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捨てることと得るもの。軽量化の深層

北極での徒歩冒険は、荷物の重量との闘いでもある。

最近では、2ヶ月分ほどの食料や装備一式をソリに積み込み、1000km程度の距離を歩く冒険を行うことが多い。

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途中での物資再補給を受けたり、デポ(事前にルート上に物資を設置しておくこと)を設けたりもしないので、スタート時に全ての荷物を持ち、物資が切れる前にゴールをする。

2ヶ月分の食料などを積み込んだソリは、言うまでもなく重くなる。2017年末から2018年にかけて行った南極点無補給単独徒歩の時で、ソリの重量は100kgほどだった。それを、体とソリをロープで結んで、自力で引くわけだ。

スタートを切る前、準備段階で時間をかけて行う作業が「ソリの軽量化」である。

最終的にパッキングし終わったソリのトータル重量を減らすために、時間をかけて軽量化を図る。

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食料は一食ごとに、ジップロックに小分けにする。食料は全て計量し、日々の摂取カロリーと重量は決まっている。無駄なパッケージ(飴玉の包装紙など)は全て外しておき、毎日3枚のジップロックがゴミとして出るだけの状態にしておく。ゴミは持ち帰る。

装備品を広げて並べ、それを数日間じっくり眺めながら削れるところを探していく。「削れるところ」と言うのは、例えば歯ブラシであれば柄の部分は通常15センチくらいの長さがあるが、せいぜい5センチもあれば歯を磨くのに支障はない。10センチは切り落とす。これで3グラムくらいは軽くなるだろう。トイレットペーパーも、芯を抜いておく。などなど、この作業にかなり時間をかけていく。

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こうやってできる限りの軽量化を頑張るのだが、その結果として削ることができる重量はおそらく200グラム程度といったところだろう。

トータル100kgのソリからすれば「誤差」のようなものだ。では実際に、100kgのソリと99.8kgのソリを引き比べてみたら軽くなったと感じるかといえば、全く違いは感じないはずだ。

そんな誤差程度の結果に対して、私はかなり時間をかける。なぜか?

儀式としての軽量化

冒険中のソリは、2ヶ月分もの物資を積みこめば、どう頑張っても重い。「重い」しか感想は出ない。軽量化に時間をかけて、頑張って削ったとしても、やはり重い。

そんな準備期間を経て、実際に北極点や南極点への遠征がスタートする。始まった直後に出る苛立ちは「ソリが重いな!」ということだ。北極海であれば、激しい乱氷に捕まり、氷の壁を必死にソリを引き上げながら超えていく。とにかく苛立ちが激しい。

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「何でこんなに重いんだよ!クソ!」

そんなことを吐き続けることになるのだが、ここで「軽量化」の意味が生まれる。

準備段階で誤差程度の結果しか生み出さないとわかっていながら、軽量化に時間をかけて「もうこれ以上削るところはない」という段階まで仕上げたソリを持ち上げている時に思うのは「あれだけ削ってこの重さなら、もう仕方ない」という気持ちだ。

しかし、もし軽量化に時間をかけずに「どうせ結果は大した違いにならないんだから、この程度でいいか」と、いい加減に軽量化を終わらせたソリを引いていると「なんでもっと削らなかったんだろう」という後悔が次々に生まれてくる。もし頑張って削ったとしても、実際の重さの感覚に変化がないことは知っているのに、後悔が生まれてしまう。

私にとって「ソリの軽量化」というのは、ソリ自体を軽くするという目的がある一方で、さらに重要なのは「ソリの重さを受け入れる」ための儀式であると言える。

いずれにしろ重いソリを、現場でどう感じながら引くか?後悔しながら重さに抗って進むのか?それとも重さを受け入れながら進むのか?その差は実に大きい。

「ソリを軽くする」というのは、もしかしたら「心を軽くする」ということに繋がっているのかもしれない。

捨てること、得るもの

北極で出会う野生動物たちは、何も物を持っていない。当たり前だ。

ホッキョクグマは生まれ落ちた姿のまま、なんの道具も使わずに北極で生き延びている。彼らを間近に見ながら、こちとら人間はあれこれ道具を駆使して、重いソリを引きずり回しながらでないと一定期間の命すら繋げられない現実を見るたびに、人間の不自由さを感じる。

「物を持つ」というのは、随分と不自由な行為だ。

ところが、人間は道具によって、本来は進出できなかった場所にまで行くことができるようにもなっている。ホッキョクグマ自身が宇宙空間に行く能力は、どう間違っても生み出せない。

道具は、人間ができなかったことをできるように、新たな「自由」を与えてくれる一方で、道具によって人間が手放さざるを得ない「自由」も存在する。

ただ、北極で道具を持つ「不自由」を感じるためには、翻って道具によってこそ北極に存在することができているわけであり、道具がなければそもそもその「不自由」を感じる「自由」すら獲得できないという矛盾を孕む。

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人間とは、生まれながらに不自由なものなのかもしれない。自発的に生まれてきた人なんて、この世に一人もいないわけだし。

極地の「自由」とは、時空の設定を何によって規定するかが一つの鍵となる。

極地冒険は、時間と空間の制限を受ける。移動していく空間方向の制限と、その中で何日活動できるのかという時間的な制限だ。物を持たない野生動物には、その制限が存在せず、それは「死」によってしか規定されない。つまり、その場を「棲み家」としているということだ。

では、北極圏に住むイヌイットはどうかと言えば、彼らはそこを棲み家とし、野生動物同様に時空の制限を受けずに長年生きてきた。ところが、近年は南からやってくる物資を生活の糧としているために、現在の暮らしはかなり制約下に置かれていると言える。

我々、所詮は来訪者は、時空の制約下での活動に過ぎない。食料を現地調達し、動物の毛皮から衣服を作って旅を行えば時空の制限を克服したかといえば、その狩猟のためにライフルを使っていれば、その行為はライフルという道具に依存した不自由さの営みに他ならなくなる。

では、すべてを自己調達して行為を完遂させようとすれば、それこそ自宅の玄関を素っ裸で何も持たずに旅立ち、タクシーにも電車にも飛行機にも乗らずに北極に行くことから考えなくてはいけない。それは原理主義が過ぎてしまう。

つまり、来訪者の立場としては結局どこかで恣意的な枠を決め、その時間的空間的制約の中で行われる「遊び」であると割り切ることでしか、仮初めの自由ですら味わうこともできないということだ。

道具を捨てる、軽量化を図るという行為は、不自由な人間が自由に近付くための過程だ。だが、きっと自由には到達できないのだろう。永遠に近付いていくだけで、生きている限りはそこに触れることはできない。

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