映画「FREE SOLO」を観る

「FREE SOLO」は、昨年の米アカデミー賞において長編ドキュメンタリー部門で受賞した映画。

フリークライミングの英雄アレックス・オノルドが、米ヨセミテ国立公園にあるクライミングの聖地、エル・キャピタンの岩壁をロープや登攀具一切の安全装置を使わず、自分の体一つで完登する様子を追いかけたドキュメンタリーだ。

登攀用具を一切使用せず、自分の身体能力だけで岩壁を登るスタイルを「フリーソロ」と言う。

これまで数々の偉業を成し遂げてきたオノルドが、最大の目標としたのが、前人未到となるエル・キャピタンのフリーソロだ。

高さは975m。東京タワーの3倍、東京スカイツリーの1.5倍ほど。

簡単に一言で安っぽく表現すれば「命がけ」である。エル・キャピタンは、熟練のクライマーがロープや安全装置を用いて、落下防止の策を講じながら完登しても賞賛に値する、難易度の高い屈指の大岩壁である。それを、何も使わずに登るなんて、正気の沙汰ではない。途中に待ち受けるのは、数ミリの岩の突起に手足を置きながら登るスリッピーな壁、時にオーバーハングし、時に人体構造上それは無理なんじゃないかと思うような体使いで先の岩を掴む。足の置き場を数ミリ間違えただけで、一瞬にして落下していく危険を常に孕みながら、ジリジリとした登攀が続く様子は、まさに文字通りに手に汗を握る。

挑戦の3年ほど前から話は始まり、準備や家族との会話、恋人との関係性などを描き、またオノルドの登攀の様子を撮影するチーム(彼らも一流のクライマーでオノルドの友人たち)との距離感などを描きつつ、無事に完登を成し遂げるまでが語られる。

エル・キャピタンのフリーソロという偉業は、とんでもない大冒険だ。綿密な準備やシミュレーションの細かさ、精神を挑戦に集中していく様子は一見の価値がある。ただ、映画としては私はちょっと物足りなかった。

映像の美しさや迫力は申し分がないのだが、どうにも周囲の人間との物語の色が出すぎてしまい、当のオノルドの精神世界への深掘りがもっと欲しかった。オノルド自身は終始ブレず、クライミングのためには恋人も家族も、自分の人生も二の次であるという姿勢は変わらず、それは美しいのだが、ではその姿勢の本質はどこからやってくるのか、オノルドと岩壁の関係性とは何なのか、それらが知りたいと思いながら、終わってしまった。

オノルドとエル・キャピタン、オノルドと恋人、オノルドと撮影チーム、全てが二項対立構造的で、どうにも交わっていく様子がない。特に、オノルドとエル・キャピタンの関係性は、登る人と登られる壁という二項対立を超えた、精神が壁に溶け込んでいくような感覚があるのではないか?それともないのか?何を思うのか、知りたかった。それ以上は、彼自身の著作を読むべきだろう。

恋人から危険を伴うクライミングする是非を問われ「人生を長生きする義務はない」と言い切るオノルド。だが、死に急ぐわけでも、生き急いでいるわけでもない。しっかりと今を生き、理想の高みへと自分自身を昇華させていく姿勢は感動する。

撮影チームや恋人など、周囲の人たちの心理が激しく上下していく中で、オノルド自身が常に淡々と感情の浮き沈みがなく、機械的に登攀を続けていく様子が印象的だ。「登りだしたら怖くなくなった」と言っていたが、その気持ちはなんとなく理解できる。人は完全な恐怖と向き合うと、恐怖のスイッチは切れていく。それは、訓練や準備や経験に裏付けされた、スイッチオフなのだ。

私自身のそのスイッチオフ体験は、私の著書冒頭に書いてます笑。あ、宣伝しちゃった。


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