

伊予柑:そうなんだ。じゃあ関係性の人がリピーターになるんだ


ぷろおご:なるんかな。機能っていうのはリピートのしようがないじゃないですか。一度、その機能を味わったら要素が分解できるわけでそうすると、よっぽど希少なものを提供していない限り、ほかのものでも代替できるじゃないですか。

付加価値、希少価値ってビジネスは言うんだけど、それの最たるものがやっぱり人間関係だから、その飲み屋にしかいない人たちがいるから、そこにいくわけじゃないですか。それっぽい雰囲気でこういう歌を歌うやつらの店はないですか?って言ったらほかにもあるけど、べつの場所なわけですよ。

そういう意味で、いろんなところでつながりが欠損したのは、みんながあまりにも自由になりたがったからだとおもっていて、でも自由になった方々がなにをしていらっしゃいますか?っていうネタバレが最近でてきているから、

あれ?自由になってもしょうがないのでは?ってなってるよね。これからは物語が充足して、もっとネタバレされていく気もしてる。


なにを選んでも、選ばなかった選択肢が生じてしまう。なにが手に入るのか比較するのではなく、納得できる物語を歩もうと選ぶことは、有効な一手となるか


ぷろおご:自由のほうがいいよね、っておもってきた人たちはその後…っていうのは物語としてすごいバリエーションがでてくるんですよ。

昨日もツイッターでそういう結局子どもは産んだほうがよかったみたいな60歳の人の、ドラマなのかフィクションなのかわからない投稿があって、

20代のころに思い描いていた素晴らしい暮らしと40代、60代になったときの自分がおもう素晴らしい暮らしは変わっちゃう。今になってみると子どもいたらよかった。とはいえ、そのときはそうおもわなかった、みたいな話だった。

そうやっていろんな物語のなかで絶望のバリエーションが増えると、おれもこの絶望をしそうだっていう納得がどこかでうまれて、みんななんだかんだ自由になってもしょうがないのでは?ってなっていく気がする。

そのときに行き着くのは、今の彼女と結婚しようとかそのぐらいだとおもうんですよね。会社の関係性はめんどくさいけど仲良くしようとか、しょうもない親だけど行ける範囲で実家に顔を出そうとか、そういうふうになっていく気はしますね

伊予柑:新自由主義と貧困、

ぷろおご:このへんは堀がいがありそうですね

伊予柑:買える世界と買えない世界

ぷろおご:代替性はキーな気がする

伊予柑:買えない世界を充実させようという言説ってちょっと少ないんだよね。あるようでない、

ぷろおご:たとえばなんだろう、買えない世界

伊予柑:ふつうに実家を大事にしよう、とかね

ぷろおご:めんどくさいですからね。地味なんですよ、地味なものって売れないですから。でも、ゆたかなものってのは地味なほうにしかないですよね


伊予柑:それで、苦手なことをして生きていくっていうのが一番ゆたかなのでは?にはいきつつあります


特別な人になれば、特別に扱われるのか?


ぷろおご:だって、代替できるってことは代替されちゃうってことなんですよ。それが嫌だからみんな、なにかやってるわけでしょう。

何者かになりたいみたいなものと代替する/されるっていうのは、相反した概念じゃないですか。でも、なんかわかんないけど、何者かになったら人々を代替可能にできるからいいみたいなのをおもってる人が多いのよ。

どんな人間であれ、代替不可能性をちゃんと認識して接しないことには、なにも起きないわけで・・

伊予柑:それって・・・オレとお前は

ぷろおご・伊予柑:友達だよね


伊予柑:って言うのがこわいってことだよね

ぷろおご:そう!代替できなくなっちゃうからなんですよ

伊予柑:パパ活したおっさんもオレとお前彼女だよねって言うことは不可能ではないはずなんですよ。もしくは継続的な愛人でもいいんですけど、

ぷろおご:彼たちは例外で、そうなりたいんですけどね

伊予柑:本当はね

ぷろおご:「オレたち恋人だよね」って言う人もいるんですけど、それは演劇なんで。実際なってしまうと、嫁がいるとかいろいろな問題があるのでむずかしいんですけどね。絶望の会話になってしまった

伊予柑:うーん、もやもやとしつつ終わりますが、金で買えない世界をどう扱うかは引き続き考えていきたいですね。ありがとうございました

(新自由主義と貧困 完)





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