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良運の方程式 第71話

激動の明治維新。近代日本の幕開けとなった明治維新から今年で157年。かなり昔の話のように思いますが、まだ200年も経っていない、つい最近の出来事です。日清日露の戦争を経て、近代国家として欧米列強の仲間入りを果たした重要なこの明治期に国の舵取りをしたのは、慶応3年の即位時わずか16才だった明治天皇でした。今日と明日の2回にわたって、近代日本の建設に強力なリーダーシップを発揮した明治天皇を取り上げ、その人柄と国家のトップとしての資質の何たるかについて考えてみたいと思います。

①明治天皇が自ら体現された「無私のまこと」

「目に見えぬ 神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり」

権力者には常に厳しい倫理を持って相対し、国民には自愛に満ちた御心で臨まれた明治天皇。それは日々祈りを捧げられ、御製を通じて御心を磨かれ、すべての問題を我が事として考え悩まれたがゆえに、到達し得たご境地でありました。
「私」をなくし、全身これ「公」であろうとされた明治天皇のまことの御心こそ、日本史上に輝く「明治の精神」の核心なのです。

②慈愛と剛毅さの両面を併せ持った明治天皇

明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御されてから、今年で112年になります。最近では、明治天皇がいかに生き、いかに時代を作ってこられたかを、あまり知らない人も多いのではないでしょうか。これは現代の日本の成り立ちを知る上で大きな問題かと思います。
今日の日本を築いたあの時代の中心におられた明治天皇が、どのようなことをお考えになり、どのようなことをなさったのかがわからなければ、明治という時代に最大限に発揮された日本人の美質と、日本文明の本質を十分に理解することができないと思うからです。
明治時代を生きた多くの人々は、明治天皇の威厳と共に慈愛に満ちた雰囲気と、まるで古武士のような剛毅さに、憧れを寄せていました。
平たく言えば、明治天皇の中に「最高の男ぶり」を見て取っていたのです。ある意味では、天皇と国民との距離が、その後のどの時代よりも近かった時代といえるでしょう。
明治天皇の、この慈愛と剛毅さの両面は、御肖像や10万首にものぼる御製(天皇が詠まれた和歌)、そしてより公式な詔勅の文章の中にさえ表われています。それらの積み重ねが明治という時代のイメージを大きく規定しているともいえます。
明治天皇は、いかにしてこのような天皇となられたのでしょうか。

③父帝・孝明天皇の御心

まず、明治天皇に大きな影響を与えられたのが、父帝 (ちちみかど)・孝明天皇です。特に重要なのは、孝明天皇が、「日本のかたち」を極めて重視されていたことでしょう。
長い歴史の中で日本人が作り上げてきた「日本のかたち」は、「万世一系の天皇が、『精神的な規範』となり『権力の源泉』ともなるかたちで統治する国」というものでした。
現実の政治権力のあり方は、時に摂関政治、時に幕府政治というように時代によって様々ですが、どの時代の摂政も関白も将軍も、任命しているのは天皇です。
そして天皇は同時に、国と民のために祈り、日本の精神的規範を体現する存在でもあります。つまり日本においては、権力と祭祀と道徳が「天皇」という1つの軸で貫き通されてきたのです。
ですから、時の権力が「公」の心を忘れて、政治をあまりに「私」し、嘘や裏切り、腐敗の横行などを招くと、それはすぐに「日本の精神的規範」を正面から傷つけることに直結してしまいます。幕末の状況を見て、孝明天皇が心配されたのもまさにそのことでした。
嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結された後、総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の締結を求めます。幕府は当初、条約締結の勅許を求めますが、孝明天皇がそれを拒まれると、幕府は勅許なしに条約を締結。その後は居直って京都の公家たちを買収しにかかりました。
このような嘘や不正義を放置したら、やがてそれが社会全体にも広がり、国民の道徳心が地に堕ちてしまう…。そのことを孝明天皇は強く懸念されたのです。
政(まつりごと)を司る者の腐敗や不正義を、許すことがあってはならない。その毅然たる御心を、明治天皇はたしかに受け継がれました。

④大きな影響を与えた西郷隆盛

しかし孝明天皇は慶応2(1866)年に崩御されます。翌年1月、明治天皇は満16歳で践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐこと)されます。10代の若い天皇が、倒幕と王政復古という激動の時代を取り仕切る立場に立たれることになりました。
当然、こまかな政治の実務にまで主導権を発揮することは難しかったでしょう。しかし明治天皇は、その立ち居振舞いによって近代への開化期の真っ只中にあった日本を力強く前へ踏み出させる…という歴史的な役割りを果たされました。
「明治天皇紀」などの記録を参照すると、明治初期、天皇のご生活が大変な勢いで西洋化していることがわかります。明治天皇ご自身も西洋的なものに、あえて言えば「前のめり」と言っていいほどに高い関心を示されました。
洋服を着て馬を乗りこなし、江戸城の中を駆け回ることを好まれたお姿は、まるで古い公家社会の因循姑息の中に押し込められてきた青春のエネルギーが、維新後の近代化路線と重なりあって爆発しているかのようです。
馬車に乗って全国津々浦々への行幸を繰り返され、近衛連隊を率いて東京の街路を行軍されたりする、その光景が日本中を一気に近代への開化に衝き動かしたのです。
そんな明治天皇に物心両面で大きな影響を与えたのが、西郷隆盛でした。西郷は戊辰戦争後、鹿児島に戻っていましたが、明治4(1871)年に廃藩置県など大改革実現のために上京します。その西郷が発議し手掛けたのが、宮中改革でした。
西郷は、明治天皇に一人前の君主、つまり「一人前の男」になっていただくべく、宮中の大改革を行ないます。それまで宮中で大きな影響力を誇っていた女官や公家たちを遠ざけ、多くの武士を天皇の側近くに仕えさせることにしたのです。
この改革で、吉井友実 、村田新八、山岡鉄舟、高島靹之助などが侍従として登用されます。いずれも幕末から戊辰戦争で活躍した剛の者であり、明治天皇のご生活だけでなく、その人となりにも大きな影響を与えていきます。
またこの時期に、天皇に学問を進講する侍講も入れ替わります。儒学を進講して明治天皇から厚い信頼を寄せられることになる元田永孚 (もとだながざね)が侍講になったのも、この頃のことです。
さらに西郷は明治4年の御親兵(翌年、近衛兵に改称)創設以来、近衛都督などを務めて、演習でも常に明治天皇に付き従い、また明治5(1872)年の西国巡幸に随行するなど、多くの時間を明治天皇と共に過ごしました。
その時に「敬天愛人」を大切にした西郷という人間の内面…つまり、他人はどうあれ「天に恥じない行ないをする」という道徳倫理や、人を深く思う心の大切さなどが明治天皇の御心に染み渡ったと言われています。
こうした日本人の心への「目覚め」から、明治天皇は、それまでの行き過ぎた西洋化を危惧し、日本人らしい心根を尊ぶことの大切さに改めて目を向けられます。まさに西郷の影響があればこそといえましょう。
明治天皇は、後年に至るまで折にふれて西郷の思い出話をされていたと言われます。西郷は、明治天皇にとって国家観や人間観、道徳意識を共有できる、真に心を許せる存在だったのではないでしょうか。
そのことは晩年、どこか西郷と精神的に共通するところのある乃木希典を深く信頼し、学習院長に任命して皇孫・迪宮 (みちのみや=後の昭和天皇)の教育を任せておられることからも、うかがい知れるように思われます。

⑤明治天皇に大きな転機となった「征韓論」をめぐる政変

そのような明治天皇に、大きな転機が訪れます。きっかけは、明治6(1873)年のいわゆる「征韓論」をめぐる政変でした。
明治4年に遣欧施設として派遣され帰国した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允たちと、その間、留守を預かった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが、朝鮮への使節派遣を巡って対立し、激烈な権力闘争の結果、西郷たちが下野し、政府が大分裂する事態に立ち至ったのです。
その後、各地で士族の反乱が頻発します。まさに戊辰戦争以来の一大危機でした。そしてついに明治10(1877)年、西南戦争が起こり、結局、西郷は「賊将」の汚名を着て死を迎えます。
信頼を寄せていた西郷の反乱と死は、明治天皇に大きな衝撃を与え、一時、政務や学問が手につかないこともあったほどでした。しかし、20代半ばであった明治天皇は、西南戦争以後の状況を深く憂慮され、おそらく「身を賭して政治に関わらねばならない」という覚悟を改めて固められることになるのです。

続きは、明日の「良運の方程式 第72話」となります。引き続きお読み下さいますように。
今日も読んで下さり、ありがとうございます。皆さんがたくさんの「良運」に囲まれて幸せな毎日を送れますよう、心より祈念致します!


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!