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『喫茶バンデシネ』 ―第8話―

 駐輪場から見える井の頭線の高架に遮られた狭い空は、夕暮れに差し掛かろうとしていた。
 次子はママチャリのハンドルを握り、はす向かいのセントラルコーヒーを見上げていた。
「……」
 次子は大きく深呼吸して、車輪留めの少し手前にあった前輪を、勢いをつけガコンと突っ込んだ。カゴから薄っぺらいエコバックを取って、次子はセントラルコーヒーに向かっていった。
 入り口にはまだパート募集の張り紙があった。

 中央高架下広場も薄暗く、遊具エリアに子供や母親の姿はもうなかった。
 晴は飽きもせずスケボーで地面を蹴っていた。
 広場の片隅のベンチで、三絵子もそんな晴をずっとぼんやり眺めていた。
 晴は地面を蹴って、スケボーを空中で一回転させ、再び着地したいようだったが、三絵子が眺めている小一時間程、一度も成功しなかった。つまづいたり、時には尻もちをつきながら、晴は転がっていくスケボーを追いかけていた。
 三絵子は晴から視線を逸らし、小さなため息を漏らした。
「……帰るか」三絵子は呟いた。
 立ち上がろうとして、三絵子は思い出したようにジーンズのポケットを探った。
「あれ? アタシ、鍵……」
 三絵子は上着のライダースのポケットも探って茫然とした。
「……さっきのコーヒー屋?」
 三絵子は首を傾げて呟いた。

 一子は美波に少し背中を向けた角度でカウンター席に座り、テーブルの下で銀行封筒の中身をこっそり数えていた。
 美波は店に来たばかりから幾分落ち着いた表情で、珈琲カップに口をつけた。
「……そういえば、もうお店、ルナ先生ひとりなんですか? 次子さん達は?」
 一子は封筒をさっと隠して顔を上げた。
「ん? ああ。つぎちゃん居たんだけどね。ちょっと早いけどもう帰った。つぎちゃん居るとね、こうやって営業中、カウンター座ってると怒られんの」
 一子は不似合いな、悪戯っぽい顔で微笑った。
「さすが次子さん。ちゃんとしてますね」
「ちょっとうるさすぎない? 姉妹なのに全然似てないでしょ。アタシたち」
「そうですか? 似てますよ。一子さんと次子さん。笑った感じとか」
「そうかな? 私あんな、もったいぶった笑い方する?」
 美波は小さく吹き出した。
「……三重子さんだけ、あんまり似てないですけど」
 美波はそう言いうと、顔から笑みを失った。
「でもアタシだけ、父親違うんだよ」
 一子は素っ気なく言った。 
 美波が消え入りそうに「え」と漏らした。
「……そうなんですか」と控えめに美波は言った。
「うん。まあ、別に隠すことじゃないし、詳しい話はめんどくさいからしないけど。つぎちゃんとみえちゃんは同じ父親で、あたしだけ違うの。母親は一緒だけどね」
 一子はサバサバと言いいながら、マグカップのコーヒーを一口飲んだ。
「あたしから見ると、あの二人、けっこう似てんだけどねー」一子は言った。
 美波は自分の前にあるカップに手を添えた。
 カップの中の冷めかかった珈琲は、まだほんのり温かかった。
「……三絵子さん、漫画、描いてたんですよね?」
 美波はカップをみつめて言った。
「……うん。そうだよ」
 一子はマグカップをテーブルに置いた。
「美大受かって……フフ。さっきの美波ちゃんみたいに、おっきなリュック背負って上京してさ。で美大通いながら、最初はあたしと一緒に先生のとこでアシやって。で知らないうちに美大中退してて。であたしのアシやりながら……」
 一子はカウンターテーブルに肘をついて、本棚を眺めた。
「ちゃんと描いたんだよ。ああ見えても」
 美波はずっと、テーブルの上の珈琲をみつめて一子の話を聞いていた。
「……皐月やよい、ですよね」
「あ、よく知ってんね。あそこのヤツ読んだの?」
 一子は顎で本棚を指した。
「 ……」美波は答えなかった。
「……」一子もそれ以上、聞かなかった。
「どうして三絵子さん、漫画家やめたんですか?」美波は珈琲をみつめたまま言った。
「んー」一子は頬を軽く掻いた。
「まあ、よくある理由だよ」  
 一子は少しだけ残っていたマグカップの珈琲を飲み干した。
「……そうですよね」美波は小さく笑った。
「……」
 一子は小さく唇を噛み、マグカップを置いた。銀行封筒を置いて、カウンターテーブルの上を美波の方に滑らせた。
「……これ、やっぱいらない。美波ちゃん、二階、タダで使っていいよ」
「え?」
 美波が顔を上げた。
「その代わりさ、お願いがあるんだけど……」
 一子は戸惑う美波をまっすぐみつめた。

 声を押し殺し、三絵子はクククと笑った。ブックオフ吉祥寺南口店の百円コーナーで、三絵子は稲中卓球部のコンビニ本を立ち読みしていた。周りで立ち読みする者達が、三絵子が無邪気に吹き出す度に無表情な視線を向けた。

 三絵子がブックオフの袋を下げてセントラルコーヒーの前にやって来ると、辺りはもう暗くなり周囲の店舗の灯りが浮かび上がる時間帯だった。
 セントラルコーヒーの自動ドアが開いて、薄いエコバックを肩にかけた次子が出てきた。
「!」
 次子が三絵子を目にして立ち止まる。
「……つぎちゃん」
 三絵子は呟いた。
「みえちゃん! あんた、こんなとこで何やってんの?」
「いやつぎちゃんこそ」
「……私は、ちょっと……珈琲飲んでて」
 次子が後ろを少し振り返って言った。
「はは。店で飲めばいいのに」
 三絵子はあっけらかんと言った。
 次子が表情を強張らせ、唇をキュっと噛んだ。
「……あんた昨日、何やってたのか言ってみいさ」
 三絵子は橋下とのことを思い出した。自分の顔が、少し赤らむのを感じた。
「…………いいやんか別に。何やっとっても」
「いいわけないよお!」
 次子が遮るように言った。
「朝行ったらすごいことになってたよ!」
 三絵子は少し安堵した。
「ああ。そっちね。ごめんごめん。でもつぎちゃんは知らんかやけど、昔はよく」
 次子が再び遮った。
「もう昔じゃない! あんたも若くない。もうちょっとちゃんとしなよ。あんな外国の人、店に勝手に入れて騒ぐとか、レジのお金とか取られたりしたらどうすんのお!」
 次子の言った事全てが、三絵子の癇に障った。三絵子は一旦うつむいて次子を下から睨んだ。
「……つぎちゃんさ。ちゃんとちゃんとっていつも言うけどぉ、つぎちゃんの言うちゃんとって、一体なんやの?」
「それは……」次子は言葉に詰まらせた。
「……お店に、変な外国人の人とか連れ込んだりしないとか」
 今度は三絵子が遮った。
「変なって誰が言ったん?」
「……」次子は押し黙った。
「二階の変な漫画家達が言ったん?」
 三絵子が言った。
「! あんたナニその言い方ぁ!」
 感情的になった次子に、三絵子は冷ややかな目で言った。
「つぎちゃんから見たら、確かにアタシは、一つもちゃんとしとらんさ。でもつぎちゃんもお、もうちょっとちゃんとした方がいいよ? 女つくったダンナの事とか」
 次子の口がわなわなと震えたが、言葉は出なかった。三絵子は次子を避けて通り過ぎ、セントラルコーヒーの自動ドアを開けた。
「ちょとみえちゃん!」
 次子は振り返って叫んだ。
「三絵子お!」
 三絵子はふり返ることなく店に入っていった。次子が戸惑っている隙に、自動ドアは静かに閉まった。
「……」
 ドアの向こうで店員と話す三絵子を一瞥し、次子は駐輪場へと足早に立ち去った。

 日が暮れると井の頭池の水面は真っ黒だった。水銀灯の灯りを頼りに、三絵子は池の畔の遊歩道をバンデシネに向かって早足で歩いた。

 玄関の扉がカランカランと音を立てて開いた。
「よかったぁ……」
 三絵子が店内に入った。
 二人掛けのテーブル席に一子は座っていた。
 正面に女性がひとり、三絵子に背を向け座っていたが、他に客はいなかった。
「……」
 三絵子は一子の正面に座っているのが美波だと気付いた。
「……いっちゃん、何してるの?」
 一子は美波のネームを見ていた。
「あんたこそ何してた? 散々メールしたよ。電話も」ネームを見たまま一子が言った。
「ああ……ごめんごめん」
 三絵子は悪びれた顔でカウンターに歩いた。
「充電切れっぱなしだった」
 三絵子はカウンター越しに、キッチンに伸びているスマホの充電コードに手を探った。
「あとついでに鍵も無くしちゃってさ。いっちゃん一緒に帰ろうよ」
 三絵子はスマホを充電コードをみつけ、スマホを充電しながら言った。
「鍵って、ここの鍵も一緒?」
 テーブル席から一子が言った。
「うん。鍵束ごと」 
 一子はネームを読み終え、テーブルで丁寧に揃え直した。
「ちょうどよかった。あんた実家帰りな」
「え?」
 三絵子がカウンターから振り向いた。
「……どうしたの急に?」
 怪訝な顔で、三絵子は言った。三絵子を無視するように、一子は美波に言った。
「大作だね。年末進行で、十一月末、延ばせても十二月頭って感じ? 締め切り」
 美波は黙って頷いた。   
「じゃ二ヶ月間。よろしくお願いします」
 一子は頭を下げた。
「あ、ハイ……」
 美波も頭を下げた。
 三絵子が二人のやりとりに眉を顰めた。
 一子はカウンターの三絵子をみて言った。
「三絵子。喫茶店は当分閉めることにするから。ココに用がない人間は、来ちゃダメだから」
「は? どういうこと?」
 三絵子はさらに眉を顰めた。
 一子は三絵子を真っ直ぐ見据えた。
「漫画描くの手伝ってくれるんなら、来てもいい」
「……」
 三絵子は背を向けたみ座っている美波を一瞥した。
「……なんであたしがこのコなんかの手伝いなんてしなきゃならんのさ」
 三絵子はカウンターに肘を載せ、吐き捨てるように言った。
「あたしだよ」一子は言った。
「は?」
「あたしが描くの。漫画」
「なんで?」
 三絵子はきょとんとした顔で一子を見た。
 一子もきょとんとし、子供のような物言いで、
「だって漫画家だもん」と口を尖らせた。

<つづく>


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