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『喫茶バンデシネ 』 ―第13話―

「……どう? 出来そう?」
「やってみる」
 一子は窓辺バンデシネのソファ席に座り、隣のさつきにサインペンを渡した。窓からのどかな日曜の日差しが差し込んでいた。さつきは渡されたサインペンの太い方を使って、原稿に小さくバツのうたれた部分を黒く塗っていった。
 ベタ塗りと言われる、漫画原稿の黒い部分を塗る作業を一子はさつきに教えていた。
「少しぐらいムラになっても気にしないで。そうそう……」
 一子はさつきに優しく言った。
「……でも本当に大丈夫? 私、美術だけは三だし。もうこれ以上は無理だよ」
 さつきは手を止めて一子の顔を見て言った。
 一子はさつきのまっすぐな目から逃げるように立ち上がった。
「……だいじょうぶだいじょうぶ。今日は流石に、あのコ、来るはずだから」
 一子は裏口へ歩きながら言った。
 さつきは一子の背中に不審な視線を投げてから、再び原稿をキュッキュっと塗った。 

 一子は間隔短く煙草を吸い、煙を吐いた。
 喫煙所の惨状は、より深刻さを増していたが、一子は視界に入れなかった。
 さつきにああは言ったものの、昨晩、三絵子は帰って来なかった。スマホも置いていったので連絡もつかなかった。どうしたものかと一子は考えながら、自分のスマホを取り出して、アドレス帳を開いた。
「……」
 一子はまだ長い煙草を吸い殻の山と化した灰皿に投げ捨て、通話ボタンを押した。
「…………あ、もしもし? 買い物中? 大丈夫?」 

 三絵子はようやくベッドから起き上がり、パクのシャツを借りて素肌に羽織った。部屋は快適な温度で保たれ、バンデシネ の二階のように隙間風が吹くことはなかった。部屋は高層階で大きな窓があり、見下ろすと吉祥寺の街だった。日曜の昼下がりに街を歩く人々がゴミのようだった。
 珈琲を手に窓辺に立っていると、パクが三絵子を背中から優しく抱きしめた。いつ韓国に帰るのかと三絵子が尋ねると、年内にはとパクは答えた。
「自分の国だから、大切に思っています。でも、出来ればまだ、帰りたくない」パクは韓国で静かに言った。
 三絵子は駅の向こう、井の頭公園の方を眺め、「私も帰りたくない」と流暢な韓国語で言った。

 エコバックを提げた次子がバンデシネの玄関の扉を開けた。
「さつき! あんたこんなとこで何やってるの!」 
 けたたましく鳴るドアベルと同時に、次子が叫んだ。
「……なんでママ?」
 さつきが本棚の隣の一子の背中に向かって言ったが、一子はしれっと原稿に向かい、振り返らなかった。
「ちょっといっちゃん! さつきは受験生なんだよ! もう、何考えてるの?」
「もういいからママ」
 一子の背中に抗議する次子に、さつきは冷静に言った。
「とりあえず時間ないから。ここ座って」
「…………もう」
 次子は渋々コートを脱いで、さつきの対面に座った。
 さつきが次子に、ペン入れされた原稿と消しゴム、羽根ぼうきを渡した。
「ママやったことある?」
「……」次子は小さく首を振った。
「あんまり力入れないで、優しく消しゴムで鉛筆の線を消してって。その後その羽根で消ゴムのカスを払うの。手であんまりベタベタ触ると手の脂がついちゃうから気をつけて。あ、ママ手袋持ってる?」
「……持ってるけど」
「じゃあした方がいいよ」
「……」
 次子はコートのポケットから収縮ニットの手袋を出した。
 さつきの取りつく島の無い態度に押し切られ、次子は覚束ない手つきで恐る恐る原稿に消しゴムを掛け、羽根ぼうきで消しカスを払っていった。本棚の隣のテーブル席の一子、ソファ席の向かい合うさつきと次子、三人は粛々と作業を進めた。
 一子はキャラクターの目にペンを入れる時には、やはり神経を使った。普段は眼鏡や老眼鏡をせずとも支障はないが、視力の衰えをペン入れの際には年々感じるようになった。一旦ペンを置き、目頭を抑えると、傍にさつきが立っているのに気づいた。さつきはベタ入れの終わった原稿を手に持っていた。 
「……あ、ありがとう」
 一子は原稿を受け取ってチェックした。
「ばっちりばっちり。ありがとー」
 一子の声は、どこかカラ元気とも取れるように上ずった。さつきは不安げな顔を隠さなかった。

 三絵子は歩きながらパーカーのフードを被った。パクの部屋でシャワーを浴び、ちゃんと髪を乾かさず部屋を出たせいか、風が冷たく身震いした。サンロードの手前のコンビニで、エネルギー補給ゼリーを買った。美波の影響だった。ゼリー咥えながら、三絵子はサンロードのアーケード通りを駅に向かって歩いた。ゼリーを全て吸い込むと、三絵子は力がみなぎったような気がした。空の容器ごと、三絵子は両手を薄っぺらいダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。歩みは次第に早くなった。
 一子の漫画を手伝う為に、三絵子はバンデシネを目指していた。また再び、漫画の世界に戻ってしまった自分が三絵子は情けなかった。情けなかったが、明らかに充実感を覚えていた。やはり自分は、漫画を描くこと、絵を描くことがやめられないのかもしれない。これは、三と子の間に絵を入れて、自分を三子から三絵子にした、一子の呪いだなと三絵子は思った。
 三絵子は走り始めた。ランニング程度の速さだが、心の内ではロッキーのテーマが鳴っていた。サンロードを往く人々や店先からの声援はひとつもなかったが、三絵子は今ここはフィラデルフィアだと思い込んで走った。
 しかし、テーマが盛り上がる前に息が上がり、三絵子はヨロヨロ歩いて脇腹を抑えた。

「ちょっとママ、力入れすぎ」
「あ、ごめんなさい……」
 いつしか真剣な顔で作業していた次子に、対面のさつきが言った。次子の消しゴムを擦る力が強すぎて、原稿のインクが少し滲んでいた。
「ねぇいっちゃん! ママじゃ全然戦力にならないよ。絶対無理だよ締め切り」
 さつきが本棚の隣の一個の背中に言った。
 一子がさつきに振り返った。
「だいじょうぶだって……。もういいかげん、みえちゃん来るから」
 一子は弱々しい笑顔で言った。その笑顔からは、一子の疲労がより伝わった。
「……あの人全然ちゃんとしてないし。もう絶対間に合わうわけなんかないよ!」
 さつきは言い放った。サインペンを机に叩き置き、ソファの背ににもたれ込んで投げやりなため息を吐き捨てた。
「さつき」
 次子が静かに言った。さつきは顔を上げ次子を見た。次子は真っ直ぐさつきをみつめていた。
「……あきらめたら、そこで試合終了だよ」
 さつきは眉間にシワを寄せた。
「なにそれ?」
 一子や三絵子に対して反発するように、漫画をあまり読まなかった次子だが、中高とバスケ部で、スラムダンクにはハマっていた。
 ちょうどその頃、三絵子もサンロードの途中のブックオフ吉祥寺北店でスラムダンク八巻を立ち読みし、鼻を啜った。

「なにしてんの二人とも?」
 ソファ席の次子とさつきに、ブックオフのビニール袋を提げた三絵子が言った。
 窓の外はもう薄暗かった。
「なにしてんのって……あんたのせいでこんなことになってんやさ!」次子が叫んだ。
「さつきまで! 受験生なのに。いっちゃんから電話があってえ、みえちゃんが携帯置いてどっかいってつかまらないからあ、締め切り間に合わなくなりそうで手伝って欲しいってしょうがなく……」
「あ。そやそや。いっちゃん、あたしのスマホ知らん?」
 三絵子が本棚の隣の一子の背中に言った。
 一子はペンを動かしながら、顎でカウンターを指した。三絵子はカウンターに歩いた。
「ごめんごめん。昨日まで泊り込みでさ。一日ぐらい休ましてくれてもいいやん」
 三絵子は置かれていたスマホを手に取った。
「一日じゃないやんか! 昨日の今日もで二日やろお?」
「今日はこうやって来とるやろ! 今から本気出すために休んどったの!」
 次子が声を荒らげると、三絵子も負けずに声を張った。
「あんたはすぐそうやって、今からやる今からやるって昔っから。結局夏休みの宿題も最後はいっちゃんに泣きついてばっかりやったやんか!」
「それはつぎちゃんが、自分の勉強で忙しいからって、いつも全然手伝ってくんれんかったからやろ!」
「そんなことない! ドリル答え合わせはいつも私がやってた!」
 流石に煩く、一子が二人を止めようと振り返ると、「二人ともうるさい!」さつきが叫んだ。「締め切り今日だし! 喧嘩してるヒマなんかない!」
 次子も三絵子も口をつぐんだ。二人を一喝するさつきに、一子は溢れそうになる笑みを押し殺した。
 三絵子が眉を顰めた。
「……ちょっと待って。今、締め切り今日って言った?」
 三絵子が尋ねると、さつきはふくれっ面で頷いた。三絵子が一子に駆け寄った。
「ちょっといっちゃん! いっちゃんの締め切り、美波より、もうちょっとあるって言ったよね?」
「言ったよ。二日もあったから。ちょっとあったじゃん」
 一子がペンを握ったまま答えると、三絵子は天を仰いだ。一子の机にあった予備の新品のサインペンと定規を掴み取ると、「どいてどいて! もうどいて!」三絵子はソファ席の次子を追い立てた。
「ちょっとなにい! いっちゃん、ちゃんとみえちゃんに、日にち言ってる言って」
「やめよう。今からビタイチ無駄なエネルギー使いたくない」
 三絵子は次子の言葉を遮って、代わりにソファに座った。次子は憮然とその場に立ち尽くした。
「……つぎちゃん。使っちゃって申し訳ないんだけど、お願いしてもいい?」
 三絵子がペンを動かしながら言った。
「……なに?」次子はボソッと言った。
「サンロードのロフトの文房具売り場行って、コピックってイラスト用のサインペン、買って貰ってもいい? 写真、LINEで送るから。つぎちゃん、コンビニでもどこでも売ってるヤツで平気で描けちゃうんだけど、私、ちゃんとしたヤツじゃないと全然上手く描けないんだよねえ……」
 三絵子は言いながら、一子のように、机の上で原稿をクルっと回し、サインペンを定規に沿ってサッサッサッサッと走らせていった。さつきは三絵子のペンさばきに目を見張った。次子も三絵子のペンさばきに少し圧倒されつつ言った。
「……わかった。ちゃんとしたやつね」
「うん。ちゃんとしたやつ。あ、お金は貸しといて」
 次子が出て行くと、一子、三絵子、さつきは無言で作業を続けた。ペンを走らせるシュッシュッっと言う音だけが絶え間なく続いた。
「……さつき。つぎちゃん帰ってきたらさ。帰っていいからね」
 しばらく経って、三絵子が作業の手を止めることなく言った。さつきは応えることなく黙って作業を続けた。三絵子は原稿に定規を当て直し、さらに小さく言った。
「……漫画、描きたいかもしんないけどさ、今は勉強、ちゃんとした方がいいよ」
 さつきが手を止めて、原稿から顔を上げた。
「もし、本当に、どうしてもどうして漫画家になりたいんならさ、つぎちゃんとちゃんと話した方がいいよ」
 三絵子は定規に沿って線を引きながら、穏やかに言った。さつきは怪訝な顔で、作業する三絵子のつむじを睨んだ。
 一子はサインペンが震わせ笑いを堪えていたが、堪えきれず吹き出した。
 三絵子が手を止めて、一子の背中に視線を投げた。
「……どうしたん?」
 一子は小さく笑いながら、振り返らずになんでもないと言うように手を振った。三絵子は一子の背中にきょとんとした。
 さつきが大きなため息と共に、サインペンのキャップを閉めた。ソファにドスっともたれ、「……お腹すいた」と呟いた。
   

 喫茶バンデシネの一階と二階も、この夜も灯りが煌々とし、二階では、夜型の漫画家達はやっとエンジンが掛かったように原稿に向かっていた。
静寂の中でみな無心に手を動かした。
 巽の目も感情を失っていたが、ペンを握る手だけは生まれたて生命が宿ったように活発だった。
 階段に近い席で、とろんとした目で橋下が作業していた。橋下は、おもむろに鼻をくんくんさせた。
「……カレーだ」
 橋下がつぶやくと、みなも手を止め、顔を上げた。巽も手を止めた。
 確かに階段の下から食欲を満たすカレーの匂いがした。巽の瞳が、僅かに輝きを取り戻した。

 キッチンのコンロには寸胴鍋でカレーが煮込まれていた。カレーをゆっくりかき混ぜる次子の隣で、さつきがまな板でキュウリを切っていた。
「……そうそう。それくらい斜めで」 
 さつきは覚束ない手つきで包丁を入れながら、寸胴鍋のカレーをチラッとみた。 
「……量、多くね?」
 さつきがそう言うと、次子はしれーっとした顔で天井を見上げた。

 本棚の隣で、一子は椅子から立ち上がって目薬を差した。
「よりにもよってなんで手描きやねん」
 三絵子がソファ席から言った。三絵子は舌打ちしながら、次子に買って来てもらったイラスト用のペンで原稿を描いていた。
「こっちのが、あたしたち慣れてるでしょ」
 一子は言いながら裏口へ向かった。三絵子は憮然としながら、原稿にペンを走らせた。

 喫煙所は底冷えのする寒さだった。
 一子はやっと、灰皿の吸殻に水をかけ、ビニール袋に入れてまとめた。周囲も掃き掃除をした。煙草を吸う者達は、次子の掃除する姿に恐縮し、煙草を消してそれぞれ二階の仕事場に戻っていった。
 スッキリした喫煙所で、一子はあらためてベンチに腰をおろし、煙草に火をつけた。
 一口吸って、ゆっくり煙を吐いてから、スマホを取り出し寿に電話をした。
 次子とさつきがここで夕食を取るけど寿は大丈夫かと尋ねると、今父親がベトナムから一時帰国で戻ってきているから大丈夫と寿は答えた。寿がそう言うと、次子の夫の赴任先がベトナムだったことを一子はぼんやり思い出した。寿の話ぶりには、小さく舌打ちやクソッが混じっていて、おそらくゲームをしているようだった。
「たまにはいいんじゃないの。女同士」
 寿が知ったような口調で言った。
「……寿あんまりさぁ。そういう言い方しちゃダメなんだってよ。最近は」一子は煙を吐きながら言った。「女どうしーとか男どうしーとか」
「コンプラ的な?」
「そうそう。それそれ」
 スマホの向こうで、寿が大きく舌打ちするのが分かった。
 一子は通話を終えると、煙草を咥えてベンチの背にもたれた。ぼんやり夜空を見上げると、星のない、真っ暗な空で、静かな夜だった。雪が降り出しそうな空だが、締め切りである今日は、まだ十二月一日だった。
 僅かにでも輝く星はないものかと、一子は夜空に細く煙を吐いた。

<つづく>


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