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良運の方程式 第64話

昨日の「良運の方程式 第63話」に引き続き、シベリアからのポーランド孤児救出活動についてご紹介致します。

⑦孤児達を迎えて

東京の福田会に収容された375人の孤児のうち、男子は205人、女子が170人。最年長者は16歳の男子1人と女子2人。最年少者は2歳の女子2人でした。まず日赤では全員に、新しい衣服、肌着、靴下、靴、帽子を新調して与えています。到着翌日から、関係団体のさまざまな人がおもちゃやお菓子を携えて慰問に訪れました。その中には日本橋葭町の芸妓たちもいて、彼女たちが持参したみやげの手ぬぐいが、子供たちの日常で大いに役に立ったといいます。芸妓らは、年長の子供たちが甲斐甲斐しく年少者の世話を焼く健気な姿を見て、思わずもらい泣きしたと言われています。

新聞記者たちも、孤児たちのもとへ取材に訪れています。カメラを向け、さまざまな質問をしました。子供たちは通訳を通して丁寧に答えていましたが、「パパやママは?」と訊かれると、年少者は首をかしげて沈黙し、年長者は、はらはらと涙を流します。記者たちは「しまった」という表情になり、「すまなかったね」と頭を下げました。無垢で純粋な子供たちの姿に涙ぐむ記者もいて、「いい記事を書こうよ。この子たちのことを世界中が知ってくれるような、いい記事を」と記者たちが励まし合ったといいます。そんな新聞記事の後押しもあり、国民からの寄贈品や寄付金が続々と送られてきました。

⑧規則正しい生活

また孤児たちは、大半が栄養失調で弱っており、皮膚病や百日咳などにかかっていました。これに対して、医師や看護婦たちは手厚く看護に当たっています。日々の生活は、市内見物や慰安会が催される日は別として、規則正しいものでした。夏場は朝6時(冬場は朝7時)に起床。洗面後に全員が一室に集まり、朝の祈禱。8時に朝食。午前中は付き添い人(ポーランド人)の指導で読者や算数の勉強、幼い子はおもちゃで遊び、午後1時の昼食を挟んで、また読書や勉強。午後6時の夕食後、再び祈禱。午後8時に就寝。食事は付き添い人が子供の栄養と好みを考えて調理し、1日1回、寄贈されたおやつが配られました。こうした生活の中で、子供たちは徐々に健康を取り戻していきます。

⑨看護婦たちの思い

しかし、大正10(1921)年4月、東京で腸チフスが流行し、孤児たちも22人が罹患してしまいます。この時、医師も看護婦も昼夜の別なく、つききりで看護しました。「人は誰でも自分の子供や弟や妹が病に倒れたら、自分の身を犠牲にしてでも助けようとするものです。でもこの子たちには、両親も兄弟姉妹もいないのです。誰かがその代わりをしてあげないと、助けられません。それならば、私が姉の代わりになりましょう」…。それが、献身的に看護にあたる看護婦たちの思いでした。

必死の看護の甲斐あって、およそ2週間で子供たちは回復します。しかし看護婦の一人、松澤フミさん(当時23歳)がチフスに感染し、殉職しました。いつも優しかった松澤さんの死は子供たちには伏せられましたが、事情を知らない幼い子たちは「フミさんは? フミさんは?」と周囲に問いかけ、やがて亡くなったことを知ると、子供たちは号泣したといいます。

⑩貞明皇后のお言葉

孤児たちが東京に来てしばらくのちに、貞明皇后(大正天皇の皇后)が、福田会に隣接する日赤病院に行啓されました。貞明皇后は孤児たちの境遇を憐れみ、それまでに多額のお菓子料を下賜されています。貞明皇后は子供たちをおそば近くに召され、4歳になる愛らしい女の子ゲノヴェハの髪を何度もなでられました。ゲノヴェハの父親は貴族でしたが、シベリアで赤軍に捕えられ、それを見た母親はその場で遺書を書き、自殺。幼いゲノヴェハは4日間、木の実を食べながらさまよっていたところを、救済委員会に保護されます。体調を崩していたため日赤病院に入院し、数日前に退院したばかりでした。ゲノヴェハの境遇を知った貞明皇后は涙をたたえられ、こうお言葉をかけられました。

「ゲノヴェハさん、あなたは一人ではありませんよ。あなたがここに来られたのは、あなたのお父様やお母様がわが身を犠牲にしてお守りくださったからなのですよ。だから一所懸命に生きていくのです。命を大切にして、健やかに成長するのですよ。それがあなたを守ってくださったご家族と、この病院の方々の願いなのですよ」…。

⑪東京で生活した孤児達との別れの時

やがてアメリカ経由でポーランドまでの船便が確保できると、孤児たちは順々に、横浜港から日本を離れることになります。別れはつらいものでした。「日本にいたい。日本で暮らしたい」と泣きながら懇願する子が多かったからです。しかし、ポーランドとの取り決めがあり、それは許されません。横浜港には救済委員会のアンナ•ビェルケヴィチ会長をはじめ、福田会や日赤病院の人々、ポーランド公使館員、ポーランド領事など多くの人が見送りに来ていました。子供たちは別れを惜しんで涙を流し、客船に乗り込むと、デッキから大声で「ありがとう」「さようなら」を繰り返し、「君が代」とポーランド国歌を歌ったといいます。

子供たちを乗せた船はシアトルに向かい、アメリカを経由して子供たちは無事にポーランドへと帰りました。のちにポーランド衛生長官は、孤児に対する日本国民の「義侠なる行動」に深く感謝し、こう述べています。

「児童が横浜を出発するに際し惜別と謝恩の涙を流したのは、児童に対する救助がいかに貴重だったかを証明する最良のものです」…。

⑫大阪の人々の歓迎

一方、大阪では390人の孤児たちが、東成郡天王寺村(現、大阪市阿倍野区旭町)に建てられたばかりの、大阪市立公民病院看護婦寄宿舎で、やはり規則正しい生活を送っていました。日赤本社大阪支部病院から医師と看護婦が派遣され、栄養失調で顔色の悪かった子供たちも日に日に血色がよくなり、健康を取り戻していきます。

大阪にも全国から寄贈品や寄付金が届けられ、貞明皇后は大阪にもお菓子料を下賜されました。大阪でも子供たちは大歓迎を受け、女学校の生徒たちの慰問や、活動写真と呼ばれた映画の上映会、教会での礼拝、大阪城の見学など、あちこちでもてなされました。

中でも子供たちが大はしゃぎしたのが、天王寺動物園です。園長のはからいで、檻から出された象の背中に、子供たちは乗せてもらえたのでした。もちろん皆、生まれて初めての体験です。動物園からの帰り際、子供たちは園長のもとに駆け寄ると、口々に覚えたての日本語で「アリガト」と礼を言います。満面の笑みで、たどたどしい言葉を伝える幼い子供たちの姿に園長はたまらなくなり、おいおいと泣き出してしまいました。シベリアで天涯孤独の身となりながらも、笑顔で礼を言う子供たちの健気さを、園長は涙で讃えたのでしょう。

こんなこともありました。子供たちがある工場の前を通ると、付き添いの日赤職員が工場の人に呼ばれました。何かと思っていると、工場主らしい人が出てきて「はなはだ些少だが、これで子供たちに草履でも買ってやってほしい」とお金を差し出したのです。また両親とともに子供たちの慰問に訪れたある少女は、いきなり自分が着ている服を脱いで、子供たちに譲ろうとしました。子供たちに着替えがないと知ったからで、服だけでなく、髪に巻いていたリボンも櫛も、ブローチもベルトも、指輪まで外して、すべて贈り物にしようとしたのです。

さらには慰問に訪れた2人の少女が、洗濯を手伝いたいと申し出ます。付き添い人は遠慮しますが、少女たちは「この宿舎で暮らす女の子たちが洗濯をしてもよいのならば、私たちが手伝ってもかまわないでしょう」と言い張り、その日から毎日、子供たちが大阪をあとにする日まで、定刻に来て洗濯を手伝いました。大阪の市民は同情を超えて、子供たちを家族の一員のように迎え入れていたことが伝わってきます。

⑬大阪で生活した孤児達との別れ、そして祖国へ

やがて大阪にいた子供たちにも、帰国の途につく日が訪れました。彼らは神戸港からロンドン経由で、故郷のポーランドに帰ることになります。日赤は子供たちに、洋服を一着ずつ新調して支給しました。長い航海で、途中で寒さも厳しくなるだろうと、毛糸のチョッキも一枚ずつ寸法を合わせて、贈っています。子供たちを見送りに、梅田駅や神戸港には大勢の人が集まりました。

ここでも横浜港と同様、子供たちは「日本にいたい」とひとしきり泣いたそうです。乗船が始まると、子供たちは付き添い人とともに客船のデッキに鈴なりとなり、「君が代」とポーランド国歌を合唱しました。そして「ありがとう」「さようなら」と赤十字の旗や両国の国旗を振って叫びます。見送る日本の人々も子供たちの無事を願い、別れを惜しんで、船が見えなくなるまで手を振り続けました。

⑭夢にまでみた祖国

神戸を出港した子供たちは、シンガポール、コロンボ、ポートサイド、マルセイユ、リスボンを経て、ロンドンに向かいます。船内では朝と夕方、祈禱を行い、讃美歌を歌いました。また客船は船長以下、乗組員は日本人でしたが、子供たちが眠りにつくと、船長は毎晩寝室を巡回して毛布を首までかけてやり、額に手をあてて、発熱していないかを確認しました。その手の温もりが今も忘れられないと、のちに孤児が語っています。

ロンドンに到着すると、孤児たちはイギリス船に乗り換え、いよいよ故郷ポーランドを目指しました。やがて小雨の降る大正11(1922)年11月、祖国の港グダンスクに到着します。その時のことを、当時11歳の少年ヘンリックは次のように回想しています。

「肌寒い日だった。全員が甲板に出た。港にはためく赤と白のポーランド国旗をいつまでも見つめていた。幼い子達ははしゃぎ回っていたが、年長の子供達は、涙を流しながら無言で立ちすくんでいた。幼な心ながらも、これが夢にまで見た祖国なんだという感動で、体が震えた。祖国の人も建物も、涙でにじんで見えなかった」…。

今日も読んで頂きありがとうございます!続きは、明日の「良運の方程式 第65話」でご紹介致します。


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!