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【短編小説】ねじれの位置

 ビールが運ばれてくる。その提供スピードの速さに田中たちはいちいち歓声をあげ、拍手をした。店員は完璧な愛想笑いをして足早に去って行った。

「いやー俺たちも大人だなー。やっとお酒が飲めるようになったよ」

 男が大きな声で言った。店内は騒がしく、大きな声でなければ会話が成り立たない。だから皆が必然と大きな声になる。左前に座っている女は普段は大きな声を出すことが無いらしく、頑張って大きな声を出して会話に参加していた。

 誰だっけこいつら。

 お酒でゆるゆると靄のかかった記憶を必死で思い返す。確か、サークルの奴らだ。午前中、サークルの人達と忘年会をして、その二次会でこのメンバーと居酒屋で飲むことになったんだ。確か。
 目の前の男がひと際大きな声で笑った。少し黄色くて並びの悪い歯が見える。何について笑っているのかわからないけど、他の人が笑っていない所を見ると、大したことではないのだろう。

「なあ、田中もそう思うよなぁ」
「ん?ごめん。何が?」
「だからさ!三年の市根井さんだよ!可愛いよな!」
「うーん」

 確か、よく後輩の面倒を見てくれる人だ。背が低くて髪が明るくてちょっと前歯が大きい。可愛いビーバーみたいな容姿だ。性格を含めたら確実に好かれる人だろうが、容姿だけなら好みは別れる。正直、容姿だけ見たら特に好きではない。

「可愛いと思うよ。市根井さんがどうしだ?」
「綾香がさぁ、あの人の事可愛くないって言うんだよ。意味わかんないだろ。お前より可愛いっつーの」
「ひどーい!最悪ー!」

 男の右隣に座っている綾香という女が明らかな不機嫌顔で男を睨む。しかし、男はそんな視線に気付くことなくビールを美味しそうに飲みだした。
 
「そう言えば田中君って彼女とかいないの?」

 田中の左隣に座る女がやけに猫撫で声で言った。顔を見ると、ずいぶんお酒を飲んだのか、目が潤んでとろんとしている。この子が可愛ければかなり魅力的な顔に見えるのだろうが、残念ながらこの子は可愛いとは程遠い顔だ。だから間抜けな顔にしか見えない。こっちを向くな。

「いないよ。もうずっといない」
「えー!そんなかっこいいのに?なんで?興味ないの?まさか、男が好きとか?」

 綾香を含めた女四人は「きゃー!すごーい」と悲鳴をあげた。そしてなぜか男は「俺はちげーぞ」とバリアを張っている。

「違う違う。単純に好きな人がいないだけだよ」
「理想が高いんだろ。そういう奴が一番大変なんだよ。どこかで妥協しないと人生幸せになれないぞ」
「違う違う。本当に好きな人がいないんだよ」
「じゃあ、どういう人がタイプなんだよ言ってみろ」
「そっちが先に言ってみろ」
「うーん。俺より先に寝ない。俺より後に起きない。料理が上手。いつも綺麗。性格が良くて頭が良い」
「さだまさしもびっくりの関白宣言じゃねーか」

 女の子たちが一斉に笑った。何だこいつら。どうせ関白宣言なんて知らないだろ。

「で、田中君の好きなタイプは?」
「性格が良くて可愛いなって思う子」
「あとスタイルの良い子でしょ?」
「えー、キモーい」
「いやいや、違う違う。胸なんて全然興味ないから。あってもなくてもどうでもいい。本当に関係ないから。大事なのは性格だから」
「そうやって否定してくるところが怪しいよな。俺はスタイルが良いって言っただけなのにさ。本当は巨乳好きなんじゃねーの?」
「うるせぇ。お前は黙れ。エセさだまさし」

 なんでこんな奴らと一緒にいるんだろう。忘年会の時に一体何があって意気投合したんだろうか。過去の自分に説教してやりたい。
 男が酔ってろれつが回らなくなった頃、帰ろうかと誰かが言った。綾香が寝ようとしている男に一発ビンタを入れ、左隣にいた女は気味悪いほど田中に寄りかかっていた。それを見かねたもう一人の女が言ったらしかった。確かにこんな状態でいても面白くはない。本当になんだこいつら。
 寄りかかってくる女を手でどかして自分の飲んだ分のお金を雑にテーブルに置いて「じゃあな」と一人すたすたと駅に向かう。後ろで「ちょっと!」と誰かが言ったけれど、無視してそのまま改札を通った。
 この時間の駅にはくたびれたサラリーマンが多くいる。一体どんな仕事をしているのかわからないが、全員が死んだ目をしている。遅くまで働いて凄いのだろうが、絶対にこんな仕事はしたくない。好きな人と、好きな事をして自由にお金を稼いで生きていたい。
 階段を降りてホームに立ち、ふと横を見ると、人目を憚らず抱き合っているカップルが目に映った。完全に明らかに勉強しかしてこなかったあるいは勉強すらしてこなかった冴えない眼鏡の男と、こちらもお世辞にも美人とは言えないどこにでもいそうな冴えない女だ。二人は恥ずかしげもなく抱き合い、顔を近づけ、キスをする寸前のように見えた。

 気色悪いな。何だあれ。家でやれよ。

 携帯を取り出し、SNSに書き込む。さすがに他人の写真を撮るのは気が引けるが、知り合いなら確実に写真を撮り載せていただろう。
 SNSに載せるとすぐにいくつかの反応が返ってきた。そのほとんどが大学で知り合った友達たちだ。

ーこっそり写真撮って見せてくれ。
ーどうせオタクみたいなやつだろ。
ー今日はお疲れ。二次会どうだった?

 反応を無視してまたそのカップルを見ると、変わらず抱きしめ合って何やら囁き合っている。気持ち悪さに飲んだ酒が全部出て行きそうになる。

ー彼女いないからって嫉妬しちゃ駄目だよ。今日はお疲れ様。吉橋君は無事帰りました。

 あの寄りかかってきた女なのだろうか、杏花と書かれたアカウントから返信が来ていた。吉橋はあの男のことだろう。

ーお疲れ様。楽しかった。

 電車が来た。あのカップルは男だけが電車に乗り、女は乗らないようだった。バイバイと手を振る女。しばらくすると、電車に乗ったはずの男は電車を降り、また女に抱きついた。田中は思わず吹き出し、身震いする体をさすった。

 あんなカップルになんか絶対になりたくない。

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 前の席から鈴の音のような笑い声が聞こえる。声のした方に目線を送ると、中学生と見間違うほど体が小さく、顔が幼い女の子が会話をしながら笑っていた。白くて綺麗な歯が見える。体を揺らして笑うその子は今日も可愛らしい。

「何見てんの?」

 コーヒーと煙草の臭いをまとった鈴木が眠そうに隣に座った。黒いパーカーとチノパンというラフな服装だけど、それでもモデルのように見えるのは彼のスタイルが良く、顔が整っているからだろう。普通の人なら不清潔に見えるもじゃもじゃした寝ぐせも彼にかかれば個性に早変わりだ。

「いや、あの子知ってる?」 

 小さな声でその子の方を見る。鈴木は相変わらず眠そうに「あぁ、あの子ねぇ」とあくびと一緒に答えた。複雑な口臭に思わず顔を顰めてみても、そんなことはお構いなしに鈴木は吸った息を吐いた。

「知ってる知ってる。あの子同じ学年だし、同じ学部だよ。金子さん。可愛いよね。絶対性格良いと思う」
「どんな子?」
「あんな感じだよ。よく笑うし、よく話す。俺みたいな奴にも体育会系にも文系のオタクみたいな奴にも分け隔てなく話す感じ。不良みたいなのは避けてると思うけど」
「ふーん」

 金子さんは相変わらず隣にいる女の子と楽しそうにおしゃべりをしていた。何を話しているのだろう。流行りのアニメだろか。それとも、若い女の子が大好きな韓国の話しだろうか。
 鈴木の隣に知らない女が座った。どうやら鈴木の友達らしく、小綺麗な顔と服を着ている。明らかに容姿の良さだけで人生を謳歌してきたであろう人間だ。そいつは田中を見るなり「友達?イケメンだね」などと言ってきた。

「彼女さん?俺邪魔?」
「違いますよぉ。ただの友達です。こんな寝ぐせで学校来るような人と付き合いたくないですぅ~」
「なんだようるせーな。悪かったなだらしなくて」

 笑いながらそう言い合う二人は完全に頭の悪いカップル同然で見るのが痛々しい。ただでさえ、鈴木の臭いに我慢していたというのに、女の妙に強い香水の匂いもこちらまで香ってきて吐き気がした。

「邪魔だと思うから俺ちょっとあっち行ってくるよ」

 臭いから逃れるように席を立ち、足早に金子さんのもとへ向かう。後ろでは「私、嫌われてる?」とか聞こえたけれど、その通りだからわざわざ否定することも無いだろうと無視した。
 金子さんの一つ隣の席が運よく空いていたのでそこに座り、授業の準備をするふりをして耳を傾ける。鈴の音のような声はやはり耳に心地よく、その声を聞いているだけで自然と口角が上がるようだった。どうやら会話の内容は田中の知らない人の話題のようで、何のことだか一切分からなかったけれど、今はそんな事はどうでもよかった。

「あ、すみません。ちょっといいですか?」

 話しかけると、金子さんはこちらを勢いよく振り向いた。綺麗なショートカットの髪がふんわりと揺れる。シャンプーの優しい匂いが鼻をくすぐり、それだけでリラックスできるほどだった。

「え、何ですか?」

 小さな顔の中にある大きな目がこちらを見ていた。鼻も口も全てのパーツがちょうどいい大きさでちょうどいい配列に並んでいる。

「あ、ちょっと筆箱忘れちゃって。貸してもらえませんか?」

 金子さんは少し考えたのか、やや間をおいて「どうぞ。これ」とペンを貸してくれた。何やら可愛いウサギのキャラクターが散りばめられている。それも彼女らしくて可愛らしい。

「あ、っていうか、同じ学部の金子さんだよね。俺の事知ってる?」

 そう笑いかけると、金子さんは「はい。知ってます」と笑った。隣にいる友達が「イケメンだねって皆言ってますよ」と聞いてないのに答えた。できればその言葉は金子さんから聞きたかった。

「俺、皆と友達になりたくてさ。連絡先教えてるんだけど、金子さんたちにも教えていいかな?これ、俺のLINEのID。で、こっちがインスタグラム。よかったらフォローしてね」
「ありがとうございます」

 金子さんは笑顔のままその用紙を机の上に置いた。それと同時に、教授が来て、チャイムが鳴った。それはこれから始まる楽しい生活の始まりを告げる音のような気がした。

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 目の前にあるのは鍋。ぐつぐつと煮えたぎっている。白菜はどれだけ味が染みているだろう。もうかれこれ二十分近く煮ているからさぞ美味しいに違いない。きのこも豚肉も人参もきっとそうに決まっている。
 志茂田はこれから始まる争奪戦に身構えていた。なにせ、今夜のこの鍋の豚肉は高価なのだ。どこかの誰かが特別な飼育方法で育てた最高級の豚肉で近所のスーパーなんかには決して売っていない、ネットでしか手に入れることのできない代物。そんなものが鍋に入っているのだから争奪戦になること間違いなし。
 前を見た。咲と昭も同じことを思っているのか、既に臨戦態勢に入っている。箸を持ち、鍋を見つめ、今にも豚肉を取ってしまいそうな勢いだ。

「そろそろ大丈夫かな~」

 志茂田は火を止め、二人を見た。早くしろと言わんばかりの表情に半ば笑いつつ、箸を置き、手を合わせた。

「じゃ、二人も箸を置いて。今年もお疲れさまでした。いただきます」
「いただきます」

 その瞬間、三人は同時におたまを手に取った。

「へいへい。この家の主は誰なんだい」
「そんなの関係ないね。こっちは招かれてきた客だ。主なんだから遠慮してくれ」
「ちょっと。二人ともレディファーストって言葉を知らないの?勉強ばっかりしてないで少しは世間の事にも関心を向けなよ。だから友達いないんだって」
「ぐあーっ!それはやめろー」
「大丈夫か昭!俺は友達だからな!」
「じゃあ、先にいただきます」

 大学が休暇に入ったある日、三人は志茂田の自宅で鍋パーティをしていた。高校から同級生の三人は同じ大学に進み、そのため、借りているアパートも比較的近い。だから年末や何かあるたびにこうして集まることになっているのだ。集まってはくだらない話をして盛り上がっている。あの漫画が熱いだとか、あの映画が良かっただとか、そこからこんな告白をされたい、こんな人と付き合いたいなどという内容をずっと話して夜遅くなったら寝る。大体いつもこんな感じだ。

「どうよ。最近の状況は。大学二年になったけど」
「昭です。こちらは何も無し。以上」
「報告ありがとう。悲しくて涙が出そうだよ」
「私はちょっと色々あるかも」

 自身が好きだという野菜ジュースを飲みながら咲は言った。昭はそれを横で聞きながら白菜をありえない息遣いで冷まそうとしている。

「何してんだよ。肺活量測るんじゃないんだから」
「いや、ごめんごめん。熱かったから。で、咲は何かあったの?」
「うん。たいしたことじゃないんだけどさ。最近、男の人にすごく話しかけられてて面倒なんだよね」

 咲はモデルのような容姿ではない。今を時めくアイドルのような華やかさも無ければ、スタイルも無い。どちらかと言えば、身長は低いし、顔も子供っぽい。でも、一般的に見れば確実に可愛い方だし、高校生の頃から、男の間では咲に好意を寄せている人はたくさんいた。だから、大学生になってとにかく彼女が欲しいと考えている馬鹿な男に言い寄られていてもおかしくはない。
 昭もそう思っているらしくあまり真剣ではない様子で豚肉に舌鼓を打っていた。志茂田も食べてみる。値段が低いスーパーの物と違いがわからない。

「見たことあるかも。田中樹でしょ。あのなんちゃってイケメン」
「そうその人。その人が凄く話しかけてくる。正直めんどくさい」
「誰それ」
「知らないのか。駿は興味なさそうだもんな。同じ学部にいるんだよ。イケメンで背があまり高く無くていっつも誰かと話してる田中樹ってやつ」

 自分の頭の中で記憶と特徴を照らし合わせてみる。それでもやはりそんな人間に心当たりはなかった。自分の対人関係の希薄さを嘆くばかりだ。

「それでその人が話しかけて来てるの?好かれてるんじゃない?」
「まあ、そうだと思うんだけどさ。あんまり良い噂聞かなくて」
「ヤバい奴なの?その田中って人」

 昭の方を見ると、待ってましたとばかりに箸を置き、立ち上がった。どこから出したのか、小さいホワイトボードに彼の噂を書き始め「皆さん、刮目せよ」と誰のモノマネかもわからない口ぶりで語り始めた。

「まず、噂の一つ目なんだけど、彼は女癖が悪いという噂がある。これは審議は定かではない。誰が言っていたのかはわからないけれど、学部に広まっている。俺の予想では、顔と性格がチャラチャラしているからそうなのではないか。というのが噂になっただけかと思われる」
「じゃあ、それはわからないね」
「次に二つ目。顔面コンプレックス。彼は化粧や髪型など頑張っている。それは自分の顔に自信がないからだろうと皆が予測している。これは女の子からたびたび耳にする。ただ、普通に顔はかっこいいから皆は普段から『かっこいいよ』と言ってあげている」
「おー。優しいな皆」
「そして、三つ目。性格が悪いと言われている。これは噂じゃなくて確定事項。証拠もしっかりある。見たまえ」

 昭が自分のスマホをこちらに見せた。綺麗な液晶画面にはSNSのアカウントがある。名前は「アイドルもどき」アイコンの画像はどこかの男性アイドルだ。

「まさか、これが田中って人のアカウントなのか?なんで知ってるんだよ」
「駿が興味なさすぎるんだよ。結構有名だよこれ。咲も知ってるでしょ」
「うん知ってる。裏アカってやつだよ。知ってる?裏アカ。人にばれないように悪口を投稿する用のアカウントだよ」
「それくらいは知ってるよ。それで、このアカウントが田中って人のアカウントで悪口を書き込んでるってことか」
「その通り。スクロールしてみたまえ」

 言われた通り画面を下にスクロールすると、悪口がこれでもかと書き込まれていた。しかも、フルネームで書き込まれている。

「フルネーム書いたら大学の人間だってすぐにわかるし、場合によっては田中だろってなるだろ。だから裏アカなのにバレてるんだよ」
「馬鹿じゃねこいつ」
「あぁ、馬鹿だな。でも、この裏アカに気付いてる奴は皆あえて教えないで泳がせてるんだ。性格悪いだろ」
「どっちもどっちじゃねーか」
「というわけで、田中樹は悪い噂が多い。表では良い顔して友達も多そうな雰囲気を出してるけど、実際はわりと嫌われてるし、避けられてもいる」
「なるほど。咲はこの男につきまとわれてると」
「そう。どうにかならないかな」

 二人は器用に話しながら鍋を食べていたようで、気が付けばもう鍋は残り汁だけになっている。志茂田はほとんど鍋を食べられず、口の中には甘い高級肉の脂だけが残っていた。

「普通に避ければいいじゃん」
「でもさぁ、優がさぁ。なんかあの雰囲気にやられちゃってるのか、ちょっと好きっぽいんだよね。だから一緒にいると優から積極的に会いに行っちゃうんだよ」

 優か。確か、SNSにも書かれていた名前だ。可愛い女の子の横にいるどうでもいいブスとかなんとか。

「さっきの悪口のアカウントを教えてやればいいんじゃない?そうすれば恋も冷めるでしょ」
「そっか。でもさ、仮にそうなったとして、優がそのアカウントを本人に伝えたらどうする?誰が教えたの?ってなって、私ですってなったら何をされるかわからないじゃん」
「確かにな。キレられるかもしれないな」

 そう言ってみたものの、それどころでは済まない可能性が高い。SNSに陰で悪口を投稿する様な男だ。しかも、話しを聞く限りではプライドが高い。咲にしつこくつきまとう所も考えるとかなり危ない人間だとろう。こういう男は何かあった時に本人や周りに危害を加える方が遥かに可能性として考えられる。

「少しだけさ、俺と昭で一緒に学校で歩いてみない?そしたらあっちも話してこないかもしれないじゃん」
「いや…どうだろう。あの人コミュ力だけは異様に高いんだよなぁ。普通に話しかけてきそう。何なら二人と友達になろうとしてくるかも」
「うわー。だりーそれ」

 昭が明らかに怠そうな腹立つ顔で志茂田と咲を見た。面倒事には巻き込まれたくないのだろう。誰だってそうだ。でも、このままでは咲に何があるかわからない。そう考えると、早く解決しておかなければいけない気がする。そうしなければ何か悪い事が起こるだろうと、頭の中の警告音が大音量で流れ始めているのだ。

「まあ、昭はいいよ別に。三人でやることもないし。俺一人でやる」
「そうか。頑張れよ二人とも。あまり無理するなよ。事件とか起きたら嫌だからな」
「オッケー任せとけ」

 それから三人はそんな事を忘れたかのように将来のことについて語り合った。いつ結婚するとか、どんな職業に就くとか。昭は所々ふざけてたし、咲はほとんど何も考えていなかったけれど、最後には幸せになろうと三人で宣言してコンビニで買ってきた缶チューハイを飲んで寝た。

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 イライラする。いつもはお酒を飲むと上機嫌になるのに、今日はいくら飲んでも気分が良くならない。目の前に可愛くもない女がいるからか。それとも、やけにうるさく喋る男がいるからだろうか。いや、違う。そうじゃない。こいつらは関係ない。むかつくけれど、原因はこいつらではない事はわかっている。

「どうした。今日なんか機嫌悪くね?」
「いや、別に。ちょっと飲み過ぎたかも」
「マジかよ。吐くのとかマジ勘弁だからな。酔いつぶれて救急車とか呼ばれんのも勘弁。ってか知ってる?救急車って有料になるらしいよ」

 何を偉そうに。前に酔いつぶれていたのはお前だろ。しかし、そんなことは忘れたのか、男は不安そうな顔でこちらを見ていた。介抱する気は一切なく、ただただ、迷惑そうな顔だ。腹が立つ。

「お酒飲んで救急車呼ばれるとか恥ずかしいよな。そんなだと彼女なんかできねーぞ。頑張れよ」
「うるせぇ。関係ないだろ。大丈夫だよ」

 彼女。そうだ。金子だ。いくら話しかけてもなびく様子もなく、敬語で話していたあの子が、最近は不細工な男と学校内で仲良く歩いているのだ。しかも楽しそうにだ。

「違うよぉ。田中君は好きな子に彼氏ができてふてくされてるんだよぉ。そうだよね。田中君」

 いつ知り合ったのかわからない馬鹿そうな女が気持ち悪い声でそう言う。酔っているらしく、とろんとした目は潤んでいて、体中からアルコールの臭いを撒き散らしていそうだ。

「え、そうなんだ。誰?」
「咲ちゃんでしょ。あの子も人気あるからねぇ。子供っぽいけど頭良いし、誰にでもフレンドリーだし、案外ノリが良いし。顔が良いだけの田中君じゃ駄目だよぉ」
「あー。あの子か。知ってるような気がする。最近、男とよく歩いてるよな。誰だっけあれ。たしか、志茂田駿って名前だった気がする」
「どんな奴?」
「うーん。あまり話さないからな。わからない。でも、頭は良いと思う。あと、優しいって聞く。あとは知らない。外見はちょっとキモイよな」

 キモイ。確かに。なんというか、顔の造形が悪い。何かに似ているような気がする。そうだ。漫画の敵キャラだ。あの火星に出てくるゴキブリだ。
 金子はなんであんなゴキブリと一緒にいるのだろう。田中たちと一緒にいた方が絶対に楽しいに決まっている。お酒だって知ってるし、あの子が知らない遊びだってたくさん知っている。絶対に新鮮で楽しいに決まっているのに。それなのになぜ…

「あいつさ。顔、ゴキブリに似てね。あの漫画の」

 そう言って携帯でその画像を見せると、男と女は噴き出した。二人も似ていると思ったのだろう。笑いが止まらない様子で手に持っているグラスの中の酒が揺れている。

「じ…じょう…じょうじ」

 男が真似すると女はまた笑った。もうお酒も飲めないらしく、諦めてグラスはテーブルに置いている。胃の中のすべての物を吐き出そうとしているのかと思うくらい大きく口を開け、高い奇妙な声で「ひゃーははは」と笑っている。

「すみません。お客様。もう少し静かにしていただけますか。他のお客様もいますので」

 田中たちとあまり年齢が変わらないであろう若い男の店員が困ったように眉を八の字にして言った。そんなにうるさかっただろうか。他のテーブルでも笑っている人はたくさんいるし、居酒屋とはそういうものではないのか。

「え、別にうるさくしてないですよ。なあ」

 男の方を見る。目線が合っているのに何も話さない。先程まであんなに饒舌に話していたのに、まるで悪さをしている所を先生に見つかった生徒みたいな顔をしている。
 しょうがないから女を見た。女は女で寝たふりをしている。こういう時に責任を逃れるために演技をするのは卑怯だろう。これではまるで田中が一人で騒いでいたみたいじゃないか。

「とにかく、静かにしてくださいね。お客様の迷惑になりますので」
 
 わかりやすい営業スマイルで店員は去って行った。せっかく盛り上がっていた三人は水を差された形になり、何とも言えないピリついた空気が流れていた。

「なんかもういいや。帰るわ」
「え、もうまだ飲み足りないんだけど」
「知らねーよ。そこにいる狸寝入りしてる馬鹿と二人で飲んでろ。じゃあな」
 
 お金だけをテーブルに置いて席を立った。後ろからは「しょうもな」と女の声が聞こえたが無視した。イライラする。それも全部あの志茂田とかいう男と金子のせいだ。あいつらが悪い。くそ。
 思い知らせてやる。馬鹿にしたことを。人の好意を無下にしやがったことを後悔させてやる。
 冬の冷たい空気が体を冷ましていく。それでも、頭の中の熱は全く冷めない。このままでは嫌なことがあったら知らない人間でも殴りかかってしまいそうだ。
 田中はできるだけ誰も見ないで何も聞かないで駅を歩いた。それでも様々な声が聞こえてくる。それに苛立ちながらあることを思いついた。
 これで二人に制裁を加えらえる。田中は一人ほくそ笑み、電車に乗った。

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 わかりやすく志茂田の元気が無くなっている。目に光が無くなり、人と話すのが困難になり、表情も乏しくなっているらしい。それを隣で支える金子は大変そうに見ている。
 全部計画通りだ。田中は休み明けの春、志茂田の悪口をあらゆる所で吹聴した。本人にしか聞こえないように通りすがりに言ったりもした。そのおかげでどんなに気丈に振る舞っていても、段々と元気が無くなり、一カ月後くらいになると、今のような状態になっていた。
 いい気味だ。馬鹿にした罰だ。そう思っている。それなのに、気持ちは晴れない。志茂田がどれだけ元気がなくなろうが全く興味がない。それどころか、自分の大事な部分がどす黒くなって重くなっていく感覚が大きくなっていく。

「あいつ、関わらない方がいいよ。ヤバい奴だから」

 どこからかそんな声が聞こえる。反射的にその方向を見ても誰もいない。田中の事を知らない新入生が楽しそうに歩いているだけだ。そのキラキラした顔も腹立たしい。
 授業前に席に座り、周りを見る。いつもなら知り合いの誰かがやってくるのだが、新年度になってから誰も姿を見せなくなった。冬によく酒を飲んでいた女も、あの男も、鈴木もその彼女も誰も見なくなった。だからか、あれだけ楽しかった大学がつまらなく感じる。授業を受けていても、歩いていても、何をしていても何もない日々だ。

「これ、俺かよ」

 携帯を取り出し、暗くなった画面に映った自分の顔は疑いたくなるほど醜くなっていた。目は鋭く尖り、口はへの字に曲がり、頬はこけている。こんな顔だったかと疑いたくなるような顔だ。

「あいつ一人ぼっちじゃん。ヤバくね?恥ずかしくないのかな」
「自業自得だろ。性格悪いもん」

 また声をした。すぐに振り返っても誰もいない。慌てて、教室を出て、廊下を見渡してみても、やはり誰もいなかった。

 うるせぇな。何なんだよ。

「何怒ってんだよ。悪いのはお前なのに。しょうもな」

 あの女の声だ。あの女がどこかにいる。どこだ。どこだ。いた。

 階段を降り、広間に出ると、あの女がいた。今日もよく笑って楽しそうに話している。田中は無言で近づくと、自分の拳で女の顔を思いっきり殴りつけた。そして、よろめき床に座り込んだらもう一発。そして最後に蹴りを入れた。

「お前、うるせぇんだよ。くそ女」

 突然の出来事に動くこともできない周りの連中を無視して、田中はそのまま校門へと向かった。授業なんてしている場合じゃない。こんなストレスの多い環境にいたら頭がおかしくなってしまいそうだ。

「うわー。最低な人間じゃん。女に手を出したよ。よかった。あの子が被害受けなくて」

 うるせぇ。あの子にはこんなことをすることはない。普通に話して仲良くしたかったんだ。それなのに、志茂田とかいう奴が邪魔しやがった。俺は悪くない。絶対に悪くない。

「おい、ちょっと待て」

 肩を掴まれ、振り向くと背の高い男に思い切り殴られた。誰だろう。知っているような気がする。この吊り上がった目と薄い唇。吉橋だったか。そんな名前だったっけ。

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 心地良い風が桜の木を揺らし、花びらが舞っている。咲はその光景に見惚れ、昭は写真を撮っていた。
 
「桜っていいよな。松尾芭蕉が一句読みたくなる気持ちもわかる」
「天気も良いしね。ぽかぽかって言葉が良く似合う一日だね」

 朝に三人で作ったおむすびやサンドイッチが目の前にある。なんとなく誰も手に取らないから、志茂田も食べていいのかわからない。
 周りには誰もいなかった。こんなに桜が綺麗に咲いているのに、花見をしている人がいないのは不思議な事だったが、志茂田にとっては幸運なことだ。

「駿。きょろきょろしてないで写真でも撮ろうよ。三人で」
「ん、ああ、ごめんごめん。いいよ。三人ってシャッターは誰が押すの?」

 そう言うと、咲は呆れたように志茂田を見た。人差し指を立て、ちっちっちと左右に揺らす。

「カメラにはちゃんとタイマー機能とかついてるから。日本の技術を舐めちゃ駄目だよ」
「え、ごめん」
「謝らなくていいって」

 よかった。人に頼むとか絶対に嫌だ。

「よし、じゃあ撮りますか。じゃ、スタート」

 数秒後、カメラはしっかりと三人と桜を写して撮ったようで、確認した咲は「綺麗」と声を漏らした。志茂田は写真を見ることができず、視界に入れないように、サンドイッチを食べた。柔らかい卵とマヨネーズが口いっぱいに広がる。朝、つまみ食いをしながら食べたから、お腹は空いていなかったけれど、それでも、天気の良い日に外で食べるサンドイッチは美味しかった。

「これからだろ。人生は長いんだから。頑張ろう。俺らは友達だろ」
「そうだよ。忘れよう。良いものだけを見ていこう。桜は綺麗。おむすびもサンドイッチも美味しい。私は可愛い。最高じゃん」
「自分で言うなよ」

 二人が笑う。それにつられて志茂田も笑った。これで良かったんだ。咲は結果的に被害に遭わなかった。それでよかった。
 コップの中に桜が入る。こんなふうに三人の関係もいつかは散ってしまうのだろうか。いや、散ったとしてもまた綺麗に咲き誇るに違いない。三人はそういう関係だ。これから先もきっと。そう願っている。



 

 

 
 

 

 
 


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