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社会的ルールからの逸脱の是非。なぜ冒険するのか


社会はルール(規範)によって動いている。ルールにも種類がある。一つは法律。法律とは、いま生きている人間が現在と未来のために、自分たちの都合によって適宜修正させながら、社会を円滑に動かしていくもの。

もう一つは憲法というものもある。憲法とは、今を生きている人々ではない、過去の人々が長く未来に亘っても変えるべきではないと思われる、基本的なルールとして定めたもの。例えば「表現の自由」や「基本的人権」など、いま生きている人、特に為政者の都合によって簡単に変えてはいけないものを憲法として明文化し、それを緩やかに時代に適応させていくもの。

明文化はされにくいが、倫理や掟というものもルールに近いかもしれない。和辻哲郎は、倫理を「人間共同態の存在根底としての秩序」であると述べている。あえて法律にしないもの、できないもの、でもそれを守ることで社会が円滑になっていく倫理がある。

物事の善悪とは、社会に身を置いているとこれらの「ルール」と多分に直結している。人民が法律を破ること、為政者が憲法を犯すこと、共同体の倫理や掟に反すること、それらが「悪いこと」とされる。そしてそれらは、しばしば「命令」と直結する。「○○してはならぬ」「○○はしてもよろしい」というのは社会(世間)システムからの命令だ。すると、物事の善悪判断とは「命令に従うこと」であると誤解をしてしまう。「命令に従うこと」が無条件に「正しいこと」であるという誤解だ。

冒険というのは、ある意味でそんな社会的ルール(命令)からの逸脱行為であると言える。

自然の中に分け入り、人間世界から隔絶されたところにある「別のルール」に従う必要がある。そこで人間社会のルールに縛られていると、自然には簡単に反撃を食らうことになる。

自然のルールに従う、なんて書くと、かなり陳腐でどこかで聞き齧ったような言葉にしかならない。そもそも自然にルール(規範)などない。もっと言葉を変えるとしたら「代替え不可能な無力な個になりきる」ということだ。

最近、私の中で「機能と祈り」という言葉が物事を考えるうえでのキーワードになっているのだが、機能と祈りとは何か。

家族という単位で言えば、お父さんはどんな人?と問われた子供が「お父さんは働いて給料を持ってきてくれる人」という答えをしたとする。これは、お父さんの「機能」の面を表した言葉だ。機能というのは、多くの場合は代替え可能な側面だ。給料を持ってきてくれるだけなら、別の人でも良い、ということにもなってしまう。つまり、そのお父さん自身という個別具体的な一人の人間ではなく、お金を持ってきてくれる人という代替え可能な機能だ。

一方で「お父さんは優しくて大好き」と答えたとする。それは、子供と父親の間の「祈り」を表した言葉。子供にとって、そのお父さんでないとその言葉は出てこない。ある日突然現れた代替えお父さんに対して、その言葉が出ることは(基本的には)ないだろう。祈りとは、非認知的な領域であり、いわゆる「心」の問題だ。心と心の交情があるからこそ、そこには代替えが不可能な存在として対象が立ち現れてくる。

「無力な個」とは何か。

人間の恣意性や力が及ばない自然の中で立ち回っていると、自分自身の小ささを骨身に感じる。北極や南極の自然の前では、とにかく我々なんて無力な存在だ。周囲から隔絶された環境に身を置くことで、自分自身の無力な存在をさらに際立たせて感じる。

しかし、そんな微小な存在としての自分自身が、自分自身としてこの大自然と対峙しているという現実を体感するに従って、自然の中に存在が照応されていくことも感じていく。自分自身は、いまここを精一杯生きていて、それは誰のものでもない自分だけのもの、何人たりとも代替えをすることができない、自分だけの体験であると知る。その時、自分の「個」を実感する。

「代替え不可能な無力な個」の正反対の言葉、存在は何かと言えば「代替え可能な全能感を得たシステム」ということになる。

これをわかりやすく言えば「インターネット」ということだ。

インターネットに繋がったデバイスと、そこにぶら下がる人間一人は、巨大なシステム全体から見ればただの機能である。いくらでも代替え可能だ。

ビッグデータを採取するには、個性なんて余計な情報は要らない。一人分の情報には物語も祈りもない。代替え可能な存在として、私も含めてネットに繋がる人間が規定されていく。そして、そんなネットのパワーをさも自分の力のように誤解して、全能感を得ていくような人が出てくる。ただそんな人は、自分の個の力ではなく、システムから享受する知識や擬似経験を脳にインストールするように「機械人間化」した存在だ。システムは個を駆逐し、代替え可能な駒として教育していく。

ネットが悪だと言うつもりはない。私もいま、ネットでこれを書いている。

ネットの中にあっても、どれだけ「機能」としての代替え可能な存在ではなく、「祈り」を通した心通う代替え不可能な個であるか、それを堅持することが人間であることをやめないことだと思う。

システム(機能)は、人間(祈り)に命令を下す。

人間のために存在していたシステムが、人間を支配する。命令を下すシステムの中には、規範としてのルールも存在している。

冒険とは、そんな人間社会の命令の軛(くびき)を解き放ち、代替不可能な個であることを再確認する行為だ。つまり、人間であることを再確認する行為であると言える。

2013年に出版した、私の初の著書「北極男」の中で、最後の一文に私は「生きているから、僕は冒険をする」と書いている。当時はその内実を言語化できなかったが、その真意は上記の通りだ。

人はなぜ冒険するのか?それは、人として生きているからに他ならない。


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