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良運の方程式 第34話

皆さんは、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック、棒高跳びで銀メダルと銅メダルに輝いた西田修平選手と大江季雄選手をご存知でしょうか。今日は、「友情のメダル」と話題になった、この2人の物語を題材に、友情の尊さ、心の交流の大切さについて考察してみたいと思います。

①西田、大江両選手の略歴

西田選手は、1910年に、和歌山県東牟婁郡那智村に生まれました。棒高跳びの名手として、早稲田大学の理工科に在学中に、ベルリンオリンピックの前のロサンゼルスオリンピックにおいて銀メダルを獲得しています。

大江選手は、1914年に京都府舞鶴市で生まれました。こちらも棒高跳びの名手であり、1935年にブタペストで開催された国際大会において、準優勝という快挙を打ち立てています。その後も躍進は止まらず、ベルリンオリンピックの開催年である1936年に当時の日本記録である4m34cmを樹立しました。

②ベルリンオリンピックでの活躍

そして迎えた1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック。当時の棒高跳びは日本のお家芸であり、西田、大江の両選手には金メダルの期待がかけられていました。試合は、西田、大江、アメリカのメドウス、アメリカのセフトンの4名が残り、4名でのメダル争いとなりました。結果的に、メドウスが残り金メダル、セフトンが脱落して4位、西田、大江両選手での銀メダル争いになったのです。規則通りなら、順位が決まるまで試技を続なければならないのですが、時計は午後9時をまわり、あたりは闇。試合時間はとうに5時間を超えていました。その時二人は、どちらからともなく『日本人同士が争う必要はない』と提案、4歳年下の大江選手が西田選手に2位を譲り、表彰台では、逆に西田選手が譲って大江選手が2位、西田選手が3位の位置に立ったのです。実際に公式結果では、銀メダル西田、銅メダル大江となっていますが、実際の映像では、確かに大江選手が銀メダルを、西田選手が銅メダルを受け取っています。

③帰国後の「友情のメダル」

オリンピックが終了し、お互い帰国すると、大江選手は銀メダルを京都府舞鶴市の実家に持ち帰っています。故郷では凱旋報告会も開かれ、舞鶴の街は大いに賑わったといいます。その直後、ベルリン大会組織委員会から送られてきた、3位としてのディプロマ(賞状)を見た大江選手の兄、泰臣氏の勧めもあり、大江選手側が西田選手のもとを訪ね、西田選手が持ち帰った銅メダルとの「交換」を申し出ます。潔い申し出です。しかし、西田選手もまた「このままにしてください」と譲りません。こちらもまた潔い姿勢でした。そこで双方相談の上で、銀メダルと銅メダルを半分に切断してそれぞれを合わせるという前代未聞の加工を施し、地上に2つしかない「銀・銅」と「銅・銀」のメダルが出来上がったのです。お互いの健闘を称え合ったこのメダルは、「友情のメダル」として、道徳の本にも取り上げられ、広く国民に賞賛されることとなりました。

④友情、心の交流が示すもの

公式記録上は、銀メダルは西田選手、銅メダルは大江選手ということになっています。しかし、西田選手が表彰台を譲った結果、実際には銀メダルは大江選手に、銅メダルは西田選手に授与されました。それだけでも2人が心から認め合い、健闘を称え合っていることがわかります。しかし、最終的にメダルを「銀銅メダル」に加工してそれぞれが持つに至って、真の友情、称え合う心の交流、尊いスポーツマンシップの物語へと変貌していったのです。この関係は「友情」というより「戦友」と言った方が合っているのかもしれません。人生のすべてを賭けて戦った者にしかわからない、相手を尊敬し認め合う姿。順位が大切なのではありません。そこに至る努力が大切なのです!そしてそれを知る者同士にはメダルの色よりも、もっともっと大切な真の友情が芽生えるのです。

⑤まとめ

私達は、仕事や日常生活の中で、様々な競争にさらされて生きています。その競争の中で、本来は称え合えることでも勝った負けたで一喜一憂していないでしょうか?つまらない虚栄心で、人を貶めようと画策したり、人の失敗を喜んだりしていないでしょうか?一生懸命努力し、苦労した人間は、人の頑張りや苦労を労り称えることができます!私達も、純粋な気持ちで、人の努力や成功を褒め称えることのできる潔い人間でありたいものですね!最後に、西田、大江両選手のその後をご紹介して終わりにしたいと思います。今日もお読み頂きありがとうございました。皆さんが溢れるほどの「良運」を手にすることができますよう、お祈り致します!

あの「友情のメダル」のその後についてですが、西田選手のメダルは和歌山・紀三井寺陸上競技場を経て母校・早稲田大学スポーツ博物館に、大江選手のそれは秩父宮記念スポーツ博物館にそれぞれ収蔵されています。西田選手は、競技生活を終えた後も審判・監督職で活躍し1959年(昭和34年)には、日本陸上競技連盟理事長に就任しました。そして1997年(平成9年)心不全により、87才で亡くなられています。その生涯を日本陸上競技の発展に捧げられた人生でした。一方、大江選手は1939年(昭和14年)陸軍に召集され、歩兵第20連隊第5中隊少尉として1941年(昭和16年)フィリピン・ルソン島での戦闘で戦死されています。日本に名誉のメダルをもたらし、英霊として国に殉じた、わずか27年の生涯でした。合掌。


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!