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『喫茶バンデシネ 』 ―第11話―

 誰かが肩を軽く揺すった。
「あ……すいません」美波は思わずそう洩らして、机から上体を起こした。眼鏡のないボンヤリした視界に、巽が立っていた。巽は自分の人差し指を口もとに持っていき、ソファの方を目配せした。
 ソファで三絵子がふんぞり返って爆睡しているのが、裸眼の美波にも分かった。
 早朝のバンデシネの二階に居るのはこの三人だけだった。巽は手に提げていた小さなコンビニ袋を美波に掲げ、「休憩しない?」と囁いた。美波は頷いて、散らかった机の上の中の眼鏡を探した。
 巽と美波は一階に降りて外に出た。早朝の冷たい空気が美波の目を覚ました。灰色の重たい空だが、雲の切れ目からは薄日が差していた。美波はそんな僅かな日の光でも眩しくて、まともに見られず目を細めた。
 二人は喫煙所に回った。巽がコンビニ袋から、美波に栄養補給ゼリーをに手渡し、ベンチを指して座るよう促した。
「……」
 美波がゼリーを手に恐縮していると、巽は立ったまま、電子タバコのスイッチを入れた。美波は頭を下げてベンチに座った。煙草を吸わない美波は、このベンチに座るのは初めてだった。
 キャップを外してゼリーを咥えると、冷たく、甘い味覚が舌から喉を通っていった。美波は思わず吸い口を咥え直し、両手で容器を握りしめた。ゼリーが勢いよく押し出され、美波の頰が一旦膨らんで、喉がごくんと鳴って窄んだ。
「……自分で自分の呪いを解くこと、出来そう?」
 巽が電子タバコの煙を吐きながら言った。
 美波は少しはにかんで微笑った。
「それ、ルナ先生に言ったら、『疾風のバイライン』のセリフだってバレちゃいました」
「え、ほんと?」
 巽がむせたように言った。
「ルナ先生、ああ見えて、ウェブ連載まで追っかけて、ちゃんと読んでくれてんだ」
 巽は感慨深げにタバコを咥えた。
「……ルナ先生のもウェブみたいで。だから私のより、ちょっと締め切り遅いらしくて。そのおかげで、いま、三絵子さん手伝ってくれてるんです」
 三絵子が美波を本格的に手伝うようになって一週間ほど経ち、十一月ももう終わろうとしていた。年末進行もあって、美波の締め切りはあと三日だった。幸いな事に、ウェブ掲載で年末進行の影響の少ない一子は、未だネームを上げていなかった。結果、三絵子は美波の専属アシスタントとなった。三絵子は優秀な働きをみせた。デジタル作画もほぼ自分のモノとし、器用に使いこなした。
「あと何ページ?」
 吸い終わった電子タバコをポケットにしまい、巽は美波の隣りに座った。
「あと、六ページです」
 美波が言った。
「間に合いそうだね」
「三絵子さんのおかげです」
「優秀でしょ? 俺は三絵子さんに一から叩きこまれたから。厳しかったけど、優しかったよ」
 巽が懐かしそうに言った。
 美波はここ一週間の三絵子との時間を考えた。漫画家・皐月やよいは、決して世間的に評価されているとは言いがたいが、美波にとってはかけがえのない作家だった。そんな皐月やよい、三絵子と自分が、一緒に漫画を描いているという現実を、美波はうまく理解することが出来なかった。ただ、三絵子と一緒に作品を描く事は純粋に楽しかった。
 三絵子はやはり、漫画を描く事が好きだった。そのことが、美波にとっての救いとなった。皐月やよいの作品に出会った自分、それがきっかけで漫画を描き始めた自分を、美波は肯定する事が出来た気がした。
「……解けそうです。自分の呪い」
「……そう」
 巽が少し淋しそうに言った。
「……でも、また新しい呪いにかかっちゃいそうで怖いです。三絵子さんのせいで……」
 美波はゆっくりゼリーの吸い口を咥えた。
「……」
 巽は美波の横顔にそっと視線を送った。美波は萎んだ容器を握りしめ、吸い口を切なそうに咥えていた。脂で曇ったレンズ越しの瞳は、一点をみつめていた。

 午後になると日が差してきた。空が明るくなるにつれ、井の頭公園を歩く一子の足取りも軽くなった。
 井の頭池のほとりでバイオリンを弾く男性を横目で通り過ぎ、野外ステージの脇から公園を出た。いせや公園店から焼き鳥の焼ける匂いがした。一子は誘惑にかられつつ、肩に掛けたトートバックの取ってを握りしめて吉祥寺駅に向かった。
 駅周辺に来ると、井の頭通りと吉祥寺大通りの角にあるセントラルコーヒーの前を曲がって、井の頭線の高架を潜った。JRの高架の下で通りを右に渡り、高架沿いの道を西荻方向に歩いた。
 しばらく行って中央高架下広場にたどり着くと、一子は広場の入り口で立ち止まった。
 ここ最近、一子が通っている広場のベンチに、制服姿のさつきが居た。
 広場には晴を含め、少年が二、三人、スケボーを持ってたむろしていたが、まだ時間が早く、広場の主役は遊具で遊ぶ幼い子供やその親達で、少年たち広場の片隅に居た。
 さつきと少年たちの距離は、広場の端っこと端っこで遠かった。
 一子はさつきの隣に座った。
 申し訳程度に参考書を開いていたさつきは、ワンテンポ遅れて顔を上げた。
「……いっちゃん」
 一子は小さな笑みを浮かべ、トートバックからキャンパスノートを取り出しながら言った。
「……学校は?」
「もう終わり。今日、水曜だから」
「そっか」
「いっちゃんは? 何してんの?」
「……今さぁ。久しぶりにね、描いてんの。漫画」
 一子はキャンパスノートを開いた。ノートにはスケボー抱えた少年たちのスケッチがあった。
 さつきの目が見開いた。
「みる?」
「うん」
 一子はさつきにノートを渡した。
 さつきはページをめくる度、そこに描かれたスケッチや設定のメモを、食い入るようにみつめた。
「たぶん映画にも、ドラマにもなりそうにないけどさ」
 一子は広場の片隅の少年たちを眺めて言った。
晴がベンチに一瞬、視線を送ったようにみえた。
さつきは、ノートに描かれた晴に似た少年をみつめていた。
「読みたい。これ」 
 さつきは少年をみつめたまま言った。
「お。よし、頑張る」
 一子はさつきに微笑んだ。
「さつきさ、どっかこの辺で、集中して勉強とかできるとこない? いきつけの喫茶店がさ、先月で閉まっちゃったんだよね……」
「センカフェとか」
 そう言って、さつきはノートを閉じて一子に差し出した。一子はノートを受け取って、「それってどこだっけ?」とさつきに尋ねた。

 セントラルコーヒーのレジの斜め後ろに、業務用の大きなエスプレッソマシンがあった。アンはカフェオレボウルにエスプレッソを半分ほど入れると、ボウルを回しながら、ミルクピッチャーで牛乳を流し込み、ボウルの中に綺麗なハートを形作った。
「上手」
 傍でアンの手つきを見ていた次子は思わず声を上げた。
「やてみます?」
 アンがカフェオレをカウンターに置いてから、次子に言った。
「え? いえいえ……」
 次子は首を振って俯いた。
「私、美術ずっと2だったんで」
 アンは吹き出した。
「日下部さん今から休憩でしょ? 自分で飲む用で作ってみて下さい」
「……」
 次子はアンのやったように、エスプレッソマシーンでボウルに半分ほどエスプレッソを入れ、ミルクピッチャーを構えた。
「入れながら、カップを優しく回して、丸が出来たら、こう、上に引っ張るみたいにして」
 アンが身振りをつけて次子に説明した。
 次子は緊張の面持ちで牛乳を流し込む。入り口の自動ドアが開いて、一子が店内に入って来る。一子は次子に気づくことなくカウンターで注文する。次子も一子に気づくことなく集中する。
「……あ、あぁ」
 カフェオレの上に不恰好なハートが出来上がり、次子は苦笑った。
「最初は誰だってこんなもんです」
 アンは朗らかに言った。
「ベトナムって、コーヒー大国なんです。ラテアートもやり過ぎなのが一杯あってヤバイんですよ」
「へぇ。見てみたいなぁ」
「あとでインスタみます?」
 次子がアンと気さくに話している間に、一子は珈琲の載ったトレイを手に、階段を昇っていった。

 休憩で自分で作った不恰好なハートのカフェオレを飲み終えると、次子は二階の給水機の掃除から仕事を再開した。
 次子は補充用の紙コップと掃除道具を持って二階に上がった。補充と掃除を一通り終えると、奥の席に視線を投げた。カウンター席に真野の背中はなかったが、中程のテーブル席に次子が居た。
「!」
 思わず次子は身を屈めた。
 二階席は客もまばらで、一子との距離は五、六メートル程だった。一子に気づくことなく作業していたことに、次子は冷たい汗をかいた。
 次子はそおっと階段に移動し、二、三歩段を降りて、物陰から一子を眺めた。
 次子からみえる一子の顔は横顔で、険しい表情だった。シャープペンシルを手に、キャンパスノートを開いているようだが、何が書いてあるかまでは次子には分からなかった。
 一子はバンデシネで帳簿代りにキャンパスノートを使っていた。店でも時折り、こうしてノートを開く事があったが、こんな険しい目でノートを睨む一子は、次子は見たことがなかった。
 ノートをジッとみつめる一子には、殺気が漂っていた。かつて次子が近寄りがたかった頃のようだった。

 翌々日の金曜は、朝から良い天気だった。その年初めての、雲ひとつない、冬の澄んだ青空だった。一子はさらに一回り大きなトートバックを提げて、バンデシネの二階に上がった。
 二階の仕事部屋は満員だった。
 巽は中央の作業テーブルで、周りを取り囲むアシスタントそれぞれに細かな指示を出していた。アシスタントの中に橋下の姿もあった。真野はいつにも増した速さでペンを動かしカリカリ描いていた。御代川のヘッドフォンの音漏れも、この日は一段と激しかった。
 美波と三絵子は、並んで死んだ目でペンを動かしていた。二人とも、額に熱冷却シートを貼っていた。
「ごめんいっちゃん。もうすぐこっち、終わるから」
 三絵子は手を休めることなく、デスクトップモニターをみたまま言った。
「うん。大丈夫だよ。あたしの締め切り、もうちょいあるから……」 
 一子は頰を搔きながら言った。
 
 一階に降りた一子は、本棚の隣、二人掛けテーブルの椅子にゆっくり腰をおろした。それ以外のテーブル席は、椅子が机の上に逆さに置かれたままだった。
「……嫌だなぁ年末進行」
 一子はひとりっきりの店内でボソッと呟いた。

<つづく>


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