自分は褒めて育てられなくて良かった

褒められた覚えのない少年時代

私は子供の頃、両親から褒められた覚えがない。

と言っても、よほどのヤンチャ少年で毎日叱られてばかりいたからだ、というわけではない。いや、実は叱られた覚えも(あまり)ない。

では、両親から無視されてネグレクト状態だったか、と言えばその全く逆だ。私の両親ほど、子供を心配しかつ信頼してくれる親はいないんじゃないかというくらいに愛を注いでくれた。

冒険家という生き方

私はいま「北極冒険家」という肩書きで生きている。「子供の頃から冒険家に憧れていたんですか?」と質問を受けることもあるが、私は子供の頃どころか、北極に通い始めて20年になるいまだに「冒険家」になろう!と思ったことはない。

「北極冒険家」とは、北極で冒険してるから肩書きとして名乗っているだけで、あくまでも対外的なもの。肩書きとは他者のために存在しているものであり、自分のために名乗るものではないと思っている。自分のために名乗る人のことを「ナルシスト」と言う。

私は他人から自分どう見られているか、であるとか、いわゆる他人からの「評価」というものを気にしない性質である。それはかなりの度合いで気にしないと思っている。まあ、当然多少は気にする、が、自分の行動原理の根底に「他人の目」というものが全くと言っていいほど介在していないと自覚している。

22歳から北極に通い出し、就職もせずバイトで稼いだ金は毎年北極で使い果たし、そのまま30代を迎え、そしてもう40代に突入している。これまでに「周りの友人たちが結婚したり、管理職になっていったりして、俺は何やってるんだろう」と悩んだことは、マジでゼロだ。別にいいじゃん、人は人、俺は俺、で全て済ませてきた。

評価を価値基準にしない育ち方

では、なぜこんな性格として育ってきたのだろうかと思い返すと、それは確実に私に対する両親の育て方にあると思う。

私は子供の頃に褒められた覚えがない。つまり、何かしらの行動を私が起こし、それが一般的に「良いこと」であるとされることに対して、両親からの賞賛や褒賞を受けるということがなかった。

世間一般的には「子供を褒める」は良い育て方だという風潮がある気がするが、私自身が褒められてこなかった身から言うと、私は自分の両親には「よくぞ褒めてくれなかった。ありがとう」と感謝の思いしかない。

私は、褒めるも叱るも、共に根底は同じで「評価」だと思っている。

「叱る」は分かりやすい評価だ。やってはいけない事であるとか、約束を破ったことによって「それは悪いことだ」と評価されている。

「褒める」は分かりにくい評価、だと思う。「褒める側」のある一定基準が存在し、そこに合致することで「褒める」という結果が生まれる。褒められる側は、基準をクリアしたことで「褒められる」という結果を得る。つまり、評価だ。

評価することの害悪

評価を過剰に受けて育った人は、物事の善悪判断や行動原理に「評価」を意識するようになる。

つまり「これをやったら人はどう見るかな?」「褒められるかな?」「叱られるかな?」「褒められるから、やろう」「叱られるから、やめておこう」

この意識に囚われると、人が見てるから「良いこと」をする、見てないからやらない、と常に他人の目に意識を奪われていく。

この意識が加速していくと自分だけでなく、他人にも「他人の目」を意識することを期待する。「あいつは何の意味もないことをやって、馬鹿だ」となる。「意味」って何だ??その「意味」を定義付けようとしているのは、馬鹿だと罵る人自身の価値観に基く評価である。自分の評価基準に満たない他人は、馬鹿だという判断になる。行動を起こしている当の本人は、十分な意味を感じているかもしれないのに、そこを考えることは最早ない。

口を出さない、手を出さない、目は離さない

では、私は子供の頃に放置プレイでずっと育ってきたかというと、全く違う。

私の両親のスタンスは「口を出さない、手を出さない、目は離さない」であったと、今になると分かる。

あれをやれ、これをやれ、もしくはあれをやるな、これをやるな、と言われた覚えがない。何か私がやろうとする、その先回りをして余計な手を出してくることもない。しかし、両親は常に目は離していなかった。何も言わないのだが、子供のことを心配し、親の価値観を押し付けず、常に子供と同じ地平で物を見て、時に人生の先輩として大事なことは教えてくれたのだ。

私が何かやって、それを褒めるということがなかった。評価を一切受けずに育った私がどうなったかといえば、自分の行動原理の根底に「他人の目」が介在することが一切なくなった。サルトルは「地獄とは他人のことである」と言っている。人は、自分自身に向けられている他人のまなざしによって自らを規定されることで他有化されるという。自己を盗まれ、それを克服するには相手を見つめ返すしかないのだと。

「他人の目」への意識が低くなった私にとっては、どう見られようが、相手からどう規定されようが「まあ、相手がそう思うなら仕方ない」と思えるようになった。程度はある。あまりにも酷なことを言われれば、当然嫌な気持ちにはなるが。

評価せず、価値観を伝える

親が子供に与えるのは、評価ではなく「価値観の表明」で良いのではないかと思う。これは正しいと思う、これは間違っていると思う、これは美しい、これは素晴らしい、と親が表明するだけで良い。子供は必ず親を見ている。押し付けなくても、その表明に嘘偽りがなければ、子供の心には響いているはずだ。逆に、二言目には誰かの悪口や不平不満を口にしていれば、子供はそれを価値観としてどんどん吸収していくだろう。おぉ、怖い。

いま、私自身も子供を持つ身になると、自分の両親の偉さが身に染みて分かる。言うは易し、行うは難しとはまさにこの事だ。でも、自分に接してくれた両親のように、自分も子供に対してはそんな姿勢を通したいと思っている。


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