私は私ではない、だから私である

鈴木大拙「日本的霊性」を、この半年くらい読み返している。

鈴木大拙は、1870年に石川県に生まれた仏教学者。堪能な英語を駆使して、多くの英語著作も残し、欧米に広く「禅」「仏教」を紹介した。1963年にはノーベル平和賞の候補にもなっている、日本を代表する文化人と言える。

「日本的霊性」は、1944年(昭和19年)に出版された。日本が戦争で負けることを予期していた鈴木大拙は、当時盛んに叫ばれていた「大和魂」「日本精神」といった、軍部に都合よく利用されたスローガンではない、精神や魂よりももっと深い、根源的な「はたらき」として「霊性」と言う言葉を使った。詳しい内容は、本書を読んでもらいたいが、私が取り上げたいのはこの一説。

「あるがままのある」では、草も木もそうである、猫も犬もそうである、山も河もそうである。「ある」が「ある」でないということがあって、それが「あるがまま」に還るとき、それが本来の「あるがままのある」である。人間の意識はこんな経過をたどることになっているのである。

これは、鈴木大拙が言う大乗仏教の根本原理である「即非の論理」である。

物事の本質に迫るには「AはAではない。故にAである」という思考経路を経たものだけが、本当の「あるがままのある」に気付く、と言う。

主観と客観が分かれる前の「A」を先入観や常識を排除して、あるがままに見ることができるか、ということ。つまり、平たく言えば自分の勝手な解釈で「AはAだ」と決めつけないことだ。

例えば「死は死ではない。これが死である」と言うとする。死とは、単なる存在の消滅ではない。家族や友人たちには、その記憶や思い出は残る。死とは、単なる終わりではなく、周囲の人たちによる新しい関係構築の一つの機会であると捉えることができれば、それは死であるが、単なる消滅ではない。実際、私自身、非常にお世話になり優しかった叔父を亡くした時に、その叔父を慕って多くの親戚が久しぶりに集まったことで、思い出話に花が咲き、今度親戚みんなで旅行でも行こうという話になって、実際に温泉旅行に行ったことがある。それは「叔父の死」という一つのきっかけがもたらした、新たな出発とも言える。死というものに向き合った時に「死は死ではない。これが死である」という言葉を理解できるようになる。

深い「霊性」の顕現には、否定を経なければならないのだと鈴木大拙は述べる。否定を通して、過去も未来もすべて含有した「いま」を見つめる、ということだと理解する。

よく、自分のことは自分自身が一番よく見えない、なんてことも言う。

「私はこういう人間ですから!」と、自己評価で決めることもできるが、案外「いや、あなたってこういう一面もあるよね」なんて、自分で気付かないことも多いだろう。

自分の主観、他人からの客観といった「主客」そのものを一度解体して「あるがままの自分」を見るには「私は私ではない。だから私である」と言う見地に立つ必要がある。

しかし、この「即非の論理」を受け入れるには、強さが必要になる気もする。

自らを律せられず、他者からの視線に縛られてしまう人は「私は私ではない」のところで思考が途切れてしまうことがあるのではないか。これは苦しい。否定しか残らない。

自己否定の後の、その先にある「だから私である」まで至るために必要なものとして、愛情、教養、教育、身体性、感動、などの存在が不可欠になるのだろうと思う。

なぜ子供に教育が必要か?なぜ教養を身につけることが大切か?なぜ身体性を伴った経験が必要か?なぜ感動することが素晴らしいか?愛とは何か?それらの答えの一つを鈴木大拙は示してくれている。

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