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良運の方程式 第65話

昨日の「良運の方程式 第64話」に引き続き、シベリアからのポーランド孤児救出活動、及びその後の日本とポーランドの関係についてご紹介致します。3日間に渡ったこのお話しも今日が最終回です。

⑮再び襲ってきた戦禍

大正10(1921)年3月、ソ連との戦いに勝利したポーランドは、晴れて独立します。孤児たちが祖国に戻ったのは、ちょうどそんな頃でした。ただ彼らには身寄りがなく、母国語も満足に話せない子供もいたので、ポーランド救済委員会の会長を務めたアンナ•ビェルケヴィチは、バルト海のほとりにある施設に孤児たちを集めます。そこではポーランド語を学ぶとともに、「日本への感謝を忘れるな」を合言葉に、日本で覚えた歌なども歌い継がれていきました。

やがて成長した孤児たちは「極東青年会」を設立。会長に大阪に収容された孤児の、イェジ•ストシャウコフスキが就任し、同会は1930年代後半には、会員数が640人を超えます。彼らは相互扶助や親睦活動の他、自らの体験を踏まえて孤児院を開設。さらに日本大使館と交流し、日本との親善を深めました。そして月給の一部を積み立て、「いつか日本に旅行したい」と夢見ていたといいます。しかし帰国から17年後、彼らを再び戦禍が襲いました。

昭和14(1939)年、ヒトラーのドイツ軍によるポーランド侵攻です。第二次世界大戦の始まりでした。ドイツ軍の侵攻に抵抗する中、2週間余りのちにはソ連軍もポーランドに侵攻。実はドイツとソ連は、ポーランドを分割する密約を結んでいたのです。さすがにこれではポーランドも抗しきれず、首都ワルシャワは陥落。ポーランド政府は国外に脱出し、またもや国家が消滅する悲劇を、成長した孤児たちは目の当たりにすることになりました。そうした中、ワルシャワでは、極東青年会が開設した孤児院を守るために、日本の大使館員たちが一役買います。

孤児院にナチスの秘密警察が踏み込んでくると、その度に日本の大使館員が駆けつけ、「この子たちは私たちが面倒をみており、身元は保証する」と語り、「さあ、みんな、ドイツの人たちに日本の歌を聴かせてあげて」とうながして、「君が代」などを合唱させました。同盟国日本の国歌を歌われては秘密警察も何も言えず、引き上げたといいます。極東青年会の元孤児たちが、日頃から孤児院の子供たちに、日本の歌を伝えていたことが功を奏しました。しかしワルシャワの日本大使館も、昭和16(1941)年には閉鎖されてしまいます。

⑯私達ポーランドが日本を救う

戦争中、成長した孤児たちは、ある者は戦いに身を投じ、またある者は孤児院の子供たちを守りました。いずれも根底にあるのは、自分たちがシベリアで味わった苦しみを、子供たちに味わわせたくないという思いです。そして戦いの最中、ポーランド政府は日本に、ある「返礼」をしてくれました。

第二次世界大戦でポーランドはドイツを敵とする連合国側、日本はドイツと同盟を結ぶ枢軸国側で、敵対関係にありました。しかしポーランドの人々に日本に対する悪感情はなく、それは日本も同じで、スウェーデンのストックホルム駐在武官であった陸軍の小野寺信は、ポーランドの情報士官ミハール•リビコフスキーをドイツの手から守るため、日本のパスポートを与えて、武官室にかくまっていました。しかし、昭和19(1944)年には、ドイツの圧力に屈したスウェーデンの命令で、リビコフスキーはやむなくロンドンの亡命ポーランド政府のもとに退去します。

翌昭和20(1945)年2月半ば、小野寺のもとに亡命ポーランド政府から極秘に書簡が届きました。その内容は驚くべきもので、2月初旬にクリミア半島のヤルタで行われた米英ソ巨頭会談の詳細です。「対日密約が結ばれ、ドイツ降伏の3ヵ月後にソ連が対日戦に参戦すること、その見返りとして日本領南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることが決まった」というものでした。

連合軍に加えて、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦してくれば、日本の敗北は決定的であり、ポーランドと同様に祖国の地を奪われる危険が迫っていたのです。連合軍のトップシークレットであるはずの極秘情報を、なぜポーランド政府は小野寺に知らせたのか。それは「今度は私たちポーランドが日本を救う」というメッセージでした。「かつてシベリアの孤児を救い、この度もリビコフスキーを庇護してくれたわが友日本が、自分たちのような悲劇に陥らないでほしい。この情報をもとに何とか手を打ってくれ」という思いが込められていたのです。

小野寺はすぐに日本へ極秘情報を伝えますが、残念ながら軍上層部に握り潰され、情報は活かされませんでした。しかしポーランドの人々が敵味方の立場を超え、友情と信頼を重んじて極秘情報を知らせてくれた事実を、日本人は知っておくべきでしょう。

⑰永遠に続く友情

第二次世界大戦後、44年間の社会主義体制時代を経て、平成元(1989)年にポーランドは民主国家となりました。平成7(1995)年に日本で阪神•淡路大震災が起きた際には、同年と翌年の2度、被災児童がポーランドに招待され、その場に4人の元孤児もかけつけて、日本の子供たちに温かい言葉をかけてくれています。「私たちがかつて日本人からもらった温かな心を、今、被災して悲しんでいる日本の子供たちに伝えたい」という思いからでした。

また平成7(1995)年10月には、8人の元孤児が、ワルシャワの日本国大使公邸に招かれました。全員80歳以上の高齢者です。大使が「国際法では大使館と大使公邸は、小さな日本の領土です」と挨拶すると、元孤児たちは、「ああ、私たちは日本に戻ったんだ」と感激し、ひざまずいて泣き崩れたといいます。そして、ある元孤児はこう言いました。

「私は、生きている間にもう一度日本に行くことが、生涯の夢でした。そして日本の方々に、直接お礼が言いたかった。しかし、それはもうかなえられません。ところが今日、大使公邸にお招き頂き、この地が小さな日本の領土だと聞きました。それならば、ここで日本の方に、長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう死んでも思い残すことはありません」…。

その日、元孤児たちは日本での嬉しかった思い出を生き生きと語り、聞く人たちはそこに、当時の日本人の優しい眼差しや姿をまざまざと見るような感懐にとらわれたといいます。

平成14(2002)年7月12日、ワルシャワの日本国大使公邸でレセプションが行われました。ポーランドへ公式訪問に臨まれていた天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)の、歓迎に対する答礼の会が催されたのです。公邸にはポーランド大統領夫妻をはじめ、関係者数百人が招かれていましたが、招待客は不思議な光景を目にすることになります。

天皇皇后両陛下は大広間に入られると、メインゲストの大統領夫妻に挨拶される前に、まっすぐ3人の老人たちの元に歩み寄られたのです。その3人の老人こそ、かつての孤児たちでした。

そのうちのヴァツワフ•ダニレヴィッチ氏(当時91歳)は大阪に収容され、天王寺動物園で喜んだ一人。ハリーナ•ノヴィツカ女史(当時92歳)は東京の日赤病院で、貞明皇后に拝謁した一人です。そしてアントニナ•リロ女史(当時86歳)は東京で、皮膚病で幼い頭を包帯でぐるぐる巻きにされながら、看護婦さんにとても可愛がってもらったことをよく覚えています。

天皇皇后両陛下は足の不自由な3人に座るよううながされ、腰を落として一人ひとりの手を握り、ゆっくりといたわりながら、お言葉をかけられました。「お元気でしたか」…。天皇皇后両陛下と元孤児たちは、頬を近づけるほどの距離で、ひと言ひと言、しっかりと対話します。孤児たちは感激し、口々に日本への感謝の念を伝えようとしますが、思いがあふれるあまり、言葉に詰まりました。それでも亡くなった孤児の分まで、皆を代表するつもりで「本当にありがとうございました」と万感を込めて言う3人を、両陛下は感動の面持ちで受け止められたといいます。そんな3人の元孤児も、それから数年のうちに他界しました。

⑱まとめ

シベリアから救出された孤児たちに始まる日本とポーランドの深い繫がりを、現在のほとんどの日本人は知らないかもしれません。しかし、このエピソードから私たちは、様々な大切なことを受け取ることができるでしょう。それは、「善意は善意を生み、信頼は信頼を呼ぶ」という史実であり、教訓なのだと思います。

⑲最後に

皆さんは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、「国際連盟規約」の中に人種差別の撤廃を明記するべきという人種差別撤廃提案を日本政府が提出したことをご存知でしょうか。この提案は、当時の米国大統領、ウッドロウ•ウィルソンの反対で否決されていますが、今回ご紹介したポーランド孤児の救出に見られる通り、人間としてあるべき姿を貫く武士道精神が、当時の日本人にいかに根付いていたかを忘れてはいけないと思っています。

今日も読んで下さり、ありがとうございます。皆さんがたくさんの「良運」に囲まれて幸せな毎日を送れますよう、心より祈念致します!


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!