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『喫茶バンデシネ 』 ―第12話―

 一子はテーブルに漫画用の原稿用紙を置いて、Bluetoothイヤフォンを両耳に差した。キャンパスノートに作ったネームを傍に置きながら、一子はシャープペンシルで、枠線のアタリをつけ、下描きをしていった。イヤフォンから、御代川のように音漏れをさせる事もなく、一子は淡々と作業を進めた。
「……そうだよね。うん。ごめんね。大丈夫大丈。急にごめんね」
 合間に一子は喫煙所で電話をした。喫煙所には疲労感を漂わせ、ベンチ、もしくは地べたにまで座り込んで煙草を吸う者がいた。しかし、次子は煙草片手にシャンと立って、手伝ってくれそうな人間に順に連絡した。しかし、この時期につかまる人間はなかなか見つからなかった。
「……」
 アドレス帳をスクロールする手が止まった。
 一子は少し考えて、煙草をひと吸いして通話ボタンを押した。
「…………もしもし? 勉強してた? あ、ホント? ねえ明日さあ、土曜日じゃん?」
 本棚の隣のテーブル席に戻ると、一子は翌日手伝ってくれる人間に原稿を回す為、先に出来上がった下絵にペンを入れることにした。一子はコンビニで売っているような、太字、細字の両方が描けるサインペンでペン入れをした。かつては付けペンのカブラペンで描いていたが、なんだが線が熱苦しく思うようになり、このスタイルに変えた。正統派少女漫画作家ではない一子ならではのやり方だった。
 一子は時おり机の上で原稿をクルッと上下にひっくり返し、器用にペンを入れていった。ストーリー、構成を考えるネーム作りはやはり辛いが、絵を描くのはやはり愉しい。授業中に堂々とノートに落書きをする学生のように、一子はどこにでも売っているサインペンを、サラサラと動かした。

 翌日、土曜の早朝、三絵子はまだ日が昇る前の空を眺めていた。紫がかった、この日も快晴であることを思わせる空だった。瞼がずっしりと重たかったが、三絵子はどこか心地の良い高揚感に浸っていた。床に座り込み、御代川が爆睡するソファにもたれかかってぼんやりしていたが、三絵子は眠りに落ちることはなかった。視線はいつしか机に座る美波から、美波の背後の窓の朝焼けに移っていった。美波は机でプリントアウトした自分の原稿を読んでいた。
 二人の他に、四、五人が机で突っ伏したまま眠っていたが、一番奥の席の真野だけは、いつもの無表情でカリカリ描いていた。
 美波が机で原稿をトン、トンと揃えた。
「……オッケー?」
 三絵子が言った。
「……はい」
 美波が小さく言った。
「よっしゃー」
 三絵子は言いながらのっそり立ち上がり、美波のもとに歩いた。
「ちょっとみせてみせて」
 三絵子は美波の原稿手に取った。
「うわー。やっぱキレイだねデジタルって。も、このまま読めんじゃん」
 三絵子は再びソファに歩き、美波に背を向ける格好で床に座り、ソファテーブルに原稿を広げた。
「早くあんたメールしちゃいなよ。待ってもらってんでしょ? 新人のうちに締め切り遅れてたら、もう仕事くれくなっちゃうよ」
 三絵子は原稿を一枚一枚、舐めるように眺めながら背後の美波に言った。
「あ、はい……」
 美波は机のパソコンでメールを送信するの準備をした。
「いやーでもこれ、ゴミも出ないし、トーンも買わなくていいから、コスパもいいね。時代は変わるもんだねえ。私ももう一回、何か描いてみよっかな」
 美波の手が一瞬止まった。
「……描いてください」
 美波が言った。
「えー。冗談冗談。いや、橋本くんていたじゃん? 彼ネットでイラストとかアニメーションアップしててさ。結構儲かるみたいでさ。今度教えてもらおうと思って……」
「……」
 美波は三絵子が話している間、百瀬に宛てた短い送信文を作り、原稿データのリンクを張り付けた。
 美波は小さく深呼吸して、送信ボタンを押した。
 三絵子はしばらく原稿を黙って読んだ。
 美波も黙っていた。
「……送れた?」
 原稿を眺めたまま、三絵子は小さく言った。
「……はい」
 美波も小さく言った。
「よーし……。オツカレ!」
 三絵子は勢いをつけて立ち上がり、ソフアの肘掛けに掛かっていたペラペラのダウンジャケットを取った。
「ちょとコンビニでビール買ってくる。プチうち上げしよ。あ、あんたアレでしょ? チューチューするやつでしょ?」
 三絵子がダウンジャケットを羽織りながら振り返ると、美波は眼鏡を外していた。
「……ちょっとなにもう泣いてんのお」
 美波は涙を堪えるように、手を眼に押し当てていた。
「みえごさん……ほんどうに、ほんどうにありがどうございましたぁ……」
 美波は喋るとますます涙が溢れた。
「……これとぐらいで泣いてないでさあ、あんた、まだまだこっからなんだから」
 三絵子の言葉で、さらに美波はえぐえぐと泣き始めた。
「もう」
 三絵子は困ったように微笑んで、柔らかなため息をつて、奥に座る真野に視線を投げた。
「あ、そこのカリカリくん、真野くんだっけ? コンビニ行くけどなんか要る?」
 真野はカリカリしながら、無言で左手を「大丈夫です」というように挙げた。
「あそ」三絵子は美波に視線を戻した。
「ちょっと行ってくるね。すぐ帰ってくるから」
 三絵子は階段を降りていった。
 えぐえぐと座ったまま泣き続ける美波の前に、几帳面に折りたたまれたハンカチが差し出された。真野が美波の隣に立ってハンカチを差し出していた。美波は泣きながらハンカチを受け取った。真野はスタスタと作業していた机に戻り、再びカリカリ描き出した。
「おつかれさま」
 真野が美波に聞こえるか聞こえないかの声で言った。

 正午近くには、再びバンデシネの二階は満員状態となった。
 二階に上がった一子は、ソファの前で立ち尽くしていた。ソファでは、三絵子が丸まって熟睡していた。周りには発泡酒の空き缶が四、五本転がっている。
「そんなに飲んで大丈夫ですかって止めはしたんですけど……」
 作業机の眼の下にはクマを作った巽が一子に言った。
「ああ。大丈夫大丈夫……」  
 一子は頰も掻くことなく、語尾が消え入るように言った。 
 
 正午を過ぎると、さつきがバンデシネにやって来た。私服姿のさつきは一階のソファ席で、一子がペンを入れた原稿に消しゴムをかけ、羽根ぼうきで消しカスを払った。以前も何度か、さつきは消しゴムかけを手伝ったことがあり、滞りのない手つきだった。
 鉛筆の線の消えた原稿を、さつきは本棚の隣のテーブル席の一子に持って行った。
「はい」
「ありがとー」 
 さつきは一子に原稿を渡すと再びソファに戻って参考書を開いた。
 一子は粛々とペンを動かした。サインペンのインクが掠れかけると、新しいものに替える。昨日からペン入れ作業を始めて、サインペンは三本目に突入していた。ビニール袋に入ったままの新品が、予備としていくつか机に並んでいる。一通りペンを入れたところでさつきに声を掛ける。さつきは勉強を中断して原稿に消しゴムをかけ、羽根ぼうきで払って一子のもとに再び返す。そんなやりとりを二人で淡々と夕方まで繰り返し、一子は喫煙所で一服した。
 喫煙所は、昨日にも増して荒んだ風景だった。修羅場から一時避難した者たちの虚ろな瞳が煙の中に浮かんでいた。ベンチには靴を脱いで横になり、ダウンジャケットの背中を丸めて熟睡している者がいた。吸い殻で溢れそうな灰皿を一子は見て見ぬ振りをして、そろそろ三絵子を起こし、さつきが消しゴムをかけた原稿の仕上げをしてもらおうと考えながら、煙草の煙をくゆらせた。
「今、三絵子おばさん出てったよ」
 一子が裏口から店内に戻ると、さつきが素っ気なく言った。
 一子がやや慌て階段を昇ると、ソファはもぬけのカラだった。周りに転がる発泡酒の空き缶と一緒に、三絵子のスマホも転がっていた。
 一子が腰を折ってスマホを拾い上げると、「あ、三絵子さんなら、銭湯行ってくるって言ってましたよ」ソファの近くで作業していた橋下が、どこか面白そうな眼で言った。
「あ、そう……」
 一子は手にしたスマホをみつめて呟いた。

 三絵子は夕暮れの井の頭公園を歩いていた。吉祥寺駅近くにある銭湯、よろづ湯を目指し、野外ステージの脇から公園を出た。出るとすぐ、いせや公園店の焼き鳥の焼ける芳しい香りが三絵子を誘惑した。店先で逡巡する三絵子に、パクら外国人連中が三絵子に声を掛けた。
「お。久しぶり」
 三絵子は彼らとすっかり馴染みの飲み仲間となっていた。
 パクたちは、西荻にあるCGアニメーション会社に、とある作品の為に各国から訪日したCGクリエイターだった。日本語が堪能な者もいれば、英語もままならず、母国語しか話せない者もいたが、ストリートワイズで言葉以外のコミニュケーション能力に長けた三絵子は、いせやで彼らに出会ってすぐに打ち解けた。払いもいつも彼ら持ちで、三絵子はインバウンドの恩恵を大いに享受していた。
 パクたちは、今からいせやで一緒に飲もうともちろん三絵子を誘ったが、三絵子は先に銭湯に行ってくると彼らに告げた。どこの銭湯に行くのかと尋ねられ、三絵子はよろづ湯だと答えると、よろづ湯はもう閉店したと教えられた。
「あ、そうなの? じゃ弁天湯は?」
「弁天湯も閉まりました」
 パクが流暢な日本語で言った。
「マジかー」
 彼らの方が、三絵子より今の吉祥寺の街に詳しかった。三絵子は仕方なく、彼らと一緒にいせやの暖簾をいそいそと潜った。
「えーパックン韓国帰っちゃうの?」
 飲み始めて早々、三絵子はパクが韓国に帰国すると皆から教えられた。
「じゃ今日は送別会じゃん!」 
 三絵子がパクに生ジョッキを掲げ、皆もそれぞれに杯を掲げた。
 パクは少し淋しげに微笑んでグラスを掲げた。

 三絵子は目覚めると、真っ白なシーツのベッドの上だった。裸で包まるブランケットの肌触りが心地よく、パクにもうお昼ですと韓国語で何度か囁かれても、なかなか起き上がることが出来なかった。
 昨晩の記憶は二軒目あたりから断片的だが、パクの部屋に入った際の驚きは記憶にあった。殺風景ではあるものの、掃除は行届き、ちょっとしたホテルのスウィートルームのようで三絵子は感動した。その後のパクの振る舞いも優しく丁寧、そして時には大胆で、三絵子は充分に満たされ、夢心地で眠りに落ちた。まだこの夢から覚めたくなかった。
 ベッドで三絵子が猫のようにベッドで丸くなっていると、真っ白なTシャツにジーンズ姿のパクがベッドに腰掛け、「珈琲、淹れました」と韓国語で言った。微睡みながらベッド脇のコーナーテーブルには湯気の立つ珈琲カップが置かれていた。
「……もらっちゃおっかなぁ」
 三絵子がベッドに座るパクを見上げると、パクは慈悲深い笑みを湛えていた。

<つづく>


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