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文化の盗用と無自覚な応援

山の世界も、冒険の世界も、知らず知らずのうちに「文化の盗用者」がメジャーな舞台に躍り出る。

冒険や探検にはルールがない。スポーツにはルールがある。

ルール、規則という、外側に立てられた基準に従うのがスポーツ。一方で、外側ではなく己の内面の基準である、倫理やマナーに従うのが冒険の世界。

倫理とは、倫(なかま)の理(ことわり)のこと。人と人との関係性のこと。

冒険はひとりで、自然の中に行くのに、その「なかま」って誰のこと?と言えば、いまの自分に至るまでの過去の探検家や冒険家たちの試行錯誤と営み全般のことをさす。

言葉をかえれば、歴史の積み上げ。

つまり、それは「文化」のことでもある。倫理やマナーを、何に対して持つかと言えば、文化に対する尊重だ。

しかし、いつの時代にも文化の盗用者がいる。つまり、自分の都合よく過去を利用する存在。文化の盗用とは、服部文祥さんが書いていた文言。上手く言い当てたと思う。

これは、歴史の流れを理解した人でないと、何が盗用なのか、文化の系譜にいるかが分からない。一般の方々には、分かりにくいだろう。

例えば、冒険の世界には「記録」というものがある。山であれば◯◯山の初登頂、◯◯壁の冬季単独初登攀、といったものだ。

なぜそれに価値があるか?と言えば、困難な課題に対して、多くの登山家が試行錯誤をして、ある人は命を落としながらも挑戦し、その中から成功者が現れたことへの尊敬の念があるからこそ、価値が生まれる。

その歴史の積み重ねが文化となる。

山に登る人は、自由に登れば良い。ルールはない。逆立ちして登ろうが、途中で降りようが、そんなことは全て自由だ。しかし、もし歴史の積み重ねの中で出来上がった文化である「記録」に手を出すのであれば、文化への尊重はマナーとして必須となる。

あえて書いてしまえば、栗城くんは文化を盗用していた。ただ、私も個人的に付き合いがあったから言うが、人間的には良いヤツだった。が、文化の盗用であることには違いはない。

難しいことが分からないと、いくら文化の盗用だと言ったところでそれを見る一般の方々は「感動したから良いじゃないか」「挑戦するのは良いことだ」云々と反論が出る。

文化の話しと感動の話しは、別の話し。しかし、それが理解できない。

応援するのが悪いというのではない。挑戦する人を応援するのは良いことだ。だが「挑戦する人を応援するのは良いこと」というのは社会の理論である。応援される挑戦者が向かうのは、社会の理論が通用しない自然の中だ。人は自分の想像力の射程を超えて物事を考えるのは難しい。都市生活に慣れ、人間社会の理論が地球全体の真理のように感じてしまえば、私の言っていることは理解できないかもしれない。

個人名を出すのはいかがなものか?と思う人もいるだろう。本人が盗用であれなんであれ、文化に手を出した時点で、文化的に批評を受ける立場にある。本人がもう反論できないのに、それはいかん、という事もわかるが、私がこれを誰に向けて書いているかというと、栗城くん自身だけではない。栗城くんの挑戦を消費した人たちにも向けている。

文化の盗用者への無自覚な応援に対する反省がないと、次の消費対象を探してしまう。世の大勢が、冒険をコンテンツとして消費に走ることへの反省がなければ、冒険探検の行為者の中から再び商品として振る舞うものが現れ、同じことが起きる。

かつて栗城くんを囃し立てて持ち上げた人たちの多くの口の端に、いま彼の名前が出ることは極めて少ない。過去の話だろうから。しかし、立場は違えど同じ「挑戦者」として活動する、多くの山岳、冒険関係者にとっては全く終わった話ではない。

これが肌感覚的に理解できないと、なかなか冒険のレベルは上がっていかない。

なぜなら、世の人々が、冒険を感動や楽しむための消費するコンテンツと同列に扱っているという事だからだ。

別に、冒険や探検が高尚なものだと言うわけではなく、なんならその逆。人間の衝動に近い、基礎的なレベルにある営みなのだが、消費するコンテンツとしか扱えなくなると、行為者自身もコンテンツのための商品であろうとしてしまう。

コンテンツのための商品とは?それは自分の外側に立てられた基準に沿おうと動き出す。それはスポーツだ。内側の倫理やマナーに従う行為ではない。

なぜ一流のスポーツ選手に心惹かれるかといえば、外側の基準に対しても、自己の内面の基準に対しても、真摯であるから。だから、一流の選手は過去の選手に対する尊敬の念が強い。文化を大切にしているし、自分が文化の系譜にいることを自覚して、それを繋ごうとしている。

スポーツと冒険の最大の違いとは、それは死がすぐそこにあること。なぜスポーツにルールがあるかは、人が死なないため。外側のルールで強制力を持って、怪我や死亡を回避する。しかし、それがない冒険では誰も止めてくれない。

個とはなにか?社会とはなにか?公共とはなにか?そこの意識の欠如が、文化の盗用を生み出し、それを育てる。

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