駒苫が見せてくれた夏の夢は、今も

北海道の多くの家庭にはクーラーがなく、夏には窓を開けて過ごすのが普通だ。
だからその日は町中が、いや、北海道全土がひとつの空気を共有していた。固唾を飲む静けさが、期待に充ちた声援が、やがて怒号にも似た歓声が、北海道の夏を包み込んだ。
それは遠く西の甲子園球場にだって、きっと届いていたに違いない。

2004年。
この年は奇しくも日本ハムファイターズが北海道へ本拠地を移転した年でもあり、道産子の意識は野球へ向いていたんじゃないだろうか。

当時6歳だった私は、その夏の甲子園のトーナメント戦がどのような様相を見せていたのか、記憶していない。興味も持っていなかっただろう。でも、日に日に大人達が野球の話ばかりするようになっていったのはよく覚えている。
南北海道代表として甲子園に出場していた駒大苫小牧が勝ち上がり続け、ついには決勝出場を決めてしまったからだ。

北海道は弱いからねえ。
大人はみんなそう言った。
地元球団を持たない道民は、プロ野球と言えば読売巨人を応援するのが慣習だった。
日ハムが移転してきても、北海道で野球やったってどうすんのさどうせ雪降るっしょや、と苦笑いをして、最初から真面目に応援しようとする人はほとんど居なかった。

冬の天候にも対応する施設を持てるプロ野球球団にだってそんな期待値の低さだったのだから、高校野球へのそれは想像に難くない。

しかし、駒大苫小牧ナインズは、道民のそんな思い込みと諦めをかっ飛ばしていった。

決勝戦は、ふるさとの田舎町の、年に一度のお祭りの日のことだった。
役員をしていた父は、もどかしそうに家と会場を出入りしていた。
野球のルールも分からない私は、それでもリビングのソファに座らされて、お祭り連れてってくれないのかなあ、と画面を見つめていた。

壮絶な試合だということは、そんな私にもわかった。
駒苫、そして愛媛県代表の済美高校の選手達は、ユニフォームを土に汚しながら必死に戦っていた。
駒大のユニフォームの右肩の、橙色に縁取られた北海道の模様の、なんと眩しかったことか!
私達は新聞紙とチラシの束を振り回し、掌に打ち付けて応援した。
点を取られては取り返し、巻き返されては巻き返し、あれよあれよと9回表。

13-10。
駒大苫小牧が、東北以北のチームとして初めて甲子園優勝を果たした瞬間だった。

近所の人がつぎつぎやってくる、親戚からひっきりなしに電話がかかってくる、道産子の喜び方は、少なくとも私の周囲では、ある意味常軌を逸していたかもしれない。
話によると、北海道でのこの試合の最高視聴率は46%だったそうだ。

「北海道が甲子園で優勝するなんて、きっとあんたの人生で最初で最後だよ。こりゃあずっと語り継がれるよ、駒苫、駒苫をよく覚えておきなさいよ」 と家族は言った。
とまこま、とまこまって凄いんだ、とまこまは強いチームなんだと、夏の衝撃は幼心に刻まれたのだった。

だが、駒大苫小牧はこれで終わらなかった。

2005年大会。
この夏は開会当初から、どの店や施設に入っても野球中継をやっていたのが印象に残っている。ラーメン屋の小さなテレビにもみんなそわそわと注目し、その場に居合わせて同じ試合を見ているというだけで妙な連帯感があった。

また優勝しないかな、いやでも最近調子悪いからね、どうだろうね、というお茶の間の声をものともせず、大阪桐蔭を破りまさかの決勝進出、そしてまさかの二連覇。
優勝旗は再び津軽海峡を渡る。
北海道なんて負けるもんね、と言って笑っていたはずの道民の意識も、この頃から変わり始めたんじゃないだろうか。
弱いだけの北海道の時代は終わったのだ、と。

2006年大会。
そう、あれこそ、私が語るまでもない伝説だろう。

三連覇なんて、いやでもひょっとしたらひょっとするかもしれない。
そして実際、決勝まで駒は進んだ。

ハンカチ王子としてメディアにとり上げられていた早稲田実業のエースピッチャー・斎藤佑樹に対する、王者としての駒苫のエース・田中将大。

延長15回まで戦ってなお1-1と決着がつかず、翌日の再試合。投手にとってどんなに苦しい2日間だっただろう。
当時はハンカチ王子をいけ好かなく思っていたが、今記録を振り返れば強靭な精神力を持つ投手だったことがよくわかる。

長い長い試合の終わり、ハンカチ王子の最後の打者は、田中将大だった。 まるで少年漫画のような一場面だった。

再試合、3-4。
駒大苫小牧の三連覇を抑え、早稲田実業が優勝を決めた。

悔しさはあった。だが、道産子は心から駒苫に感謝していたと思う。

本当に長い夢だった。
もしかしたらそれは、駒苫が負けたとしても終わらない、高校野球の枠に留まらない道産子の夢の入口だったかもしれない。

北海道もやれる。ウインタースポーツ以外でも、野球でも、北海道はきっと勝てる。そんな期待を、自信に、確信に変えてくれたのは、駒苫であり、チームを作り上げた香田監督だった。
その影にどんな苦労や葛藤があったかは、私風情がここに記すことではないだろう。


同年、日本ハムファイターズが本拠地を移転して初めての日本一となったことも相まって、道産子の野球への情熱は大きくヒートアップしたはずだ。
それにしても数年後、あの因縁の斎藤佑樹が日ハムに入団するなど、当時の誰が想像しただろうか。

2004年の駒苫チームの主将であった佐々木孝介君は、今では母校の佐々木監督となった。
私にも、甲子園への憧れを持って駒苫の野球部に入部し、彼のもとで青春をすごした先輩や友人がいた。
そして私は、彼らから野球部についてや、佐々木監督についての話を聞く度に、あの幼い日の興奮が蘇るような気がするのだ。
あのドラマはまだ続いているのだと、信じたくなる。

たとえ今、駒苫が強いチームとして君臨していなくても、私たちには駒苫の夏が確かにあった。
彼らの肩の北海道マークに、期待と祈りを込めた夏が、三度あった。

あれから、駒苫のような快進撃を見せた北海道代表チームはまだない。
それでも、永年にわか野球好きの私は、駒苫の見せてくれた3年間のおかげで、夏の甲子園に心を踊らせることが出来るのだ。
それは、かっこいいお兄ちゃん達に見えていた高校球児が年下になってしまった今も終わらない、長い長い夢の続きだ。

明日、8月6日。
今年の北海道代表である北照と旭川大が、どうか最高のゲームを戦い抜くことが出来ますように。

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