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良運の方程式 第62話

皆さんは、太平洋戦争下において「海の武士道」と讃えられた、駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長による英軍将兵救出劇をご存知でしょうか。今日は、過酷な戦時下において為された422名にも及ぶ奇跡の敵兵救出劇のお話しをご紹介させて頂きます。

①工藤俊作の略歴

工藤俊作は、明治34(1901)年1月7日、山形県東置賜郡屋代村(現•高畠町大字竹森)で、農家の次男として生まれました。山形県立米沢中学校(現•米沢興譲館高校)を経て、大正9(1920)年、海軍兵学校に入学。大正12(1923)年、海軍兵学校卒業。軽巡洋艦「夕張」、戦艦「長門」等での勤務を経て、昭和12(1937)年、海軍少佐に昇進。昭和13(1938)年に駆逐艦「太刀風」艦長、昭和15(1940)年に駆逐艦「雷」艦長に就任し、太平洋戦争を迎えます。昭和17(1942)年3月1日のスラバヤ沖海戦で、日本艦隊は英国海軍の重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エンカウンター」を撃沈。翌3月2日に漂流する両艦の将兵422人を救護します。同年8月、駆逐艦「響」艦長に就任。同年11月に海軍中佐に昇進し、体調を崩したことにより昭和20(1945)年3月に待命となり、終戦を迎えます。昭和54(1979)年1月12日、胃癌により埼玉県川口市において78年の生涯を閉じています。

②スラバヤ沖海戦

スラバヤ沖海戦は、昭和17(1942)年2月27日から3月1日にかけて、インドネシア•スラバヤ沖にて、帝国海軍と米英蘭豪•連合国海軍(ABDA艦隊)との間で行われた海戦であり、帝国海軍が勝利を修めました。このスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦による日本の勝利によって、東南アジアに配備されていた連合軍水上兵力は一掃されます。そして、日本軍のジャワ島上陸(蘭印作戦)が進むこととなったのです。

③英軍将兵422人の救出劇の全貌

スラバヤ沖海戦で敗れた米英蘭豪•連合国海軍(ABDA艦隊)の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出を図りました。しかし、2隻の英国軍艦(重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エンカウンター」)が日本艦隊に撃沈され、乗員422名が漂流の身となりました。南方の暑い日差しの中で、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。その時、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見したのです。平時の感覚としてなら、彼らを救助することは人道上当然の責務です。しかし、戦時下では状況が異なりあらゆる価値観は逆転します。ですから、海上で敵兵を見つければ、それが漂流中であれ何であれ、全員殺すことが戦時の常識です。そうされても仕方がないというために、軍人は軍服を着用するのです。それが戦時国際法のルールです。そもそも戦争とは、一人でも多くの敵兵を殺すことです。殺すか殺されるかが戦争ですから、非情でなければ生き残れないのです。

しかし、なんと工藤俊作少佐(当時)は艦長として、「雷」を停止させ、敵英軍将兵の救助を命じたのです。「敵兵を救助せよ」の命令により、「雷」は「救援活動中」を示す国際信号旗を掲げ、英軍将兵の救助に当たったのです。救助のためには、艦を停止させなければなりませんが、敵の魚雷の的になる危険があります。しかし工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、艦内総力を挙げて救助に当たるよう指示したのです。はしご、ロープ、竹竿等々。さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能な全ての装備を投入し救助に当たりました。しかし、英軍将兵の体力は限界に達していて、一部の将兵は、縄はしごを自力で登ることができません。竹竿を下し、これにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わず力尽きて海に沈んで行く者もありました。工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせたのです。

「漂流者を全員救助せよ。一人も見逃すな」。工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止まり、すべての英国兵を救助したのです。その数実に「422名」。まさに「雷」の乗組員220名の倍に及ぶ数でした。「雷」艦上は英軍将兵で一杯となりましたが、日本兵は重油と汚物にまみれた英軍将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、着替えも用意。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配ったので、一番砲は使えなくなりました。戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも沈没します。そういうケースは多々あります。だからこそ相当に温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は、艦を長時間停泊させただけでなく、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのです。これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。こうして422名の英軍将兵は救助されました。救助活動が一段落した時、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、端正な敬礼をした後、英語で次のように訓示しました。
「貴官達は勇敢に戦われた。貴官らは本日、日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
さらに士官室の使用まで許可したのです。英軍将兵一行は翌3月3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗します。その際舷門で直立して見送る工藤艦長に対し、英軍将兵は全員で挙手の敬礼を行い、工藤艦長は答礼しながら温かな視線で見送りました。

④元英国海軍中佐、サムエル•フォール卿の回顧録

その時救助された一人、元英国海軍中佐、サムエル•フォール卿は、1996年に自伝「My Lucky Life」を出版していますが、その本の巻頭には、「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」とあります。彼はその著書の中で次のように回顧しています。

『私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。「雷」を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。ところが、「雷」の砲は一切自分たちに向けられず、救命艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水兵たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、白い防護服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員が笑みを浮かべ、我々を温かく見つめてくれていたのです。我々はどうにか甲板に上がることができました。日本兵たちは我々を取り囲み、油や汚物にまみれていた我々の体を嫌がりもせず木綿やアルコールで綺麗に拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。すると、キャプテン•シュンサク•クドウが、艦橋から降りてきて我々に端正な挙手の敬礼をし、流暢な英語でスピーチされました。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy, but your government is foolish make war on Japan.

「雷」は、その後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遥か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

「雷」はもはや病院船のような状況となりました。「雷」の上甲板は我ら英兵422人をケアーするにはスペースが足りません。すると工藤艦長は我ら敵将校達に士官室の使用を許可したのです。後日、救助された我々は、オランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。移乗する際、我々は「雷」の旭日旗(軍艦旗)に敬礼し、ウイングに立つ工藤艦長に敬礼して「雷」をあとにしました。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしてくれました。副長以下重傷者は担架で移乗しましたが、とくに工藤艦長は、負傷して横たわる副長を労い、艦内で治療する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。副長も艦内で、涙をこぼしながら工藤艦長の手を握り、感謝の意を表しました』

⑤この救出劇が世に知られるようになったきっかけ

戦後、工藤俊作元艦長は昭和54(1979)年1月に亡くなるまで沈黙を貫きました。そのため、この救助劇は日本で知られることはありませんでした。この美談が脚光を浴びたのは、救出されたサムエル•フォール卿が、工藤元艦長に会って謝意を表し、日本の武士道精神を世界に広く知らしめたい…との思いで、1987年に救出劇をアメリカ海軍の機関誌に寄稿したことがきっかけでした。フォール卿は戦後、外交官として活躍し、海上自衛隊の護衛艦が英国に寄港するたび、工藤元艦長の消息を尋ねていました。しかし、既に工藤元艦長は他界していて、本人に謝意を伝えることは叶わなかったのです。それでも2003年、海上自衛隊の観閲式に招待され、護衛艦「いかづち」艦上で救出劇を語りました。これが、日本人が工藤俊作元艦長の素晴らしい行いを知るきっかけとなったのです。

⑤まとめ

いかに、武士道精神とは言え、戦場はまさに生きるか死ぬか…。この救出劇の前日には、日本の病院船の救命ボートが攻撃され、158名の命が失われています。そういう中における敵兵の救助は、強い信念無くしてできなかったことでしょう。「東洋のシンドラー」と呼ばれ、6000人のユダヤ人を救ったとされる外交官、杉原千畝もそうですが、偉大なことを成し遂げる人間は、決して自分から話を出すことはありません。必ず、守られた方、救われた方から感謝の話として出て来るものです。命懸けのことさえも決して誇らず、淡々とやるべきことをやる…改めて武士道精神の美徳の奥深さに感銘する次第です。

⑥最後に

平成20(2008)年12月7日、サムエル•フォール卿(当時89才)は、66年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作元艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。そこには、命懸けで戦った者同士だからこそわかり合える、感謝や尊敬の念があったのだと察します。ちなみに、駆逐艦「雷」は、昭和17(1942)年に工藤艦長がその任を解かれた後の昭和19(1944)年4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け撃沈しました。乗員は全員戦死でした。合掌。

今日も読んで下さり、ありがとうございます。皆さんがたくさんの「良運」に囲まれて幸せな毎日を送れますよう、心より祈念致します!


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!