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『喫茶バンデシネ 』 ―第14話―

 真冬でも、スケボーに乗る少年たちは半袖のTシャツだった。
 新年早々の中央高架下広場は、いつもと変わらぬ風景で、子連れの大人たちは少年たちに迷惑そうな視線を送っていた。
 晴は広場の隅で地べたに座っていた。傍にスケボーを置き、手にしたスマホで漫画を読んでいた。『十二月の子供たち』というタイトルで、表紙はスケボーに乗る少年だった。作者は文月ルナだった。

 さつきは塾の自習室にいた。
去年、一子に漫画を描くのを手伝わされて以来、さつきはバンデシネから少し足が遠のいていた。年明け早々の自習室は人が少なく快適だった。
 ポケットのスマホが震えた。さつきはそっとスマホを取り出し、LINEのメッセージ画面を開いた。さつきが送った一子の漫画のリンクの下に、「俺に似てね?」と短く晴からレスがあった。
 さつきは、「似てないし」と短く返し、スマホを閉まって再び参考書に視線を落とした。

「いっちゃんもいい加減サインペンやめようや」
 バンデシネのカウンター席で三絵子が言った。三絵子は手掴みで、次子の作ったクロックムッシュを食べながら、漫画雑誌を開いていた。開いたページには、美波の漫画が掲載されていた。
 カウンターの中では、一子がサイフォンでのんびりと珈琲を淹れ、その隣で次子が洗い物をしていた。
「もう全部デジタルっしょ。デジタルに慣れるともうさ、手で描いた原稿ってさ、やっぱ汚いわ。こないだも最後の方、描いてんだか、汚してだか、もうどっちなんだって感じだったあ」
 三絵子の口調は、店内に姉妹三人だけなせいか訛りが強かった。
「でもいっちゃんもさ。案外浪花節なとこあんねぇ。壮文社やめる百瀬さんのために、作品を描くなんて……」三絵子は首を傾げて思案顔をした。
 一子は自分用のマグカップにフラスコの珈琲を注いだ。フラスコの中に少し珈琲が余っていた。
「……ということは、美波といっちゃんが、逆に死神を葬ったってこと? ん?」ひとりかしましい三絵子の口を塞ぐように、一子が三絵子の前に珈琲カップを置いた。「もったいなからあげる」
 中にはサイフォンで淹れた珈琲がちょっとだけ入っていた。 
「……ありがとう」三絵子は小さく言った。
 一子はマグカップを手に裏口へ歩いた。
「ちょっと、いっちゃん。飲み物持って喫煙所行かないで」
 次子が一子の背中に振り返って言った。
 一子は次子を無視するようにドアを開けた。
「百瀬くん、壮文社やめても、編集はやめてないよ」一子は三絵子に向かって言って、裏口から出ていった。
「?」
三絵子は一子の言葉の意味が分からず、きょとんとした。


「……でもいま、わたしちょうど山形に」
 JR山形駅のコンコースの、ちょうど出口に差し掛かった辺りで、美波はスマホで通話していた。外は一面、雪景色だった。
 美波はキャスター付きトランクを端に寄せ、百瀬とスマホで話していた。
「もちろんリモートで構いません。ここは出版社ではなく、ウェブ運営会社なので、リモートミーティングも、以前よりスムーズです」
 スマホの向こうの百瀬が言った。
「……でも」
「水無月先生」
 百瀬が遮るように言った。水無月ナナは美波のペンネームだった。
「漫画はどこでも描けます。お願い出来ませんか?」
「……」スマホを握る手が微かに震えた。
 駅の出口のほんの手前で、美波は立ち止まっていた。



「……いつ閉めればいい?」
 一子が、喫煙所のベンチに並んで座る巽に言った。
「いや、なかなかいい物件なくて、こっちが急に思いついてお願いしたことですから……」
 巽が恐縮しながら、膝をつけて言った。
 二人共、煙草は吸っていなかった。
「つぎちゃんと相談してみるよ。早けりゃ早い方が、巽くんもいいでしょ?」
「……ありがとうございます」
「ううん。こっちこそ」
 一子はアウトドアジャケットのポケットからアメリカンスピリットの箱を出し、一本取った。
 ペラペラのダウンジャケットは、三絵子に取られてしまっていた。
「さすがに赤字続きで、老後の貯金もなくなっちゃいそうだったから」一子は煙草に火を点けた。
「二階と一階の家賃収入で、のんびり描きたいもの描いてくなんて、漫画家にとっては最高のアガリじゃん」
 一子はゆっくり煙を吐いて言った。
「あたしゃいい弟子持ったもんだよ。ありがとね。巽くん」
「いえ。僕の方こそ……」
 巽はバンデシネの二階を見上げた。
「水無月ルナと大塚義友の仕事場を、まさか自分の仕事場に出来るなんて、夢みたいです」
 一子も二階を見上げた。
「私は自分の作品そんなに描いてなかったよ。先生の仕事場だよ。ココは」
 二人は二階の仕事場をしばらくみつめた。
 二階の向こうの空は青く澄んだ、真冬の晴れた空だった。

「……ああそうだ、つぎちゃん。知らないかもしれんけど、つぎちゃんが作ってるのお、クロックムッシュじゃなくて、本当はさあ」
「クロックマダムでしょうが。知ってる。そのくらい」
 カウンター席の三絵子に、次子がピシャッと言った。次子は洗い物を終えてタオルで手を拭いていた。
「……じゃなんでそうしないんけ?」
 三絵子がソースのついた指をくわえながら言った。
「クロックムッシュの方が、お客さんに伝わるでしょう?」
 次子は一子がたまに座っていた丸イスに座り、帳簿代わりにのキャンパスノートを開いた。
「クロックマダムじゃ、パッとどんなのかイメージできないっしょ。卵をのせた方が見栄えがよくなって値段設定高こうできるやんか。卵は他のメニューでも使うから、原価率抑えられるし」
 次子は電卓を用意した。
「それに、私は、絶対卵のせた方が美味しいって思うし」
 次子はそう言って、電卓をパチパチたたき始めた。
「……ごちそうさまでした」  
 三絵子はしおらしく言った。一子が淹れてくれたサイフォンの珈琲を飲み干して、寝巻きでもあるパーカーで手を拭きながら、三絵子はカウンター席を立った。 
「ベトベトになった手え、服で拭いたりしないでよ」
 次子はそう言ったが、電卓を叩くのに夢中で三絵子を見てはいなかった。
「ちゃんと拭いたぁ」
 三絵子は階段に歩きながら言った。
 しなやかに手すりを掴んで、古くて急な階段を、三絵子は軋ませながら昇っていった。

「つぎちゃんさ、ちょっと、話したいことがあるんだけどさ……」
 一子は喫煙所から戻ると、電卓をたたく次子の背中に静かに言った。
「私も、いっちゃんに大事な話があります」
「……え? なに」
 次子の尖った物言いは、一子のしんみりした気持ちを一気に冷ました。
「今、寿、旦那の実家行ってるから、お店終わってからで、いいですか?」
「……え、やだぁ。怖いから今にして」    
 次子は電卓をたたく手を止めた。
 丸イスに座ったまま一子に振り返り、手を膝に置いて背筋をシャンとした。
「この喫茶店、私が経営します」
「え?」
「旦那にも、離婚はしないから、ベトナムずっと行ってて。ってちゃんと言いました」
「あそうだ。ベトナムだったね」
「離婚しない代わりに、お金借りたから、敷金も用意しました」
「お。そう……」
 一子の顔が少しほころんだ。
「お金のこと、あんまり口出すの我慢してたけど、センカフェで思いつめた、いっちゃんの顔見たら、お店、相当やばいんだろうなって」
「……ああ。そうやっていうんだ」
 一子は小さく頷いた。
「あん時センカフェいたんだ。なんで声かけてくんなかったの? お金のことなんて、あん時あたし、全然考えてなかったよ」
「え? でもあんな顔、帳簿開いてる時し見たことなかったよ?」
「そんなことないよお」
 一子は頰を少し掻いた。
「わたし、そう思って、年末から帳簿、ちゃんとみてみたら、やっぱりわたしも、思いつめちゃって。赤字ひどくて」
 一子は頰をちゃんと掻いた。
「で私考えたの。私がここを、いっちゃんから借りて、喫茶店を経営すればいいんだって。いっちゃんは、二階と一階の家賃収入で、のんびり朝、鍵開けたり、サイフォンでコーヒー淹れたり、そばのペペロンチーノ作ったり、きしめんフィットチーネのボロネーゼ作ったり、手羽先のクスクス作ったり、砂肝カレー煮込んだり、本棚の本、選んだり、燃えるゴミと燃えないゴミ分けて、喫煙所の灰皿捨てたり、とかさ。あ、戸締り。これだけはちゃんとやってね」
 一子は小さく苦笑した。
「それ結構働くよね? あたし」
 ドアベルがカランカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
 次子は丸イスから立ち上がった。
   
 客が店内に入っていくと、オープンの札の掛かった扉がゆっくりと閉まった。 
 扉には、『新年、元旦より営業しております。本年も、どうかみなさま、喫茶バンデシネを何卒よろしくお願い致します!」と書かれた張り紙があった。几帳面な文字に不恰好なハートが添えられた張り紙には、柔らかな冬の木漏れ日が差していた。
 
FIN.

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