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『喫茶バンデシネ 』 ―第10話―

 十一月も半ばになり、バンデシネが休業して一ヶ月が経とうとしていた。  
井の頭公園の樹々も秋色を過ぎ、園内は落ち葉で埋め尽くされつつあった。
 三絵子は二階の仕事場のソファで、寝巻きのようなパーカー姿でリラックスし、スマホで漫画を読んでいた。しかし、先程から目でコマを追ってはいるものの、視界の端で、ペンタブレットに向き合う美波が悲壮感を漂わせ、三絵子の有意義な読書の邪魔をしていた。
「……」三絵子は美波を横目で睨んだ。
 美波は髪はボサボサ、眼鏡もひときわ脂でこってりしていた。もはやのレンズの向こうの瞳は見えなかったが、身体全体で眠気を発していた。
 一子のネームはまだ上がってこなかった。その間、美波の指導により三絵子は一通りデジタル作画を体得しつつあったが、美波は自分の作品を思うように進められていなかった。ついには三絵子は見兼ねて「あとは自分で覚えるから自分の作品を描け」と美波に告げた。それから一週間ほど経つが、一子のネームは一向に上がらず、三絵子は手持ち無沙汰だった。美波は煮詰まった空気をますます漂わせ、仕事場全体を澱ませた。
 三絵子はソファからおもむろに立ち上がった。
 部屋では巽を含めた数人の者が作業していた。彼らが作業しながら三絵子に視線を送った。三絵子は美波の隣に腰をおろし、「トーン貼りやったげる。暇だから。データちょうだい」とデスクトップPCを前にして言った。
「……」
 美波がレンズの奥の瞳をぼんやり瞬かせた。
「はやく! いっちゃん、ネーム出来ちゃったら、手伝ってあげらんないよ」
 三絵子は声を荒らげた。
「あ、ハイ……」
 美波はデータを三絵子に転送する準備を始めた。三絵子は唇を尖らせながらデスクトップPCを起動して、タッチペンを握った。
 巽が三絵子の憮然とした横顔をしばしみつめた後、自らも粛々とペンを動かした。

 次子はセントラルコーヒーの二階で給水機の掃除をしていた。給水機は階段を上がってすぐにあった。コップを補充し、ダスターで飛び散った周りを拭いていた。掃除をしながら、次子は二階の奥に視線を送った。全面窓に面したカウンター席には真野の背中があった。
 真野はやって来ると常にこの席に座った。午前中にやって来て、次子がパートを上がる夕方になっても座り続け、タブレットでずっとカリカリ描いていた。次子はこうして仕事の合間に、真野の猫背に心の中で励ましの言葉を送ったが、まだ真野の名前は思い出せてはいなかった。
 次子が掃除道具を持って一階に降りようとすると、階段の途中で次子を眺めていた男女と目が合った。
「?」
 次子は二人に曖昧に微笑むと、女性の方が、トレイに飲み物を載せた男性の方ににヒソヒソと何やら耳打ちした。男性が次子に向かって言った。
「あの、バンデシネの方ですよね?」
「あ…………ハイ」
 次子は戸惑いながらも頷いた。女性が男性の耳元で「ほらやっぱり」と囁いた。男性が親しげな笑みを浮かべた。
「僕たち、バンデシネやってないから、しょうがないからここでって来てみたら、バンデシネの人がいるんでびっくりしてて。ね」
 男性が隣の女性と頷きあった。
 次子は申し訳なさそうな愛想笑いを二人に返した。  
「……あの、バンデシネ、いつまでお休みなんですか?」
 女性が次子に尋ねた。
「……」
 次子はなんとも答えられず、ただ愛想笑いを繰り返した。

 夕方になると、三絵子は美波の手伝いを一旦終えた。
 三絵子がパーカーに一子のぺらぺらのダウンベストを羽織って階段を降りると、一階の客席側だけに灯りがついていた。
「……」
 三絵子が客席を見渡すと、本棚の隣、二人掛けテーブル席で、さつきが参考書を開いていた。
「あ。アンタさつき?」
 三絵子が言うと、さつきが参考書から顔をあげた。
「えーもう全然わかんない。アタシが見たの産まれたばっかだったから。いやー大きくなった。んだよね? 多分。あ、アタシ三絵子」
 三絵子は本棚の前に立って、さつきを正面から眺めて言った。
「……どうも」
 さつきは不機嫌顔で頭をちょこんと下げた。
「あ、大丈夫大丈夫。内緒なんでしょ。つぎちゃんには。ここで勉強サボって、漫画ばっか読んでるの……」
 三絵子は言いながら、本棚の本をなんとなく物色した。すると自分、皐月やよいの単行本が視界に入った。
「……」
 三絵子はなんとなく自分の本を手に取った。
 さつきは勉強を再開していた。  
 三絵子自は分の本をパラパラ開いた。   
「……でも知ってる? 今、ここは漫画家っていう、ダメ人間しか来ちゃいけないんだよ」
「……さつきは、特別だからいいって、いっちゃん言ってくれたし」
 さつきは参考書から顔を上げることなく、シャープペンシルを握りながら言った。
「……」
 三絵子は自分が皐月やよいだった頃の絵を眺めながら、横浜の病院に一子と訪れた時のことを思い出した。さつきが産まれたのは五月だった。次子は子供にさつきと名付けてもよいかと三絵子に訊ねた。三絵子はその頃、もう皐月やよいのペンネームでデビューしていて、三絵子も五月生まれだった。「アタシがサツキなんだからメイにして」と三絵子が言うと、一子が「トトロ?」と呟いた。「えーみえちゃんの妹?」と次子は苦笑した。三絵子は皐月やよいの本を閉じた。
「じゃいっか」
 三絵子は本を棚に戻して、玄関に向かった。
「でもほんと、漫画ばっか読んでると、ちゃんとした大人になれないから気をつけてよ」
 さつきに振り返りながら、扉を開けた。
「あ、中から鍵、ちゃんとしといてね。じゃあね」
 ドアベルをけたたましく鳴らし、三絵子は出ていった。
 さつきは怪訝な顔で閉まる扉を眺めた。
 次子のようになりたくはないが、三絵子のようになってはもっとダメだ。 
そんな思いが頭をよぎり、さつきは小さく息を吐き、再び参考書に向き直った。 

 吉祥寺駅の公園口を出て左に行った末広通りは、辺りの日が落ちるにつれ賑やかさを増した。通りをJRの高架側に少し入った裏路地の、こじんまりとしたラブホテルの一室で、三絵子はダブルベッドに寝そべり、最新モデルのスマホを手にして言った。 
「わーかわいいじゃん」
 スマホには簡単なイラストのアニメーションが映し出されていた。
 三絵子はベッドの頭の灰皿に、手にした煙草をたてかけ眺めていた。
「あざす」
 隣に寝そべる橋下が言った。
 二人とも裸で、薄掛けの布団が申し訳程度に被さっていた。ほぼベッドで埋まる狭い部屋は暖房が効き過ぎで、橋下が行為の最中、枕元の操作パネルでオフにしていた。ベッドと壁の隙間のような床には、二人の脱いだ衣類が落ちていた。
「これどんくらいの人が観てるの?」
 三絵子が橋下にスマホを差し出した。橋下は受け取って、いじりながら、「えっと……五万ビュー」と言った。   
「それってどうなの? 凄そうだけど」
 三絵子は灰皿の煙草を取って、うつ伏せのまま吸った。
「どうなんすかね。でもだいだい月二十万ぐらいにはなってますよ」
「えー。漫画描くより全然いいじゃん」
 三絵子が灰皿に煙草を立て掛けた。
「ですよね。ホントあの二階の漫画家の人達とか、不思議だなあって。だから面白かったんすけど。時間単価いくらだよって」
 橋下が仰向けに寝返って、上半身を起こしながら言った。
「そうだよねえー」
「あ、小出さん、頑張ってます?」
 橋下がスマホをいじりながら、背後の寝そべる三絵子に言った。
「なんか頑張っちゃってるよー。時間足りないみたいで。もう私、だいたい覚えちゃったから、教えるのいいから自分の描けばって言ってる」
「よくやりますよね。僕から見ても、彼女、デッサンもパースも基礎がなってないから、描くの遅いんすよね。まぁがんばればって感じっすけど。あこれも結構いい感じなんで」
 橋下が振り返って三絵子にスマホを差し出し、「ミツコさん、観てていいですよ。俺、ちょっとトイレいってきます」床からトランクスだけを拾い上げ、ベッドを降りてトイレに向かった。
 トイレの扉は薄く、水の音がジョボジョボ聞こえた。
「……」
 三絵子は橋下のスマホをぼうっと眺めた。
 灰皿に立て掛けた煙草の灰が長く、落ちた。

 橋下がトイレの扉を開けると、三絵子は下着姿でベッドに腰掛けていた。三絵子はブラのホックを後ろ手で留めていた。
 「あれミツコさん帰るんすか?」
 三絵子は橋下に背を向け、部屋の出口を向いていた。
「うん」
 橋下はベッドに寝そべった。
「いいっすよ。ホテル代、俺出すんで。朝まで寝てってもらっても」
 橋下は枕の傍に置かれた自分のスマホを充電コードに繋いだ。
「……アタシね。三女じゃない? 一番目の子が一子、次の子が次子、でアタシが生まれた時、母さん、三番目の子だから、三に子でミツコでいいやって言ったんだって」
 三絵子は言いながら、Tシャツと一緒に脱いだパーカーを頭から被った。
「ハイ」
 橋下は充電コードに繋いだスマホをいじりながら相槌を打った。 
 三絵子は隙間の床の衣服を漁った。
「そしたらいっちゃんがね、それじゃあんまりにも考えなしだって」
「ハイ」橋下は適当だが律儀に相槌を打っていく
 三絵子はジーンズをみつけ、片足ずつ太ももまでを通し、
「……いっちゃん、その頃から絵ばっか描いてたから」立ち上がって、尻の上まで引っ張り上げた。「ハイ」
 三絵子は再びベッドに座り、床を探した。
「……三と子の間に絵を入れろて、母さんに頼んで」
「……」
 橋下が相槌を打つのをやめ、上体を起こした。
「アタシは、三絵子になったんだ」
 三絵子は靴下を履きながら言った。
 橋下がベッドの上でゆっくり正座した。
「アタシはミツコでも、テストで名前書く時とか、楽でよかったのになあって思ってるんだけど……」
 三絵子はペラペラのダウンジャケットを羽織って、前を閉めた。
「すいません……。俺、かなり失礼でしたね」
 背後で正座する橋下が言った。
 三絵子は座ったまま、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。
「ううん。全然失礼じゃなかったよ。ちゃんといつもゴムしてくれたし。失礼だったのは、アタシの方」
 三絵子は立ち上がって、橋下に振り返った。
「ありがとね。橋下くん。じゃあね」

 美波は額に解熱シートを張って、タッチペンを握っていた。
 時刻は十一時を回り、バンデシネの二階には美波しかいなかった。
 抗えない眠気に襲われ、瞼の重みが増した時、階段の軋む音がした。美波はハッと顔をあげ、視線を階段に投げた。三絵子が階段を昇ってきた。
「三絵子さん……」
 三絵子はスタスタと歩いてきて美波の隣に座った。
「データちょうだい」
 三絵子がデスクトップを起動しながら言った。
「……」
 美波が的を得ない顔をしていると、「ちょうだい!」と三絵子がもう一度言った。
「あ、ハイ!」
 美波が眼鏡をずり上げ、タブレットをスクロールさせた。
「あと何ページ?」
「え……あと、三十二ページ」
「まだそんな残ってんの?」三絵子の声が上ずった。
「すいません……」美波は消え入りそうに言った。
「今月中には終わらせるよ」
 三絵子はタッチペンを握っって、首をコキっと鳴らした。
「……」
 美波はモニターをみつめる三絵子の横顔をみつめた。
「ほら手、止まってる!」三絵子が言った。
「スイマセン!」
 脂で濁った眼鏡を再びずり上げ、美波もタッチペンを握り直した。

<つづく>


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