ショウペンハウエル「読書について」を読む

ショウペンハウエルは、今から200年ほど前のドイツの哲学者。

それにしても、なぜドイツには優秀な哲学者が多いのだろう。最近著名なドイツ人哲学者マルクス・ガブリエルは「哲学はドイツの見えざる皇帝だ」と言うし、カント、ヘーゲル、ハイデガー、アーレントなど枚挙にいとまがない。ショウペンハウエルはヘーゲルのことが大嫌いらしく、本書の中で「あれはロクでもない」とかなりディスっているが。

これは、書名が「読書について」であるが、読書と思索に関して考えを深めた著作である。これを読んでいると、私も常々感じていたことが書いてあって非常にスッキリした。

ページを開いて冒頭の第一行目で、完全に私は引き込まれた。

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。

蔵書も知識も、ただやたらとたくさん詰め込めば良いってものじゃない。きちんと整理して、真に理解しなければ意味がないと。

最近私もたくさん本を読むようになっているが、今はとにかく世の中に本の種類が多く、どんな本を読めば良いか迷うこともある。だが、私は完全に読み方が決まっている。それは、古典の名著を中心に読み、そこから必然的に派生して行く本を、数珠つなぎに読んでいく、という方法だ。

読書は思索の代用にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。
だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。

ショウペンハウエルは、このように「多読」の弊害を訴える。しかし、だからと言って本を読むなと言っているわけではない。読むなら読み方があると言う。

比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
幸い私は早く青年時代に、A.W.シュレーゲルの美しい警句に行きあたり、以来それを導きの星としている。「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

そして読書をする場合の注意をこう述べる。

もっともすぐれた頭脳の持ち主でも必ずしも常に思索できるとは限らない。したがってそのような人も普通の時間は読書にあてるのが得策である。ただすでに述べたように読書とは思索の代用品で、精神に材料を補給してはくれるが、そのばあい、他人が我々の代理人として、とは言ってもつねに我々と違った方式で考えることになる。多読に走りすぎてならないのはまさにこのためである。

いま、日本では毎年7万冊の新刊本が発刊されるという。毎日200冊、新しい本が世の中に送り出されていく計算だ。刊行される書籍でも、書店の棚に並ぶものですらほんの一握りでしかない。書籍以外でもネットのニュースサイトやら様々なメディアが情報を発信していく。とにかく情報過多である。情報が多すぎるためであるか、世の中のスピード感の故か、最近の書店で平積みされている著書のタイトルを眺めると「はい、この本にはこんな答えが書いてありますよ」的な物が多い気がする。情報が古くなる前にすぐ出して、すぐ売って、次を用意して、って魚屋じゃないんだから。

ショウペンハウエルの言う通りに、読書というのはその本の中に書いている答えを知るものではなく、自分の頭で考えるための材料を補給するものだ。その本の中に書いている「答え」とは、その著者が「答え」であると考えているものであって、読んだ人々万人に通用するような、魔法の杖みたいな便利なものではない。

いや、きっと万人に通用する「答え」が書いてある本もあるだろう。そのくらいは私にも分かる。技術書や何かの解説書、ノウハウ本などすぐに役立つ本もあるはずだ。それらが無駄であるとは言わないが(と言っている私の真意が「そんなもの役に立たねぇよ」と含んでいるのは察しの通り)おそらくそれらの多くは10年後、もしくは5年後、下手をすると来年には通用しない情報になっている可能性がある本だろう。そしておそらく、そのような「時代の変化と共に不要となっていく情報」に頼っている生き方というのは、きっとAI時代のシンギュラリティに飲み込まれて、情報どころかその人自身、その職業自体が不要とされていく生き方となってしまう可能性が高い。

本の中に「答え」を探して多読をし、自分の頭で考えることを放棄した人に待っている未来とはどのようなものであるか。

本の中に「答え」はない。あるのは常に「ヒント」だけだ。そのヒントですら、自分自身を惑わすものだと自覚する必要がある。

しかしそういう場合でも真に価値があるのは、一人の思想家が第一に自分自身のために思索した思想だけである。つまり一般に思想家を、第一に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、二重の意味で自ら思索する者である。それは彼らが真の哲学者、知を愛する者だからである。すなわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ち込んで事柄を知ろうと努めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ彼らの存在の楽しみも幸福もあるのである。
第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。その真剣な努力は他人本位である。

読書から思索の深みへと入っていくショウペンハウエルのこの言葉は「思想家」を「冒険家」と、そして「思索」を「冒険」と読み替えると、そのまま我々の立場に置き換えられる。

とにかく「周囲からの眼」だけを意識しながら「冒険家」を名乗る人間がいる。そんな人々の特徴は、自分が受けた評価を数値化し、わかりやすく定量化してアピールしようとする。自分はこんなに評価を受けているんです、凄いでしょう!と言いたくてたまらない連中のことだ。いわゆる承認欲求が過剰な状態である。スポンサー企業の数を競ったり、クラウドファンディングで集めた金額の多寡を賞賛の数と対比してアピールしたり、やたらと「○○初」といった他人が決めた基準によるタイトルにこだわる、というのがわかりやすい特徴である。やるのは勝手にやれば良いのだが、みっともなくて見ていられない。

ショウペンハウエルはじめ、素晴らしい古典を読むと、自身の背筋が伸びる思いがする。そして、自分も後世に何を残せるか、考えざるを得なくなる。それは何のためであるかと問われれば、自分のためだ。自分のために冒険し、思索をし、行なった表現は、時を跨いで必ず誰かの役に立つ。それで良いはずだ。

と、そんな私の著書が第9回梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞しました!やったぜ!タイトル取ったぜ!第22回植村直己冒険賞を受賞し、世界初のカナダ〜グリーンランドの単独徒歩行を成功し、日本人初の南極点無補給単独徒歩到達を果たしたこんな凄い僕の本を読んでくださいね!笑笑笑。書いたことは事実ですが、冗談ですからね笑


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