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【目印を見つけるノート】493. コルベ司祭とゼノさんの長崎

今日は少し長いです。

1930年4月24日、長崎にたどり着いた3人の宣教師がいました。
マキシミリアノ・コルベ司祭、ゼブロフスキ修道士、ヒラリオ修道士、3人ともポーランドの人です。
先導者のコルベ司祭はそこに至るまでも、たいへん活動的な人でした。ローマのグレゴリアン大学で学ぶ中で発心し『無原罪の聖母の騎士会』という公的信心会を結成しました。そしてワルシャワ近郊に貴族の寄進で『無原罪の聖母の騎士会ニエポカラノフ修道院』を創立しました。そこで活動しながらさらに東方宣教を目指したのです。

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3人の故国、ポーランドの当時の情勢など説明した方がいいのかもしれませんので大まかに書きます。
ポーランドは、ずっと他国、特に隣接するロシアとドイツに干渉されてきました。他にもモンゴル、オスマン・トルコをはじめ多くの外敵に攻められました。それに立ち向かい、分裂の時代もありましたが長く王国を築いてきたのです。
しかし、19世紀になると列強国の取り決めで何度も国土を分割・割譲されることになってしまいました。国それ自体がなくなってしまったのです。国民は言葉や習慣、食事、宗教、文化を守ることでアイデンティティを保ちました。ポーランドはカトリックの信仰が篤い国として知られていますが、その一端であろうと思います。
ようやく「独立」したのは1918年のことですがそれも楽な道ではありませんでした。
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長崎に着いた一行はこれまた精力的に動きます。当時の長崎には早坂司教がいましたが、彼らが着いたときには不在でした。彼らは大浦天主堂に居を借り、戻ってきた早坂司教と話し合いをすすめ、日本での宣教活動をはじめます。1931年には市内の本河内に教会を設立、雑誌『聖母の騎士』の出版活動を積極的に行います(現在も出ています)。彼らは日本語を習得してからやってきたわけではありません。長崎で暮らしながら周りの人々の協力を得て活動を広げていったのです。
コルベ司祭は日本で活動しながら、インドやポーランドに出ていきます。船旅は一般的になっていましたが、ひょいと行って戻ってこられるほど気軽なものではありません。東方宣教と故国の情勢は同じぐらい大事なものだったのでしょう。その留守は残った修道士らが守りました。

1936年、コルベ司祭はニエポカラノフ修道院に戻りました。故国は1939年にナチス・ドイツの侵攻を受けて一帯には軍靴の音が響くばかりです。修道院も接収されてしまいました。その中でもコルベ司祭は出版活動をやめませんでした。そして、逮捕されます。一端は釈放されますが、戻った修道院でユダヤ人を他と分け隔てなく看護したことで、再度連行されます。そして1941年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。

その頃、収容所では脱出者が出ると、同じ人数を無作為に選び餓死刑に処すとしていました。7月、脱出者が出て無作為に10人が選ばれました。その一人が「家族がいる。死にたくない」と泣き叫びました。
コルベ司祭はそれを知り、自分が身代わりになるといいました。そして他の9人とともに閉じ込められました。その中でも司祭は周りの人を励まし続け、歌を歌っていたそうです。
1941年8月14日、司祭は1本の注射を打たれて亡くなりました。

長崎に戻ります。
日本も戦争の色で染められるようになり、外国人を排斥する風潮が出ていました。本河内教会に残ったゼノ・ゼブロフスキ修士もまた難に遭っていました。ただ、彼は帰ったりしませんでした。
かつてポーランドで、修道院の規律が厳しくて逃げ出し、コルベ司祭に諭され戻ったというエピソードをお持ちですが、楽天的な方だったのかもしれません。

その彼がたいへんなショックを受ける出来事が起きました。
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が落とされました。
本河内の教会は山と山の間にあり、爆心地からは少し離れていたために、破壊や焼失を免れました。
彼は何が起こったのかと外に出て、長崎の市街地を見てどう思ったでしょう。これまであったものが跡形もなく吹き飛ばされ、焼け焦げて見分けのつかない遺体が散乱し、天主堂も、マリアもイエスも無惨に打ち砕かれた。
この世の地獄を見たのです。

ゼノさんはこれであきらめて帰国したでしょうか。
彼が本当に全力で活動をはじめる出発点はここでした。戦争はじきに終わりましたが、何からはじめたらいいか皆目分からないような混乱の時期です。ゼノさんはたくさんの孤児を見ました。教会で人々の救援につとめ、以降は「子どもを守る」ために長崎から全国に活動を広げるのです。

特に有名なのは空襲で壊滅的な打撃を受けた東京の「蟻の町」と呼ばれた浅草で救援・奉仕活動をされたことです。
服や食料を配る、そのための寄付を募る、それだけではないです。検索していたら後年保育園で毎年サンタクロース役もされていたとか、ほほえましいですね。

こちらにもう少し詳しく書かれています。
http://www.nigawa.catholic.ne.jp/fathers-message/827/

結局、ゼノさんは修道士のまま最期まで日本にいました。
1982年4月24日、長崎に着いたのと同じ日に永眠されました。

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私はキリスト教徒ではありません。ですので表現に不備があったりするだろうと思います。ご容赦ください。

ゼノさんについて付記します。
「蟻の町」の活動をされていたとき、ゼノさんとともに活動されていたカトリック三河島教会は、私が唯一数回伺ったことのある教会です。福山でゼノさんの名前を冠した牧場を見つけたこともあります。
あと、『16世紀のオデュッセイア』でも本河内のことを書くと思います。

それほどのことで、偉そうに書けるものでもないのですけれど、それほどのことで心を打たれることもあるのです。
それほどのことで、大好きになったりもするのです。

ゼノさんの有名なセリフがあります。
「ゼノ死んでる暇ないね」

ああ、もうすぐ11時2分です。
黙祷。

尾方佐羽


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