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『喫茶バンデシネ』 ―第6話―

 バンデシネの二階の仕事場で、美波は背もたれにちょこんともたれ、エネルギー補給ゼリーを咥えていた。美波の背後で帰り支度の橋下が立ち上がった。橋下が左手のスマートウォッチをみた。時刻は十一時を過ぎていた。橋下は美波に声を掛けた。
「……帰らないんすか?」
 美波は振り返った。
「あ、お疲れさま。うん、あたしはもうちょっと。折り返しのメール、待ってて」
「うす。じゃお先します」
「お疲れさま」
 美波はなんとか微笑んだが、疲労を隠せなかった。しかし、心地よい疲れだった。 
 橋下が階段に向かうと一階から「カランカラン!」とドアベルの音が響いた。
 続いてワイワイと賑やかな話し声がした。
「?」橋下は立ち止まった。
 仕事場の美波と男性ふたりも階段に視線を向けた。御代川も周囲の様子に気付いて、ヘッドフォンを外した。
 一階からの話し声には時おり奇声が混じった。
「……誰か煙草吸いに行ってる?」
 御代川が怪訝な顔で言った。
「今日、煙草吸う人、いないですし……」
 美波は一応部屋の部屋の面子を見回した。
「……作業してる人、今、ここに全員居ます」
「えぇぇ……」
 御代川が身体をすくめた。
 橋下が階段の下を覗くと「イエーイ! フォー!」とさらに大きな奇声が上がった。
「なになになに!? コワいコワいコワい! 警察警察ぅ!」
 御代川が怯えた顔でまくし立てた。
 奇声は次々と上がった。
「……いや。そういうんじゃない感じっすね。ちょっと俺、みてきます」
 橋下が、階段の下をみつめながら言った。
「え危ないよ……」
 御代川が小さく言った。
「俺も行く」「俺も俺も」 
 男性ふたりがどこかわくわくした顔つきで言った。橋下も愉しげな目をした。
「じゃ私も行きます」美波が言うと、
「えぇぇ……じゃあ、私も」御代川は言った。
   
 一階では三絵子が数人の外国人と酒を飲んで騒いでいた。テーブル席にディスカウントストアの黄色いビニール袋と大量の酒の缶、ボトルが置かれていた。
「……やっぱミツコさんだ」
 階段から、先頭をきって降りてきた橋下が呟いた。橋下の背後から美波らも顔を覗かせた。
 缶チューハイの五百缶を手にした三絵子が階段の面々に気づいた。
「おお! 頑張ってるぅ? ちょっと休憩しよ!
 ハイきゅーけー」
 赤い顔の三絵子が踊るように言いいながら、ソファ席のアジア系男性を「ええっと……」と指差すと、「パクです」とソファ席の男性、パク・チャンドンが言った。
「そうそう。パックンがね、いっぱい買ってくれたの! 日本、お酒、安すぎ。ストロング系とかマジでダメ。ドラッグよりぜんぜんダメ」
 三絵子はそう言って、ストロング系チューハイの五百缶をあおった。
 美波らは呆然と三絵子を眺めたが、橋下の三絵子を見る目は笑っていた。

 漫画家たちも加わり、一階の酒宴はより賑々しくなった。御代川も男性ふたりも、カタコト混じりで外国人らと盛り上がっていた。橋下がアフリカ系の男性と、スマホで流行りのAIイラストアプリで遊んでいた。
 美波は輪から少し離れて椅子に座っていた。微アルの缶に申し訳程度に口はつけたが、百瀬からの折り返しが気になって、スマホを手放せなかった。
「煙草吸う人、こっちね。ココで吸うのはダメね。あハッパならいいよー。なんて」 
 三絵子が缶チューハイを手に言いながら、千鳥足で玄関から出ていった。
 美波は、盛り上がる人々越しに、出て行く三絵子を眺めた。
 三絵子が皐月やよいだと知ってから、美波は三絵子を前にすると胸の奥が熱くなった。高校時代、東北の田舎町の大型古書店で三絵子の描いた漫画を手にしたことで、今の美波があった。受験の合間にコソコソと漫画を描き、地元の大学に進んでから漫画雑誌に投稿を始めた。大学に漫画のサークル、研究会のようなものがいくつかあるにはあったが、アニメやBLの下地のなかった美波はいまいち馴染めず、実家の自分の部屋に籠って漫画を描いた。傍に三絵子の漫画を開きながら描いた。皐月やよいの刊行された単行本は、短編集の『さよなら火曜日』だけで、美波はほとんど全てのページを模写した。
 大学時代の美波は、投稿も年に一度送る程度で、一つの作品を最後まで描き切る胆力もなかなかなかったが、大学三年の半ば、就職活動の厳しさを肌で感じ始めた頃、現実から逃避するように漫画を描いた。皐月やよいが、もしこんな話を描くとしたら……そんな気持ちでストーリーを考えた。いつしか没頭し、四年の春になり、投稿した作品は月刊新人賞の佳作に引っ掛かった。美波は満足だった。もう流石に就職活動に専念しなければと思ったが、編集者から連絡が来たり、増刊号での読み切りの話を持ち掛けられたりする内に、大学を卒業していた。就職先は決まっていなかった。真面目な両親に漫画家になりたいなどと言えなかった美波だが、この時観念し親に打ち明け、上京したいと頭を下げた。両親は一人娘の美波に頑張れとは一言も言わず、いつでも帰って来ていいからと何度も言って東京に送り出した。
 美波のスマホが震えた。 
 百瀬からメッセージには「問題ありません。ペン入れよろしくお願いします。百瀬」とあった。美波は文面をもう一度確認した。
 眼鏡のレンズは、脂でこってり曇っていたが、奥の瞳は輝いていた。

 喫煙所のベンチで、三絵子は煙草の煙を吐いた。ベンチの隣には、缶チューハイが置かれていた。
 三絵子はしたたか酔ってはいたが、どこか醒めた気持ちがした。
 三絵子がちょうど美波くらいの年の頃、一子と一緒に漫画を描いていた頃は、よくこうして喫茶店の閉店後に多勢で飲んだ。みんな漫画家、もしくはそれを目指す者だった。皆どれだけ飲んでも、するのは結局漫画の話だった。
 三絵子は夕方、百瀬の前に黙って座っていた美波にかつての自分を重ねた。

 微アルの缶を手にした美波が静かに喫煙所にやって来た。
「……? あんた煙草吸うの?」
「あ、いえ……」
「……じゃあ何しにきたの?」
「いえ、あの……」
 美波は恥ずかしそうにうつむいた。
「……私、実は、皐月先生の作品、ずっと好きで……」
 三絵子の煙草を持つ手が固まった。
「……ていうか、先生の作品が、私も漫画描いてみようって思ったきっかけっていうか、 なんていうか……。先生みたいな作品、描けたらいいなって、今もずっと思ってて」
「あんなのすぐ描けるよ」
 三絵子は遮った。
「……」
「古本の百円セールで買った? アタシの本」 
 三絵子ぶっきらぼうに言った。
 美波は頭の中で言葉を探した。
「…………百円セールでは、なかったですけど」
 美波が言うと、三絵子は鼻を鳴らして微笑んで、煙草を灰皿に捨てた。
「あんたいくつ?」
「……二七です」
「お。結構いってんね。じゃもういっか。昼間、死神と打ち合わせしてたでしょ?」
 美波は怪訝な顔をした。
「……シニガミ?」
 三絵子は隣に置いた缶をあおった。しかし中身は空だった。三絵子は小さく舌打ちした。
「……壮文社の百瀬さん。売れないくせに、なかなか漫画家やめられないヤツに取り憑いて、スッパーってやってくれるから」
 三絵子は鎌を振るジェスチャーをして、ベンチの背にもたれた。
「……おかげでアタシ、なんでこんなことやってんだろ? ってなれた」
 美波は押し黙った。
「辛くない? 漫画家続けるの?」
 三絵子は落ち着いた物言いで、美波をみつめた。三絵子の瞳に輝きは一切なく、真っ黒だった。 
 美波はうつむいたまま、微アルの缶を両手で握った。
「…………辛いです」 
 美波の両手が微かに震えた。
「……」
 三絵子は美波から目を背けた。
「あは。だよねー。ちょうどよかったんじゃん? 死神取り憑いてくれてさ。スッパリ 逝かせてくれるよ。スパーッとね!」
 三絵子は立ち上がって、鎌をふるジェスチャーをしながら玄関に歩いた。
「まぁがんばってー」 
 建物の角を曲がる手前で、三絵子は振り返ることなく手をひらひら振りながら言った。 
 美波は微アルの缶を持ったままうつむいたままだった。

 角を曲がると、三絵子の表情は沈んだ。
 三絵子が沈んだ顔で表玄関まで来ると扉が開いた。三絵子は少し驚いた。 
「あ、すいません……」
 ドアノブを手にした橋下が言った。
「ちょっと俺、酒買って来ます。もうないみたいなんで」
 少し酔った表情で、橋下が三絵子に言った。
「……アタシも一緒行く」
 三絵子は無表情に言った。

 橋下と三絵子は水銀灯の緑の光の下を並んで歩いた。三絵子は終始無口だった。
 歩きながら、橋下は三絵子の顔を覗いた。
「……ミツコさん、どうかしました?」 
 橋下は気遣うように優しく尋ねた。
「……」 
 三絵子は小さいため息を僅かについた。
 橋下は歩きなが、チラチラと三絵子の顔を伺った。
「……何くんだったっけ?」三絵子は言った。
「あ、橋下です」
「橋下くんさ、二人でどっかで、飲み直さない?」
「え? でも……」
「……お金持ってる?」
「あ、カードなら」
「……じゃカード使えるとこ行こっか」
 三絵子は橋下の腕に自分の腕を回した。 

 喫煙所で美波は眼鏡を外した。
 地面に涙がぽたりと落ちた。
 上京すると、美波は自分に漫画家の才能がない事を思い知った。巽や真野のようになれるとは到底思えなかった。その現実から目を背けると、自分の作品はやはり描けなかった。巽に言われ、百瀬にみせた今回の作品も、かつて皐月やよいに憧れていた自分の焼き直しでしかなかった。
 美波は泣きながら、三絵子に言われた事はその通りだと思った。今回の作品が掲載されたとしても、また新たな作品が自分に描けたりはしないと美波自身が一番知っていた。
――じゃあなんで今、自分は泣いているんだろう?
 美波は歯を食いしばった。食いしばると、絞り出るように涙がますます溢れ出て止まらなかった。


 次子がママチャリで井之頭公園を抜けて、バンデシネの前でブレーキを掛けた。この日の朝も気持ちよく、次子は適度に顔を紅潮させ、ママチャリを降りた。 喫煙所のベンチには空の缶チューハイが置かれていた。次子は喫煙所の前にママチャリ留め、表玄関に回った。エコバックから鍵を取り出し、扉の鍵穴に刺した。
「?」
 鍵が開いていた。今日は次子が早番で、一子はまで家で寝てるはずだった。
「……」
 次子はそおっと扉を開けた。
「!」
 店内には酒の缶や瓶が転がり、散らかりまくっていた。ソファ席で寝ている者がいた。次子が見た事のない顔の外国人だった。テーブル席の椅子並べて寝ている者もいた。
「……なにこれ?」 
 次子は唖然と呟いた。

<つづく>


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