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『喫茶バンデシネ 』 ―第9話―

 朝の交差点で、ママチャリのハンドルを握り、次子は学校や会社に向かう人々と共に赤信号を待っていた。この日は曇った白い空だった。肌寒い風も吹き、少し早く冬が訪れたような朝だった。
 信号が青に変わる。ペダルを踏み込んで、次子は井の頭通りを真っ直ぐ進む。吉祥寺通りの交差点を過ぎでも右に曲がらず、井の頭公園に入る事なく、京王線の高架下に向かってペダルを漕いだ。次子はいつもの駐輪場に向かっていた。
 駐輪場にママチャリを留めると、カゴから薄っぺらいエコバックを取って肩に掛け、小走りに道を渡って、次子はセントラルコーヒーに入っていった。

 冷たい秋風が吹かれ、三絵子はフェイクレザーのライダースのポケットに両手を突っ込んだ。
 線路沿いの道をとぼとぼ歩いていると、左側に立ち並ぶの家の合間を、吉祥寺に向かう井の頭線急行列車が三絵子を追い越した。
 扉の札がクローズのバンデシネの前で、三絵子はダメージジーンズのポケットから、忌々しげに玄関の鍵を取り出して鍵穴に突っ込んだ。
 ドアベルをけたたましく鳴らして中に入ると、店内にはもちろん、誰もいなかった。
 テーブル席の椅子は机の上に逆さに置かれ、キッチン周りにはベージュのクロスが掛けられていた。
 三絵子は階段の入り口に向かった。入り口で立ち止まり、階下から二階をめんどくさそうに見上げた。
「……」
 三絵子は観念したようにため息をついた。
 ミシ。ミシ。と不機嫌な音と一緒に、三絵子は階段を昇っていった。 

 三絵子が仕事場に上がると、美波がデスクトップの前に座っていた。
「おはようございます」
 美波が三絵子に言った。
「……もう居んの?」
 三絵子は無愛想に言った。
「はい。泊まりなので」
 美波は自分の座っている席を立った。
「ここに座ってください」
「……」
 三絵子は襟元を掻きながら美波のもとに歩いた。三絵子がデスクトップの前に座ると、美波は三絵子の隣に座った。
「三絵子さん、以前は全部、アナログだったんですか?」
「……トーン以外は」
「じゃあフォトショップは触れるんですね? バージョンいくつですか?」
「……バージョン? 覚えてないよそんなん」
「分かりました。じゃとりあえず、フォトショップは後回しにしましょう」
 美波は立ち上がって、中央の作業机に歩き、置いてあったタブレットを手にして
三絵子の隣に戻った。美波の事務的な振る舞いには、どこか覚悟を決めたような強かさがあった。
「デジタルの基本から始めましょう。ペンタブで描いた事ありますか?」
「……やってみたけど、なんか、しっくりこなかった」三絵子はげんなりと言った。
「三絵子さんが使ってた頃より、描きやすくなってると思います」
 美波はタッチペンを三絵子に差し出した。 
「……」
 三絵子は、利き腕ではない左手で、渋々受け取った。

 次子は制服の胸に研修中のプレートをつけ、セントラルコーヒーのバックヤードに立っていた。キュロットスカートから覗く膝小僧が少し恥ずかしかった。
 次子の前に笑顔で立つ女性の制服は、上のシャツは次子と同じだが、下はスラックスだった。足が長く、立ち姿も背筋がシャンとしていた。
「日下部です。よろしくお願いします」
 次子はお辞儀をして言った。
「よろしくお願いします。マネージャーのトラン・アン・茉莉子です」
「……トランさん?」
「アンで大丈夫です」スラックスの女性のネームプレートには、『アン』とだけ書かれていた。
「じゃあ食洗機から」 
 アンは笑顔で次子をキッチンへと促した。
 セントラルコーヒーのキッチンは、建物と同じで細長く、スタッフ同士が通り過ぎるのにも向かい合わなければ無理だった。バンデシネのキッチンが無駄に広いことを次子は再認識した。
 メモ帳を手に、次子はアンから店内の説明を受けた。食洗機、冷蔵庫、ストック棚と、アンはテキパキと、かつ分かりやすく次子に説明した。
「じゃあ次、レジ周りに行きましょう」
 アンはレジに立ちながら、接客の合間に次子に説明した。バンデシネで使っていたレジは旧式だったので、セントラルコーヒーのハイテクなレジに次子は戸惑った。アンの説明を次子がひたすらメモを取っていると、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 アンが心地よい音程で言った。隣の次子も出遅れながら「いらっしゃいませ」と繰り返した。
 やって来た客は真野だった。
 次子の口が開いた。
 真野はテクテク、レジの前まで来た。
「日下部さん、お願いします」
 アンが小さく次子に言って、レジの脇に移動した。
「え、あ、はい……」
 次子はレジに立った。
「……」次子は真野の名前が思い出せなかった。
 真野は次子を気に留めることなく、黙ってレジカウンターのメニュー写真を指差した。
「あ、はい、ブレンド……。サイズの方は?」
 次子はマニュアル通りに真野に尋ねた。

 次子は昼過ぎにはセントラルコーヒーのパート研修を終えた。ロンロン市場で軽く買い物をするつもりが思ったより時間が掛かり、次子は吉祥寺駅公園口にある個別指導の学習塾に駆け込んだ。十四時からさつきの塾の面談だった。
 水曜はさつきの学校の授業は午前のみ、給食で終わりだった。さつきはすでに面談ブースに座っていた。次子がさつきの隣に座ると、さつきは黙って右手を差し出した。次子も黙ってさつきのスマホを差し出した。面談が始まるまで、さつきは無言でスマホをいじり続けた。
「さつきさん、自習室も全然使わないでこの成績は素晴らしい。お家の環境が、しっかりされてる証拠ですね。どうでしょうお母さん、もう一つ、上のランク狙ってみるのは?」   
 面談が始まると、担当講師はさつきの模試結果を次子に見せながら言った。恐縮し、苦笑いする次子の横で、さつきはそっぽを向いたままだった。さつきの帰宅はほぼ毎日九時過ぎだった。塾の自習室で勉強していると、次子は思い込むようにしていた。

 面談が終わると、さつきは井の頭通りの歩道をスタスタと歩いた。次子はさつきを追いかけ、ママチャリを引いて歩いた。
「……夜、いっちゃんのお店、また行ってるの?」
 次子は後ろからさつきに言ったが、さつきは黙ったままだった。
 聞こえなかったのかと、次子がもう一度たずねるべきか迷っていると、「成績下がってないし」
とさつきがボソっと返した。
「……」
 次子はさつきに離されぬように、自転車を引いたが、気を抜くとさつきとの距離はすぐに離れた。その度、次々は走ってさつきを追いかけた。空回りするママチャリのチェーンがパタパタ鳴った。
「……いっちゃん、急に、しばらくお店お休みにするって言い出したの」
 次子はさつきを追いかけて言った。
「……」
 さつきが歩みを緩めた。
「だからママね、セントラルコーヒーって分かる? アトレの近くの」
「……センカフェ?」
 さつきが言った。
「あ、そうやっていうんだ。そう、そのセンカフェでね、ママ、パートしようと思うんだけど……」
 二人の距離は程よくなった。
「……私立、別にやめてもいいよ」
 さつきはぶっきらぼうだが、やや遠慮気味に次子に言った。
「いや、別にお金のため……うんまあなくはないけど、ママ……やっぱり家に居るだけじゃなくて、……外に出て、働きたくって」
 交差点の赤信号で、二人は横断歩道の前に並んで止まった。
「ごめんね。さつきは今年受験なんだし。……ちゃんとした母親なら、子供の為に家に居ると思うんだけど」
「全然いいんじゃない」
 さつきは横断歩道の向こうを見ながら言った。
「ホント?」
 次子は感謝するような目でさつきの顔を見た。
「うん。働きたければ働けばいいんじゃん。別にいっちゃんのとこじゃなくたって」
 さつきは前をみたまま言った。
「ありがとう……でもママ、別に家に居るのが嫌って訳じゃないんだよ。さつきのことも寿のことも、ちゃんと大事に思ってるから。それだけは分かって。ね?」
「……分かってるよ。私もママのことが嫌って訳じゃないから」
 さつきは次子と目を合わせようとはしなかった
 信号が青に変わった。 
「ママみたいな人生が絶対イヤなだけ」
 さつきは横断歩道を渡った。
 次子は渡らなかった。
「……」
 次子はママチャリのブレーキを握ったまま、横断幕のさつきの背中を見送った。

「……もう紙いらないね。エコだね」
 三絵子の前のデスクトップには、三絵子がテキトーにタブレットで描いた絵が、デジタル処理を施され、あっという間に漫画の一コマになった絵があった。美波の指導をイヤイヤ受けていたはずの三絵子だが、いつの間にか夢中にかっていた。
美波が言う通り、ここ十年のデジタル作画の進歩は三絵子の想像以上だった。ペンタブレットでの作画も描きごたえがあり、デスクトップのデジタル処理もスピードも本当にあっという間だった。
 三絵子はいつの間にか作業に没頭して時間が経つのも忘れていた。気付くと二階には美波と三絵子以外に三名ほど作業する者が居た。
「でも、ルナ先生みたいに、人物だけは紙でペン入れする先生はまだまだいますよ」
 デジタル作画の解説本を手に美波は言った。
「ロートルだけじゃない? まだいっちゃん、あのサインペンで描いてるの?」
 デスクトップでチマチマした作業をしながら三絵子が言った。
「みたいです。まあ、エッセイ漫画なんで。その方が、味も出しやすいですし……」
「や昔からずっと、いっちゃんアレだから」
 三絵子が毒づくように言うと、美波は微笑った。
 三絵子に対して、特別な緊張感を抱いていた美波だが、作画を通して話すと緊張はやわらいだ。
また、タッチペンを握るうちに、少しずつカンを取り戻したのか、三絵子が無邪気に描く絵のタッチは、やはり皐月やよいであることに、美波は感動した。それは文月ルナの一子、タツミタカアキの巽の作画を初めて目の当たりににした時の尊敬や畏敬の念とは少し違って、懐かしさに似た気持ちだった。美波はふと、ずっとこうして三絵子と一緒に漫画を描いていたような気がした。
「ていうかあんたさ、自分の漫画描かかなくていいの?」
 三絵子がタッチペンを握ったまま言った。
 美波は眼鏡を整えた。
「……ちゃんと描いてます。昨日も泊まり込みでやってました」
 美波は朝一番のようにやや事務的に言った。
「二階を二ヶ月タダで使わせてもらう代わりに、月、水、金は三絵子さんにパソコンで漫画描くのを教えるって、ルナ先生と約束したんで。これはこれで仕事なんで、ちゃんとやります」 
 美波はデジタル作画の解説本のページをめくった。
「次はこのフィルタを使ってみて下さい」
「……」
 三絵子は小さく舌打ちした。
「てか肝心のいっちゃんはどこいってんだよ……」
 三絵子はタッチペンを動かしつつ呟いた。
 巽が階段を昇ってきた。仕事場に三絵子と美波が並んでいるのをみつけ、立ち止まった。三絵子のペンを握る姿を、巽が懐かしそうに眺めた。

 一子は歩きながらあくびをした。
 日暮れまでには時間はあったが、冬が訪れつつある昼下がりの日の角度はかなり斜めで、ボートの浮かぶ水面は眩しかった。一子は池の畔を歩いていた。顔は眩しげというより眠たげだった。ダウンベストでなく薄手のビンテージ風のアウトドアジャケットを羽織り、大きめのトートバックを肩に掛けてた。
 しばらく歩くと、一子は公園のベンチに腰をおろした。一子がこれから描く予定の作品も、美波と同様、発注したのは百瀬だった。とはいえ美波は雑誌掲載だったが、一子はデジタル掲載で、ページ数もはるかに少なかった。しかし年末進行に差し掛かるこの時期の依頼は、出来れば一子は受けたくなく、最初は断りのメールを入れた。百瀬からの返信で、一子は百瀬が長年勤めた壮文社を早期退職する旨を報告された。ついては壮文社最後の仕事として、一子に読み切り作品を頼みたいと綴られていた。一子は百瀬と長い付き合いだったが、百瀬から何かしら情緒的な文面を受け取ったのは今回が初めてだった。
 百瀬は一子が大塚義朝のアシスタントをしていた頃からの付き合いだった。現在の百瀬は禿げた頭をスキンヘッドにしてハットで隠し気味だが、出会った頃は壮文社のバンコランとの異名を持っていた。長髪と洒落た身なりで有名な敏腕編集者だった。次子にとって百瀬は、最も厳しい編集者だが、最も信頼できる編集者でもあった。残念ながら三絵子には厳しさの方が勝ってしまい、今でも三絵子は百瀬を毛嫌いしている。
 ネームを考えるつもりが、一子は昔のことなどをボンヤリ思い返したりしてしまい、気付くと辺りはすっかり暗くなっていた。公園のひと気も少なくなり、気温も下がっていた。一子は座りっ放しで冷えた身体を温めようと立ち上がり、再び遊歩道を歩いた。
 井の頭公園を抜け、一子は吉祥寺駅に向かって歩いた。情にほだされ依頼を受け、次子、三絵子が煩いのでバンデシネも休業にしたものの、やはり今、一子は特に描きたいモノがなかった。デビュー当初も妙に冷めた新人と言われたが、描きたいモノはソコソコあった。特に面白い作品を読むと密かに嫉妬し、創作意欲も触発された。しかし五十を過ぎると描きたいものはほとんど全部描いていた。これではまずいと刺激を受けようと他人の作品を読んでも、ただ無心に読む耽るだけだった。昨夜もスマホで、巽の医療マンガ『アスクレピオスの原罪』を一巻だけ試し読むつもりが、続巻購入ボタンを押し続け、気づいたら朝だった。全二四巻読破していた。
 一子がやっぱり百瀬に断りのメールを入れようかと思い始めると、スケボーの音が聞こえてきた。一子はJRの高架沿いを西荻に向かって歩いていた。スケボーに乗った少年達が一子の脇を通り抜けていった。
「……」
 一子は少年達が滑っていった方に歩いた。しばらく歩くと、中央高架下広場に二、三人のスケーターがいた。その中の一人は晴だった。 
 一子は広場の外にある自動販売機の傍で、スケーターを眺めた。

 喫茶ヴィアンはバンデシネのような昭和の喫茶店だが、小さな店だった。JRと井の頭線の高架の間、末広通りの路地にある雑居ビルの二階の店内は、ウナギの寝床のように狭く細長かった。客は十人も入れないほどだったが、二十一時近くの店内に居るのはマスターと一子だけだった。 
 マスターはループタイをした老人で、小さなキッチンの水周りを几帳面に磨いてた。
 一子は一番奥の席でキャンパスノートを開いていた。安物のシャープペンシルで、一子はスケボーを抱えた少年をスケッチしていた。少年にはどこか晴の面影があった。
 一子は新人の頃から、この喫茶ヴィアンでよくネームを作った。一子以外、三絵子も巽も、大塚義朝も知らない店だった。もう閉店時間で入り口には閉店の看板が出しているが、マスターは一子を追い立てず、静かに店を片付けていた。
「そうなんだ……」
 一子がマスターに言った。
 帰り際、カウンター越しにマスターが今月で店を閉めると一子に告げた。雑居ビル自体が取り壊しとなるとのことだった。
「最近全然来れてなくて、ごめんなさい」
 一子は言った。
「いえいえ。長らくお使いいただいて、ありがとうござました」
 マスターは頭を下げた。
 一子はこちらこそと微笑んだ。
「……おつかれさまでした」
 マスターを労うように、一子は頭を下げた。

<つづく>


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