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能動的受動がもたらさない変化と、アフターコロナの変化

昨年の若者たちとの北極冒険に参加した、最年少の大学生ミホが、一年経って彼女の視線から冒険を振り返っている。

スタート前からぜひ読み返してもらいたい。素直な気持ちが飾られずに語られていて、そうか、こんなこと考えながら歩いていたのかと、私自身も気付かされる思いがする。

彼女は、600kmの冒険を終えて「超期待外れ!」だったと書いている笑

この気持ちは、もの凄くよく分かる。なんなら、こう思ってもらうために、北極に連れて行ったと言っても言い過ぎではない。

私自身、北極冒険を始めたスタートは、今から20年前に、冒険家の大場満郎さんが企画した若者たちの北極徒歩冒険に、いち素人の若者として参加したことがきっかけだった。

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右から2番目が20年前の私。当時22歳。初めての北極、初めての海外旅行、初めてのアウトドア活動。

当時の私も、自分の現状への不満なき不満、向け場のない鬱屈、有り余る根拠なき自信、それらのエネルギーを持て余して、どうにか現状打破の特効薬を求めていた。大学もやめ、悶々としていた時にテレビで語る大場さんを知り、そこで北極計画を知った。

当時、私も北極冒険に対して大きな「期待感」を持っていた。この冒険を行えば、俺は悟りでも開いてもの凄いことになるんじゃないかと(大げさに言えば、ね)思っていた。しかし、冒険後に見知った日本での日常に帰っていく自分の姿に気付いた時に、こんなはずじゃないのに、という「期待外れ」に苛まれた。そこからのさらなる脱却を図り、翌年一人で北極へ行くことになった。

昨年のミホも、20年前の私も、他人の目からは「行動力あるね」「積極的だね」と映る。しかし、そう言われるほどにむず痒くなり、「はい!ボク、行動力あります!」とサムズアップでウインクしながらドヤ顔するような、恥ずかしことができなくなる。他人にそう言われるほど「いや、そうじゃないんだけどなぁ」という思いが募っていく。

私は、初めての北極に参加する前、「北極に変えてもらう」ことを期待していた。確かに自分で手を挙げて参加し、自分の足で歩いているのだが、その本質は大場さんに歩かせてもらい、北極に変えてもらうことを期待していた。「能動的受動」「積極的受動」とでも呼ぶような、根底にあったのは受動的な考え方だった。

翌年、一人旅が始まった時から、ようやく「能動的」な行動が始まったと感じている。それも全ては「期待外れ」という経験を経て、そうか「自分で変える」という意思によってしか何も動き出しはしないんだ、という当たり前のことを、身体を通して体験として知ったからだ。

「能動的受動」では、望むような結果を導き出せなかった時に、環境や他人にその原因を求めてしまう。そこで自分の外部に原因を見つけられない時に、さらなる悩みが生まれてくる。「能動的受動」を乗り越えて、「能動的」に自分の意思と責任を自覚して動き出した時に、初めて「自分の行動」をも自覚する。やっと、眼が開くのはここからだ。

いま、世の中はコロナショックで混沌とし、アフターコロナだかウィズコロナだか、新しい生活様式の模索が始まっている。以前の様な状態には戻ることはない、なんて言う人もいる。確かに、今回のコロナウイルスはこれまでの我々の生活や「あり方」みたいなものを見直す機会にはなったと思うが、私はすぐ先の未来はこれまでと同じ生活様式が待っている気がする。特に、大きく何かが変わるなんてことはないんじゃないかなぁと。

「コロナウイルスに生活様式を変えてもらう」ことを期待していても、そんな「能動的受動」では何も変わらなかったという、体験を通した経験を持っているから。

いや、これからの生活様式を変えていかないと、同じ様な事が起きた時に立ち行かないから変えていく必要がある、だから能動的だ、と言う人がいるかもしれないが、それもかなりの受動状態だよね。言ってみれば、開国する気もなかったけど、ある日突然黒船がやってきて、外圧と国際状況によって致し方なく明治維新が起きました、みたいな事だ。変わらざるを得なければ、必然的に変わっていく。ただ、そうやって受動的に始まった行動も「能動的受動」を乗り越えて、多くの試行錯誤を経て「能動性」を獲得していく。それしか、変化に対応していく道はない。その道のりは、極めて冒険的だ。

このコロナウイルスはいい機会だから、これを機に生活を見直して変えていきましょう、だって、その方が色々と都合も良いし、というのは一応は筋が通っているが、思う様な結果が導かれなかった時には、その原因を他者に求め始めるだろう。自分はこれからの未来を思って生活様式を変えていこうとしているのに、政府が!会社が!あいつが!と自分の外部に戈を向けても仕方がない。切羽詰まれば変えざるを得ないんだし、それでも変わらないのであれば、まだその時期じゃないってことかもしれない。結局は、一人ひとりの自覚の問題でしかないんだけどね。

でも、そうやって「能動的受動」を乗り越えていった先には、きっと緩やかに生活様式を変えていく道がつながっているはずだ。

人は変化には敏感だが、変わらなかったことに目を向ける機会は少ない。しかし、大事なことは変化したことの中にあるのではなく「変わらなかったこと」の中にこそあるのではないだろうか。

「変化」への期待を自分の外に求めるのではなく、最終的には「内なる声」によって「変えていく」という能動性を持つことで、意思も責任も行動も獲得できる。そんな一人ひとりの自覚によって、寛容で、緩やかな変化を伴う社会を築いていけるのだろうと思う。

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