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冒険と読書の同一性。主体性の話し

探検とは何か

 今から100年以上前の1911年12月。ノルウェーの偉大な探検家、ロアルト・アムンセン率いるノルウェー隊が南極点に人類初到達をした。
 しかしこの時、南極点初到達を目指したもう一隊が存在した。それが、イギリスの海軍大佐ロバート・スコットが率いるイギリス隊である。
 スコット率いるイギリス隊が南極点に到達したのは1912年1月。アムンセンたちに遅れること一ヶ月。スコット一行が苦難の末に辿り着いた南極点で見たものは、アムンセンが残したテントとノルウェー国旗だった。

 スコットら5名は、そこで初めて南極点人類初到達のレースに敗れたことを知り、失意の中で帰路に着く。しかし、その帰路は不運も重なり、スコットら5名のイギリス隊は途中で全滅、遭難死という悲運に終わった。
 スコットらイギリス隊に何があったのか、それをまとめたのが、極地探検記の名著「世界最悪の旅」である。
 著者は、南極大陸の沿岸部に設置された拠点基地で、スコットら南極点遠征隊の帰りを待っていた、イギリス隊後方支援隊員のアプスレイ・チェリー=ガラードである。
 この本の中で、チェリー=ガラードは「世界最悪の旅」の題名に全く遜色のない苦難の探検の全貌を書き残している。私が最も感動するのは、本書の最後にチェリー=ガラードが書いた一文である。彼は、探検とは何かをこう述べる。

 「探検とは、知的情熱の肉体的表現である」

 世の多くの人々は、冒険や探検と聞くと、寒い、疲れる、痛い、そんな肉体的な辛さを想像する。肉体的な部分で表現されるものは、動物も同じだ。我々人間には、肉体的な表出の前に知的情熱がある。何かを見たい、知りたいという知的な欲求。それを、肉体を通して表現したとき、探検になるのだとチェリー=ガラードは言う。
 この言葉とは、読み方を変えれば「人間とは何か」をも語っている。

 「人間とは、知的情熱を肉体的に表現する生き物である」

 私にはそう読める。
 知的な活動と、肉体的な活動は、人間である以上は切っても切り離せない関係にあるのだ。
 知的情熱とは、好奇心や科学的志向性のこと。それは誰のものか?他ならぬ自分自身の内側から湧き出るものだ。それをやったらどうなるか?とか、得する褒められる利益がある、という打算ではない。思わず体が動いてしまうという、人間が根源的に持っている情熱だ。
 思わず体が動く主体性、それを実行に移して肉体的に表現することが、探検である。

 読書とは何か

 200年前のドイツに生きた哲学者、アルトゥル・ショウペンハウエルは、著書「読書について」の中で、読書とは何かをこう語っている。

 「読書は言ってみれば、他人の頭でものを考えることである」

 かなり辛辣な内容で、ショウペンハウエルは読書に関して持論を展開していく。先程の文章だけを切り取って読んでしまえば、読書はあまり良くないものだと感じてしまうが、私の解釈はそうではない。先程の言葉は、他人の頭ではなく自分の頭で考える読書をしなさい、というショウペンハウエルからの戒めであると感じる。

 他人の頭で考える読書、自分の頭で考える読書とは何か。

 本を読みながら、本の中に答えを探してしまう人がいる。
 その著者が高名であればあるほど、内容を権威化し、御神託を授かるかの如く情報を自分の脳内にダウンロードする。その情報を、さも自分の知識のようにコピペしながら口からベラベラ述べる時、まさにショウペンハウエルの語る「他人の頭で考える読書」をしていることになる。

 そこに、読者自身の主体性は存在しない。

 本に書かれた内容とは、あくまでも「著者の答え」である。
 自分で考えたことでもない、著者の答えを全コピーして喋る行為を、ショウペンハウエルは「他人の頭で考える」と指摘する。
 現代であれば、情報をダウンロードして、コピペして喋るのは機械が行うことだ。それは人間の営みではない。
 他人の頭で考えている限り、それはただ機能として知識を脳内のストレージに溜めていくだけで、すぐに高機能な機械に代替されてしまう。
 人間の営みとは、本の知識を参考にしながらも、そこに自らの体験や主体的な価値観を織り交ぜ、自分の意見としていくこと。読者自身の答えがどこにあるのかといえば、言うまでもなく読者自身の頭の中だけだ。
 最終的な自分の答えに至るための、ガイド役として本は存在している。
 本を参考にしたり、そこから学ぶのが悪いと言っているのではない。無自覚に、ある一つの視座からの意見を絶対化してしまうことの危険性を言っている。

 冒険と読書の同一性

 読書において大切なのは、自分の頭で自らの答えに至ろうとする「主体性」である。
 冒険においてもまた、主体性は最も大切なキーワードとなる。
 冒険にはルールもマニュアルもない。一方で、スポーツには明確なルールがある。
 ルールとは、怪我や事故を予防するために、あらかじめ決められたものだ。それは、行為者が決めたものではなく、行為者自身の外側に立てられた基準となる。
 冒険にはそれがない。冒険者自身を縛るものとは、外側の基準ではなく自らの内側に立てられた倫理観や価値観だ。
 その自らの内側の基準を、主体性を持って作り上げていく過程が冒険探検の最も大切なこととなる。

 冒険とは自由な行為である。どこで、誰が、何をしても良い。しかし、その中に自分自身で基準を設けるのである。
 倫理観とは何か。和辻哲郎は倫理を「なかま(倫)」の「ことわり(理)」であると書く。人と人との関係性のことだ。
 私は極地の現場で、主に単独行で旅をしている。無人の世界で、そこに他人との関係性は存在しない。では、私は誰に対しての関係性を築いているかと言えば、過去の探検家や未来の冒険家たちとの、時空を超えた関係性だと思っている。
 私はかつて、冒険家の大場満郎さんに連れられて北極を訪れた。大場さんは冒険を志した当初、植村直己さんに相談し、北極への冒険に出た。植村さんにも西堀栄三郎や多くの先輩がいて、またその先人たちがいる。
 人間の営みに限らず、地球上の生命の営みとはこの繋がりの中にある。いま私が極地で自分の冒険をできているのは、過去数多くの先人たちの試行錯誤と、生命の犠牲も経た歴史の果てである。
 私自身とは、連綿とした繋がりという「機能」を果たす、数多の無名の一存在でありながら、他ならぬ「自分」という「祈り」に満ちた冒険を行う私自身である。

 この繋がりを、後の世に繋ぐ人が必ずいる。無人の世界で私が感じる倫理とは、過去と未来の人たちとの関係性だ。
 私が訪れる北極圏の各地は、かつて植村直己さんが活動した地域でもある。四〇年以上経過した今でも、イヌイットの村で植村さんのことを懐かしく語る老人と出会う。彼らは皆、植村さんのことを尊敬し、人間性を愛していた。
 そのおかげで、いま私を日本人だと認めると親しげに接してくれる。
 もし仮に、植村さんが行く先々で悪事を働いていたら、現在の私たちが迷惑を被っていただろう。
 イヌイットの友人たちとの、些細なやりとりの中にも、すでにこの世にいない過去の探検家の気配がある。その気配を感じることで、改めて自分の行いを顧みる。自分の行いが、後の世の冒険家たちに迷惑をかけていないか、その心の動きこそが倫理観だ。

 過去の探検家たちとはもう会話はできない。彼らが何を考え、何に悩み、喜び、苦しんだのかを知るのは、本をはじめとした記録から知るしかない。
 私は、過去の探検家たちの記録を読みながら、そこに書かれた内容を自分ごとに置き換え、いまこの時空に存在しない人たちとの同一化を図るように、知識と経験を身体の一部としていった。
 その過程とは、主体性によって行われる。過去の探検家を絶対化するのではなく、あくまでも自らとの相対として捉える。歴史の一端を担う機能としての自分と、他ならぬ私としての祈りの自分のバランスをとることが、私であることだ。
 その時、倫理観というものは私が設定するものではなく、過去の探検家たちも同じように受け継いできた、すでに設定されたものであると知る。自らの内側に設定する倫理観や価値観は、最終的にはすでに「ある」もので、自分でそう「する」のではない。
 すでにそう「ある」ものを発見する過程に、主体性がある。本当の主体は私ではなく、関係性にこそあるのだ。

主体的な視座の獲得

 本を読むことは、自らの主体性を大切にしながら、そこに書かれた著者の答えを誘導役として自分の視座を獲得することだ。
 視座とはものを視る座(位置)のこと。
 富士山とはどんな形かと問われ、末広がりの八の字型に描くのは地上から富士山を見上げた視座である。宇宙ステーションから見下ろした視座では、地上に丸く広がった円形となるだろう。
 視座とは、物理的な対象への話だけでなく、価値観においても同じだ。何を正しいとするか、何を間違いとするかは、それぞれの人の立場、視座によって変化する。
 唯一絶対の答えなど存在しない。すべての答えは一つの問題、存在に相対する人の視座によって変化する。

 そんな当たり前のことであるが、人は案外視座が固定化されていくことに無自覚となる。
 常識、当たり前、普通、そんな言葉で自分と異なる意見を間違いだと切り捨ててしまう。富士山を見上げながら、ある人が地上に広がる円型を描いた時「馬鹿じゃねーの、富士山は八の字に決まってるじゃん」「みんなも八の字に描いてるよ」「当たり前のことも知らねーのかよ」という、多数者の横暴を常識と呼び、少数者を排除する。
 豊かな想像力で、地上にいながら宇宙の視座で物を見る人を、視座が地上に固定化された人たちには理解ができない。

 他者の視座が理解できずとも、多様な視座があるのだという事実を知ることはできる。その一つの手段として、読書が存在する。

 本の中には、2500年前のプラトンの視座も、800年前の親鸞の視座も、100年前の太宰治の視座もある。それらの視座もまた、これが答えであると絶対化するのではなく、あくまでも読者自身の視座に至るための相対的な他者の意見として耳を傾けつつ、自分の頭で考える読書をすること、そこに冒険と読書に共通する主体性がある。


以上は、私がなぜ書店を開設したのか?の回答の書として書いた「書店と冒険」からの抜粋です。

完全版は、以下より購入できます。

https://www.bokenbooks.com/items/69131856

「書店と冒険」目次
●新たな冒険のはじまり
●若者たちと北極へ
●冒険研究所
●コロナウイルス蔓延がもたらしたもの
●桜ヶ丘駅
●機能と祈り
●澁澤さんの言葉
●桜ヶ丘という土地
●探検とは何か
●読書とは何か
●冒険と読書の同一性
●主体的な視座の獲得
●冒険研究所書店開設
●書店営業の日々
●自分にとっての幸せ
●書店における「機能と祈り」
●祈りの弱点
●高機能化社会のなかの祈り
●書店におけるバランスとは
●冒険研究所書店の周囲を数字で見る
●新しい「機能」の創出
●とは言え、冒険研究所書店はまだ新参


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