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日本人の本質は「個」か「集団」か

最近考えていることを、まだ深い考察をする前に思いついたままに書いているので、まとまっていないことはご勘弁を。noteは考えを整理するために書いているので、という言い訳を添えておく。

日本人の個人性

日本人の本質は「個」であるか「集団」であるか。

日本人は集団意識が高いし、同調圧力も強いし、個の意識は欧米に比べて低いでしょ、と思われがちだが、果たしてそうだろうか。近年の、表面的に顕在化する現象だけ見ると、集団心理に目が向くが、日本人の本質はどちらにあるのだろう。

まず、日本人の「個」について。

なぜ日本人は古くから「寄り合い」という文化によって集落を守ってきたか。「寄り合い」においては、地域の合意形成を「全員の総意」で決めてきた。一つのことを決めるために、全員が納得するまで何日でも話し合うことが「寄り合い」の基本だ。「個」を見捨てない。参加する個人の総意によって集団の結論を出す。つまり「個」が先にある。

これは「会議」ではない。少数や弱者の意見を淘汰する論理ではない。会議の論理では、集団の総意によって個人の振る舞いが決められる。つまり会議においては「集団」が先にある。

「寄り合い」に関しては、宮本常一の本が分かりやすい。

湿潤な気候の日本においては、自然の中に神を見出した。古事記などで神は「成り出る」ものである。「成る」とは、自然発生的なもの。木の実が成る、など。そこに主体はない。主体がないとは、意志を持った明確な中心存在がないということ。河合隼雄は「中空構造日本の深層」の中で日本神話における「無為の神」の存在を説いている。日本神話に登場する三神の中に全く語られない何もしない神が登場するという。イザナキノミコトから成り出たアマテラス、ツクヨミ、スサノオのうち、ツクヨミは最初に登場して以来何も語られない。同じ構造がいくつもあるのだという。これは、中心に「空」となる無為の神を置くことで、明確な対立を回避する「均衡」の論理であると読み解いている。「日本人が何を考えているのか分からない」と海外で揶揄されるのも、このような遠因があるのかもしれない。日本に二大政党政治が根付かないのも、欧米の「対立」のスタイルが馴染まないためとも言われる。中心のない社会というのは「均衡」を第一義とする社会である。

一方で、砂漠の宗教であるユダヤ、キリスト、イスラムにおいて、自然発生的に植物が育つ環境ではなく、自然は人間と対立する。自然が作らないため、主体を持つ「うむ」「つくる」存在として神がいる。主体があるとは、中心があることを意味し、中心として絶対的な存在の「神」をおく。中心に絶対的な存在をおく社会とは「統合」を第一義とする社会である。

日本型「均衡」の社会においては、絶対的中心がないがために「個人が集団を形成する」という思考になるのではないだろうか。この場合、集団に「個」が先立つ。

砂漠型「統合」の社会においては、明確な主体の元の「集団に個人が属している」という思考となるのではないか。欧米で社会奉仕活動が盛んなのも「集団の中の個」であるという意識の現れだと思う。

女性的日本社会

一方で、日本の「集団」意識は女性的要素に見ることができる。

均衡、融和の象徴は「女性的」である。一方で対立、統合の象徴は「男性的」である。

日本は元来、女性型社会だ。神話の時代から見ても、太陽神がアマテラスという女性神である。世界を見ると、太陽神は男性神であることが多い。

女性文化は、平安時代に形作られた。枕草子、源氏物語、に代表される女性文学。万葉集などには多くの「恋の歌」「自然の美しさ」といった女性的な情緒が歌われる。やたらと月に涙し、花に喜んでいる。漢字から生み出された仮名文字の発明などは、日本語を女性的にする決定的な出来事だ。

鎌倉時代以降、日本には禅や浄土真宗的な思想が深く食い込んでいる。鎌倉時代になると、社会は「男性的」となる。多くの仏教宗派の台頭と武家社会だ。

日本人のアニミズム的思想を具体化した神道は、女性的な均衡論理であり、古事記などに見られる中空構造を表している。一方の仏教は「孤独性」を持ち、男性的な思想が強い。禅の「一無位の真人」や「歎異抄」の中で親鸞が語る「ひとえに親鸞一人(いちにん)がため」の境地だ。これらが孤独性を持つ男性中心の武家社会と非常によく適合した。

仏教学者の鈴木大拙は「日本的霊性」の中で次のように語る。

神道には、集団的・政治的なものは十分にあるが、一人的なものはない。霊性的直覚は孤独性のものである。これが神道にはない。神道に「開山」というべきもののないのはその故である。「開山」はどうしても超個己を個己の上に映した一人であるから、集団性をもち能わぬ。集団は一人の「開山」をめぐりて集まりきたるものである。集団の上に一面に広がっているものには中心がない。ある意味でそれは全体的であるが、この種の全体性は中心のない集合で、いわばただの群衆でしかない。

鈴木大拙の言葉を借りれば、日本人の大元は「全体的」「中心のない集合」「ただの群衆」となる。

日本の基盤は女性的に築かれた。そこに、仏教と武家社会によって男性的な要素が加えられた。女性的基盤は、言葉に色濃く残っている。意志と責任の所在をはっきりさせない曖昧な言語が日本語だ。意志と責任は、分断と統合を生む。意志と責任をあいまいにする日本語は「女性的均衡型言語」であるとも言える。

「個」と「集団」の表現の違い

欧米に、社会的なメッセージを発信する人が多いのも、自分は社会の一員であり、社会の一員としての「個人」をどのように律するか?と考えるためではないか。欧米では「個人」の意識が表面的に目立ってくるが、その根底にあるのは「集団意識」であろう。

日本では、社会の前に個人がいるために、自らの「道」を極めることに美学を覚える。イチローが「皆さんに夢と希望を与えるためにヒットを打ちます!」なんて言わずにカッコイイのはこれだ。よく考えてみると、イチローの社会的な発言や活動があまり頭に浮かばない。日本人の冒険家が環境保護のために「Save the Earth」とか言い出すと、やたらと胡散臭く感じるのもこのためだろう。

なぜ日本人の冒険家に単独行を好む人が多いのか?それは、日本人がそもそも「個人意識」が強い性質を持っているからではないか?と思っている。武道や芸術などの「道」というのも、一人で歩むものだ。個人的意識の先鋭化が「道」だろう。

だが、書いているうちに段々と混乱してきた。これは「個」と「集団」がどうもごちゃごちゃになってきたぞ。頭の中で整理が必要だ。

つまり…

日本は、最初は神道アニミズム的思想から女性的な「集団均衡」の社会形成をしてきたが、そこに主体となる明確な中心を置かないことで、個人の主体意識が醸成されてきた、ということだろうか?社会的な主体性意識と、個人的な主体性について勉強して考える必要がある。

平安時代までは古代の連続として、均衡を第一とする女性的な情緒的生活と文化生活を行ってきたが、鎌倉時代になって武家勢力の台頭、元寇の役による外圧、それら社会情勢の変化に伴い湧出してきた各仏教各派の登場、などが影響して、男性的な「個」の意識が具現化してくる。そこで具現化した「個」という意識は、おそらくずっと潜在していたものが顕在化したということだろう。つまり、日本人の根底にはやはり「個」の強い意識が流れていたということだ。

中心に明確な主体を持たない日本社会は、その中空空間でなんでも飲み込むブラックホールを持つ。外来の物を、いつの間にか日本流にアレンジすることに異常に長けているのも、この中空構造によるのではないか。外来物との決定的な対立も産まず、最初は抵抗しながらもいつの間にか相手を取り込んでいく、というか飲み込んでいく。戦争に負けた日本が、それまでの姿勢から一瞬の変わり身の早さで西洋方式を飲み込み、あっという間に戦後復興していったのも、その中空構造の故ではないか。

考えながら書いているので、まとまっていなくて申し訳ないが、書くことで頭を整理しようという目的のもとに書いているので、ご勘弁を。

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