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『喫茶バンデシネ』 ―第7話―

 朝の吉祥駅近辺は健やかに慌ただしく、無表情だが、どこか溌剌と人々が、京王線の高架下にある駐輪場に次々と自転車を突っ込んでいく。
 セントラルコーヒーの二階には、全面窓に面したカウンター席が四つだけあった。そのひとつに三絵子は座っていた。ガラス越しに駐輪場をぼんやり見下ろしていた。一席空けて、隣に座った橋下が眠たげに珈琲カップに口をつけた。
「……バイト代入ったら、ホテル代半分払うね」
 三絵子は駐輪場を眺めたまま言った。
「無理しなくていいっすよ。俺、年上ぜんぜん嫌いじゃないんで」
 橋下は朗らかに言った。言った後、なにやら考える顔をした。
「……」
 三絵子は駐輪場を眺めたままで、口を一文字に結んだ。三絵子の前にも珈琲カップがあったが、三絵子は口をつけていなかった。一応橋下に付き合って頼んだものの、三絵子は実家が喫茶店にも関わらず、珈琲がそんなに好きではなかった。
「……あの、ミツコさん?」
 橋下が言った。
 勢いとはいえ、一晩ホテルで過ごしても、橋下は三絵子の名前を間違えたままだった。
「……なに?」
 三絵子は駐輪場をみつめたまま言った。
「オレ、今なんか、失礼な事いいましたよね? 
 すいません……」
 橋下はしおらしく言って、頭を下げた。
 三絵子は小さく呟いた。
「……どれだよ」
 橋下は聞き取れず、三絵子の顔をそおっと覗いたが、三絵子は無表情に駐輪場を眺めたまま黙っていた。

 一子が階段を降りてきた。バンデシネの一階では次子が床にモップをかけていた。寝ていた者達の姿はなく、テーブル席の椅子を机に逆さに載せららていた。
「やっぱみえちゃんだった?」
 次子は手を止めて一子に尋ねた。
 一子が黙って頷いた。
「もおおう! あのコほんとにもう!」
 次子はモップを床にばんっと叩きつけた。
「いっちゃん、あのコ甘やかすの、もうやめてっけ! 実家にわたし連絡する!」
「実家に連絡してもしょうがないやろぉ……」
 一子がため息混じりに言った。
「あの人は、あの人たちで、もうのんびりやってるんやし……。あたしらの事で、もう迷惑かけん方がいいよぉ……」
 一子がカウンターの方にトボトボと歩いた。
 次子は一子を目で追って振り返った。
「いっちゃんはそうやってえ、父さんに気つかいすぎやってえ」
 一子は次子を無視するようにカウンター中に入った。シンクは皿やグラスで一杯だった。
「父さんもあっちゃんのこと心配してたよぉ……。母さんも、もういっちゃんには、いっちゃんの生き方があるからって、もう何も言わないって言ってたからさぁ、たまにはいっちゃんも、ちゃんと連絡してあげてえ」
 次子は興奮気味にカウンター越しの一子に訴えた。シンクをげんなりみつめていた一子が顔を上げた。
「……ちょっと待って。何の話? なんでわたしが責められなきゃいけないの?」
「……あ、いや……」次子は言いよどんだ。
「だからぁ! いっちゃんが、みえちゃんをいつも甘やかすから、こういうことになるって言ってるの!」
 次子は鼻息荒く一子を睨んだ。
「……こりゃさつきも家に帰りたくないわけだ」
 一子が呟いた。
「え? なに? 今なんて言ったの?」
 次子がカウンター越しに一子に詰め寄った。
 一子は水道をひねった。
「……みえちゃん、上京した頃が、ちょうどこの上、先生が仕事場に借りた時だったんで、よくこんな風にお店閉店してからみんなで飲んでたの」
 一子は洗い物をしながら、水の流れる音に混じって訥々と言った。
「……だからそんなに、悪いことだと思わなかったんだよ」
「もう! またそうやって甘やかす」
 次子は言った。一子がシンクから顔を上げた。
「甘やかしてないよお。ちゃんと言っとくから」
「いい。わたしが言う」次子は言った。
 一子が水道の水を止めた。 
「いいって。それよかあんた、さつきや寿の事、大丈夫なの? 寿、お店来てなんか食べても偏食すごいし、さつきもほら、あれ……ちゃんと夜、帰って来てんの?」
 次子は眉を顰めた。
「……さつきまた、夜ココ来てるの?」
 一子は目を逸らした。
「……来てないよ」
 一子は言いながら頰を掻いた。
「来てるんだ……もう」
 次子は短いため息をついた。
「……」
 一子は濡れたままの手を腰にあてた。
「つぎちゃんさ、三絵子のことうるさく言うより、自分の子供たち、もうちょっとかまってやった方がいいんじゃない? ちゃんと時間取ってさ、もう少し話とか、した方がよくない?」
 次子はモップの柄を握りした。
「……子供もいなくせに、偉そうにしないでくれる?」次子はワントーン低い声で言った。
「……」
 一子は口をつぐんで、ゆっくり水道をひねり、再び洗い物を粛々と洗った。
「……ごめん。言い過ぎた」
 水の流れる音にかき消されるようなか細い声で次子は言った。
「……言い過ぎじゃないよ。本当のことだから」
「……」
 一子が全ての洗い物を洗う間、次子はモップを握ったままカウンターの前に立っていた。次子は言葉を探したが、みつけられずに黙っていた。
 一子が洗い物を終え、水道を止めた。
「……来週、あんた休むじゃない?」
 一子が手を拭きながら言った。
「……うん」
 次子は頷いて言った。
 一子が手を拭き終え、裏口に向かった。
「ちょうどいいから、お店も、しばらく休みにする」一子が歩きながら言った。
「え?」
 次子は一子の背中に向かって言った。
「いつまで?」
「わかんない」一子は振り返ることなく言った。
「あ、冷蔵庫の食材さ。持って帰って。もったいないから」
 一子は裏口のドアを開けて出ていった。
「……」
 次子は閉まるドアをみつめ、肩を落とした。

 昼休みの三年二組の教室は静かだった。武蔵野市立第二中学、通称二中の三年生たちのほとんどが高校受験を控えていた。推薦組の合否結果もまだ出ていない教室では、全員がナーバスに振る舞うことを義務付けられているようだった。
 さつきは窓際の席で、友人の女子たちと都立入試の過去問集を開いていた。秋晴れの青空が閉め切った窓の外に広がっていた。
 教室の後ろからガシャンッと音がした。さつきは後ろを振り返った。
 リュックを片がけした石川晴が、掃除道具の入ったロッカーを開け、中からスケボーを取り出した。
「6時間目出ないの?」
 後方の席の男子たちが晴に声を掛けた。
「うん。ちょっと腹痛い」
「絶対ウソだし」
 晴は男子たちと軽口を叩きつつ、スケボーを抱え教室を出ていった。
 さつきの傍で、女子のひとりが小声で言った。
「石川くんのお母さん、水商売してて、客と駆け落ちして帰って来てないらしいよ」
「ウソっしょ? だったらマジ無理ゲー。受験とか」
「父親もどっか行っちゃってんじゃなかった?」
 周りの女子がひそひそ声で盛り上がる中、さつきは黙って問題集に視線を落とした。

 さつきは中一の頃から塾に通い始めた。その塾に晴もいた。クラスも別々で、小学校も一緒ではなかった二人だが、塾では時折話す仲となった。晴は飄々としていたが、生真面目なさつきより成績が良かった。しかし二年の夏休み、晴は突然塾をやめた。一応LINEで繋がっていたので、さつきは何度かメッセージを送った。「どうして塾やめたの?」「どっか違うとこにしたの?」晴はテキトーなスタンプを返して来るだけだった。中央高架下広場で晴がスケボーをするようになったのもこの頃だった。夏休みが終わると、さつきは周囲から晴の両親が離婚したらしいと聞いたが、LINEではそれには触れないようにした。次第にさつきは、晴に送るメッセージの言葉がみつからなくなった。
 三年でさつきと晴は初めてクラスが一緒になったが、担任はすでに晴を問題児として見放していた。さつきは晴とクラスが一緒になって心の内では嬉しかったが、まだ一度も教室で晴と会話していなかった。三年になってからも、何度かLINEのメッセージを作成はしたものの、さつきは送信ボタンを押せずにいた。
 
 晴は中央高架下広場の隅にリュックをおろし、スケボーを転がした。上はパーカーだが、下は制服のズボンのままだった。
 広場の奥の遊具のエリアで、若い母親たちが幼い子供を遊ばせていた。母親たちは晴に非難の視線を投げた。
 晴は気づいているのかいないのか、独りスケボーで地面を蹴って、技の練習を繰り返した。晴はまったく成功せず、失敗しては転がっていくスケボーを追いかけた。
 広場の傍らのベンチに三絵子が座っていた。スケボーが転がっていくのをぼんやり眺め、三絵子大きなあくびをした。

 日が傾き始め、井之頭池の水面は眩しく光っていた。井之頭公園の池の畔の園道を、美波はバンデシネに向かって歩いていた。美波は大きなリュックを背負っていた。リュックには数日分の着替えが詰まっていた。
 美波がバンデシネの玄関を開けると、カウンターの中の一子はサイフォンで珈琲を淹れていた。
「……いらっしゃい」
 一子は美波の姿をしばし眺めてから言った。
「……どうも」
 美波は頭を下げて、中に入ってドアを閉めた。店内には二、三人の静かな客がいた。美波はゆっくりカウンターに歩いた。
「いいですか?」
 美波はカウンター席の一つを指して一子に言った。
「……うん。どうぞ」
 美波は椅子の下にリュックをおろして座った。
「……」美波はうつむきがちに小さく唇を噛んだ。
 一子が棚から客用のカップとソーサーを取った。サイフォンキットの隣には、すでに自分用のマグカップが置いてあったが、一子はフラスコの珈琲を客用のカップに注いだ。
「……どうぞ」
 一子は客用のカップをソーサーに載せ、美波の前に置いた。
「……え?」
 美波は戸惑った。サイフォンで淹れた珈琲は千円近い値段だった。バンデシネで頼むのは巽ぐらいだった。店が落ち着いている時、一子がサイフォンで珈琲を淹れるのは自分で飲む為だった。
「……奢ってあげる」一子が言った。
「……ありがとうございます」
 美波は頭を下げ、カップを両手で大切そうに持って口をつけた。美波が普段口にする珈琲より苦味が少なく、スッキリしていた。
「美味しい……私、サイフォンで淹れた珈琲飲むの初めてです」
 一子は微笑んだ。
「じゃあがんばって、今度は巽くんみたいに、ちゃんと自分で頼んで飲んでね」
 一子はフラスコに残っていた珈琲を、自分のマグカップに注ぎながら言った。
「……」
 美波はうつむいた。カップをソーサーに置き、両手を膝に置いた。一子がマグカップを手にカウンター席に回った。美波から席を一つ空けて、店内を見渡すように半身で椅子に腰掛けた。
 美波は膝の両手を握り、拳を作った。
「……私、今年いっぱいで、山形に帰ることにしました」
 一子は思わず美波に顔を向けた。
「え、そうなの?」
 美波は自分の拳をみつめて言った。
「……辞めることにしました。漫画家」
「……」
 一子が美波のうつむく横顔を黙ってみつめたが、美波は一子の顔を見ることが出来なかった。
「そっかあ……」
 一子が視線を店内に移した。マグカップにひとくち口をつけてから、「おつかれさまだ」とそっと呟いた。
「……」
 美波はやおら身を屈めた。椅子の下のリュックを開け、中から銀行封筒を取り出して、一子に向かって顔を伏せたままテーブルの上を滑らせた。
「?」
 一子が封筒をみつめた。
「……あの、ルナ先生、少し足りないんですけど、これで年末まで、二階使わせて貰えませんか?」
 美波は顔を伏せたまま言った。
「……」
 一子は封筒をみつめ、左手で頬を少し掻いた。

<つづく>


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