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「好きなことを仕事にする」ことの意味

「好きなことを仕事にする」という言葉がある。

私自身、人からそう言われることもあるのだが、自分ではあまりその意識はない。

「好きなことを仕事にする」ことに対して「素晴らしい」と考える人は、自分自身の生き方に嘘をつかずに、自分の好きなことをそのまま貫くことに価値を置いているだろう。

一方で「そんなうまい話はそうないよ」と考える人は、好きなことだけで生きていくなんて理想だけど、世の中そんなに自分の都合よくいくわけはない、と言うかもしれない。

二つの意見はもっともだし、その通りである。自分の好きなことを貫くのは大切なことだけれども、とは言え世の中は自分の都合よく回ってはくれない。

その狭間で身動きが取れなくなっている人が、世の中にはたくさんいるのだろう。好きなことを仕事にしていきたい!!でも、それは不安だし食っていけるとも思えないし、どうすればいいんだろう、と。

前にもnoteのどこかに似たようなことを書いたかもしれないが、思いついたままに書き綴ってみる。

まず「好きなことを仕事にする」という日本語を分解してみる必要がありそうだ。

「好きなこと」と「仕事にする」というふたつのキーワードで成立している文章だ。つまり、「好きなこと」ってそもそも何だ?それから、「仕事」ってそもそも何だ?というこの二つを考えれば、答えは自ずと出てくるはずだ。

ちなみにいま、これを書いている時点ではどこに着地するかは見えていない。基本的に、いつもnoteは目的地不明のままに書き出して、いくので、着地しなかったらすいません。

まず、順序を変えて「仕事」について考えてみたい。

仕事ってなんだろうか?私も若い頃は、北極に行く資金を貯めるための仕事をたくさんしてきた。バイトをいくつも掛け持ちして、半年ほどで作ったお金で北極に行っていた。ガソリンスタンドとか、ホテルのルームサービス、宴会の配膳、工事現場、ガードマン、大工、自動車整備、日雇い労働、配送ドライバー、などなどたくさんやってきた。

それは仕事だったか?と聞かれれば、仕事だっただろう。しかし、何の為の仕事だったかと問われれば、それは「北極に行く為の仕事」であった。自分の人生を投入するような意味の仕事ではなく、あくまでも資金稼ぎの仕事。言葉を変えれば、目的のための単なる手段だ。

では、そうやって稼いだ資金を持って行く北極冒険は、私にとって仕事だったのだろうか?と考えると、仕事ではない。別に北極に行ったらお金が稼げるわけではなく、むしろ全く正反対だ。稼いだ資金を全て使いに行って、一文無しで帰ってくる。では、趣味かと問われれば、趣味というほど軽い気持ちではない。楽しむために行くわけでもなく、できれば行きたくないと思いながらも溢れる衝動に従っているだけだった。「仕事」という言葉の裏に「稼ぐ」という言葉が付随してくるとしたら、まさにこれは仕事ではない。「稼ぐ」という概念から離れた「仕事」であれば、仕事であるとも言える。

「稼ぐ」という概念から離れた「仕事」というのは、実はこの世にたくさんある。例えば、日々行われる料理や洗濯といった家事は、それを行なったら賃金が発生するわけではないが、家族を成り立たせるためには必要不可欠な「仕事」である。

林業というのは、稼ぐ意識から距離を置いた仕事かもしれない。一本の木が成長し、出荷されるまでには数十年か時には100年以上の時間を要する。今日、自分が手入れをする木は、もしかしたら自分の後の世代がお金に変える木かもしれない。自分がお金に変えている木は、前の世代の人々が休まずに手入れをしてきた成果だ。つまり、今日一日の働きがそのまま数値化された「賃金」として計算しにくい「仕事」もある。

「仕事」にも、ふた通りありそうだ。「お金になる仕事」と「お金にならない仕事」だ。私にとって、北極を歩くというのを「仕事」と考えると仮定したら、おそらく後者の「お金にならない仕事」の範疇に入りそうである。日本で「お金になる仕事」を通して得た資金で「お金にならない仕事」をしていた、ということも言えそうだ。

そう考えると、北極を歩く冒険も仕事であると言える。

言葉を変えれば、それは、私にとっては「生き方」だった。

「お金になる仕事」と「生き方」は別のものだ。仕事は辞めたり変えたりできる。ところが、生き方はそう簡単に辞めたり変えたりできない。荻田泰永という人間を辞めたり変えたりは、相当の事態が発生しないと行えない変革だ。ただ、荻田という人間の胸についている名札のような「ガソリンスタンドの店員」という仕事のラベルは、いつでも取り替えることができる。

その意味においては、資金稼ぎのアルバイト仕事も、私にとっては「生き方」の一部である。生き方をやめられないのと同じように、このころのアルバイトは、私という人間を形成するためにはなくてはならないものだと感じる。もしかしたら、アルバイトをしていた私は「ガソリンスタンドの店員」をやっていたのではなく、「北極を歩くために今その資金集めの手段としてガソリンスタンドの店員に身を扮した荻田泰永」をやっていたのかもしれない。あくまでも「自分」をやっていたのだ。

「好きなことを仕事にする」という文脈で悩む人は、辞めたり変えたりがある程度できるという余地の中であるからこそ、悩むのかもしれない。

次に「好きなこと」って何だろう?私にとって、北極や南極に冒険に行くことは「好きなこと」であるかもしれないが、行かずに済むなら行きたくないという「こと」である。でも、行かずに済まないから「行かざるを得なくて、致し方なく、自発的に行く」のである。

「好きなこと」という考えの中には、意思と選択という概念が片隅に居座る。その傍らには責任という概念が影を落とす。

「君は自分の好きなことを(自分の意思と選択によって)やっているんだから、あとは自己責任だよ」という恐怖がそこに見え隠れする。

果たして私は、自分の意思と選択によって極地冒険という道を歩いているのか。そう考えてみると、自分の意思であることは間違いないのだが、100%自分で背負うべき責任を伴った意思であるとも思えない。

例えば誰かを好きになる、というのは自発的な行為かもしれないが、相手から自分に対するベクトルも大いに働いている。「よし、俺はこの子のことを好きになろう!」という決意と、意思と選択の元に誰かを好きになるというよりも、自分の意思とは関係ないところで気がついたら好きになっていた、ということもあるはずだ。人間の世界には、意思と選択だけでは割り切れないグラデーションのような部分が少なからず存在している。

私はあなたを愛しています、という日本語を英語で書けば I love you である。どちらもベクトルの向きは私からあなたに対してである。しかし、インドのヒンディー語では「与格」という文法構造があり、その言い回しでは「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という表現をするという。この時のベクトルは、私に向いている。案外、人を好きになるとか愛するって、こういう力の作用もあるはずだ。

私が北極を歩くというのは、これに近い。

なぜ北極を歩くようになったか、そのきっかけは私の著書を読んでいただくのが良い。ある日突然出会った北極冒険という世界に、私は自分の意思だけではない、かといって何か神秘的に力に導かれた!!みたいな話でも全くなく、能動的受動状態において始まっていった。

つまり「好きなこと」という言葉に潜む意思と選択、そして責任という概念も、疑ってかかっても良いのではないのか?

「好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃん!」ということだ。

意思と選択、責任概念の権化のような人は、もしかしたら人間の全能感を信じているのかもしれない。全能感、つまり「なんでもできる、なんでも分かる、物事は意思と選択で全て割り切れる」と。

「好きなこと」は、自分の意思と選択によって獲得したものではなく、どこか与えられた、回避不能な出会い頭の事故のようなものかもしれない。

「好きなことを仕事にする」とは「回避不能な事故を受け入れて自分という生き方としていく」ことなのではないだろうか。

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