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慟哭と改悛 第1話

 あらすじ
  橋岡は夏になり上手く眠れない日々が続いていた。ある日、同棲している遥香と買い物をしていると、ある男とすれ違った。それから、橋岡には笑い声が聞こえるようになっていった。その声は橋岡を笑い、馬鹿にする。そして徐々に橋岡は壊れていく。
 一方、冴えない日々を送っている河野は、病院に行くと、井上という女性に出会った。河野はその女性に一目惚れし、思いを募らせる。
 しかし、井上は、中学生の頃に自分を虐めていた橋岡と付き合っていることが判明する。また、橋岡がボランティアをして「優しい人」と言われていることも知り、憎しみに囚われる。そして、橋岡に復讐するために河野はある計画を企てるのだった。



本文

 声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。その声はずっと笑っている。気持ち良くない笑い声だ。人を馬鹿にしたような、頭の悪い高校生が騒いでいる時のあの笑い声にとても似ている。
 耳をすましてみると、もう一つ、声が聞こえてきた。その声も笑っている。しかし、ずっと聞こえていた嘲笑のような笑い声とは違い、感情の無い、ただ「は」を発音しているだけの笑い声に聞こえた。
 その二つの声はどんどんと大きくなっていく。その声に危機感を感じ、探して歩いた。暗闇の中をずっと。しかし、声はある程度大きくなったら、それからは大きくも小さくもならない。ずっと耳元に音源が張り付いているかのように一定の音量とリズムで聞こえてくる。そして、最後にはその声は悲鳴に変わって消えた。


 目を覚ますと、遥香がこちらを心配そうに見ていた。眉毛を八の字にして、長いポニーテールを首の後ろから垂らし、上から俺を覗き込んでいた。
「汗凄いよ。大丈夫?シャワー浴びてきて。朝ごはんもう作ったから。食べよう」
 キッチンに戻る遥香を目で追い、お揃いで買ったパジャマの上から足を触ると、ぐっしょりとした感触が手に伝わってきた。首筋にも汗が滲んでいたようで、枕カバーには黒くシミができている。
 夏になってからいつもこうだ。気持ち良くない夢を見て、起きると汗が噴き出している。冷房で部屋を冷やさなければ脱水症状になってしまうのではないかと思うほどだ。
「あ、また自殺。原因は虐めだって。本当に嫌になっちゃう」
シャワーを浴びて、リビングへ向かうと、お味噌汁の良い匂いが部屋中に充満していた。思わず「良い匂いだな」と漏らすと、遥香は険しい表情のままこちらを向き「おはよう。冷めちゃうから早く食べよう」と俺のご飯をよそってくれた。
「最近、こういうの多いよね。芸能人の自殺とか虐めとかさ。朝から訃報のニュースばかり流されてこっちも嫌な気分になっちゃうよ」
「違うニュース見ればいいじゃん。最近、朝からバラエティやってる局もあるみたいだし、そっちを見たらいいよ」
 そう言うと、遥香はお味噌汁とすすり、一息ついてから「駄目」と言った。どうやら子供の頃から見ていたニュース番組以外は受け付けないらしい。困ったものだ。
「あ、もうこんな時間。そろそろ行かなくちゃ。康介も早く支度しないと」
 テレビを見ると、左上に可愛らしいフォントで時刻が表示されていた。もう七時半を過ぎている。
「ハイ。言ってきますのチュー」
 玄関で軽くキスをして遥香は仕事へと向かった。まだ朝なのに、外からは蝉の声がけたたましく聞こえている。
 俺よりも仕事熱心だな全く。
 仕事熱心な蝉を称えながら、食器を洗い、歯を磨いてスーツに着替える。先月卸したばかりのスーツは黒く輝いているように見えて袖を通すと気持ちが良い。着るものが新品だというだけで、仕事に対してのモチベーションも上がるものだ。
 カバンを持ち、鍵を手に取る。最後にテレビのリモコンを手に取る。朝のニュースはすでに正座占いのコーナーが終わり、最後の挨拶にさしかかっていた。出演者の呑気な「いってらっしゃい」に少し苛立ちつつも、テレビを消し、玄関を思い切り開けた。


 「おっす。今日も男前だなお前は」
 流れる汗をハンカチで抑えながらホテルに出社すると、色黒のボディガードのような体格をした同僚の赤羽が目の前に現れた。
「おはよう。今日も元気そうだね」
「はっはっは。筋トレしてるからな。一緒にするか?筋トレはいいぞぉ」
「遠慮しとくよ」
 赤羽は明るくて声と体が大きい。それ以外はいたって普通なのだが、体育会系の気質だからか上司には好かれているらしい。次期支配人などと噂されているくらいだ。彼は俺よりも四つも年が上なのだが、入社したのが一緒の時期ということで、一応同期ではある。だからか、お互い敬語も使わず話せる仲だ。と言っても、赤羽が支配人になるまでだけど。
「そういえば、どうなんだよ。彼女とは」
「え、まあ、もうすぐ結婚するのには変わりない」
 そう言うと、赤羽は大袈裟に大きな体を仰け反らせ、くあぁー!とわけのわからない声をあげた。
「いいなぁ。あんな美人で優しい彼女と結婚なんてさ。美男美女同士で羨ましいよ。こっちは筋肉と結婚する勢いだってのに」
「筋トレ辞めて女の子と出会う場所に行ったらいいじゃん。今だったらマッチングアプリだってあるし、ネットだって出会いはたくさんあるぞ。頑張れよ」
「はあl。男前にはわからねぇよ。ブ男の辛さなんてよ。こちとら、筋肉馬鹿だ、プロテインお化けだ散々言われてんだぞ。この気持ちわかるか。んん?」
 赤羽が近寄ってサイドチェストのポーズを取る。確かにそんなことしてたら彼女できないだろうね。という言葉を飲み込んで適当に「頑張れよ」とだけ言っておいた。
「違うよ。橋岡さんは顔の前に性格が良いんだよ。ボランティアだってやってるんでしょ。偉いよね本当に」
 声がした方向を見ると、大きな赤羽の後ろから小さな白井さんが顔を出した。どうやら通路を通りたかったらしいのだが、赤羽の大きな体が邪魔なようだ。
「そうだよなぁ。凄いよな本当に。俺なんて筋トレで精一杯だから」
「だからその時間を他の時間に変えればいいんじゃないの」
「ダメダメ。筋トレは俺のアイデンティティ。辞めることはできない」
 そうか。それなら結婚は諦めるんだな。
 くだらない会話をしていると、新人いびりが大好きなお局副支配人がやってきた。今日も不機嫌そうに眉間に皺を作って口をへの字にしている。そろそろ始業の時間だ。俺は赤羽と一緒に一室の真ん中に立った。朝礼の時にこの位置の方が支配人や副支配人に印象が良いからだ。俺たちは始業のチャイムが鳴ると、お局副支配人の顔をまっすぐ見て、元気よく挨拶をした。これから仕事が始まる。今日もミスをしない事だけを考えていこう。
 ここ、ホテルラヴィータはこの地域では一番評判の良いビジネスホテルだ。主に、出張のビジネスマンが宿泊する。だから、こちらもしっかりとした対応を求められる。そのため、新人の頃はかなりスパルタな研修を行う。電話の取り方や話し方。お辞儀の角度や表情など細かく言われ、時折、怒鳴られる。だから泣き出してしまう女性もいるほどだ。
 その中で、俺と赤羽はかなり出来が良かったらしく、その頃から期待をされていたらしい。配属された時には様々な人から「君たちが例の…」などと言われ、それがプレッシャーに変わり、体調を崩しかけることも多々あった。それでも俺たちは頑張ってきた。赤羽は筋トレの費用を稼ぐために。俺も自分のためにだ。
 夏になると、このホテルはビアガーデンを開く。二階にある宴会場で盛大にビールを飲み、つまみを食べて楽しく話す。このビアガーデンはホテルの一大イベントだ。一般客はもちろん、地域の企業のお偉いさんなどもやってくる。そのお偉いさんを気持ち良く接待して、今後もいい関係を築くというのがこのビアガーデンの裏の目的でもある。
 それを今年から取り仕切るのが俺たちだ。仕事が評価され、やっと今年、このイベントを取り仕切ることができた。もちろん、プレッシャーは尋常じゃない。
「どうするよ。なんかいつもと違うことしたいよな」
 仕事終わり、生温い空気が肌にじっとりとまとわりつく中、赤羽と駅まで歩いた。筋肉質の赤羽は代謝がいいらしく、しきりにハンカチで汗を拭っている。
「外で出来ないのかな。夏なのに室内でビアガーデンって。どういうことなんだよってずっと思ってるんだけど」
「そうだよなぁ。どこかで会場借りられないかな。大きくパーッと盛り上がりたいよな。小粋なミュージックかけてさ。ここの名物の地鶏の焼き鳥でも焼いてさ」
「やりたいよなぁ。地酒と地鶏。最高だな。今度、提案してみよう」
「よっしゃあ。俺の仕事だな」
 赤羽が不思議なマッスルポーズをしてはっはっはと笑う。赤羽は俺よりも上司に好かれているから適任だろう。
 赤羽は強くなった。新人の頃は持ち前の明るさで何でも仕事をしっかりこなし、上司や同僚、顧客ともしっかり関係を築いていた。だからか、上司は何かと赤羽に用事を頼み、俺も何かあれば赤羽を頼った。それが一番効率が良いと思ったからだ。しかし、赤羽本人は断れなかっただけで、ストレスはどんどんと溜まっていき、ある日、突然、筋トレを始めた。「これでいつでもやれます」と笑顔で言い放った時は「何をやるんだ」とは怖くて聞けなかった。それから、赤羽は筋トレを続け、肉体的にも精神的にもかなり強くなったらしい。嫌なことは嫌だとはっきりと言い、腹が立った時は真顔で怒る。俺に対しても部下に対しても、上司に対してもだ。
「俺も筋トレ始めようかな」
「おう。やれやれ。強くなるぞ。筋肉の事以外、全部どうでもよくなるからな。良いことだらけだ。あ、でも、プロテインとか買うようになると金は無くなるぞ。彼女に嫌われるかもな」
「じゃあ、駄目だ」
「まあ、筋トレしてたら彼女なんてどうでもいいんだけどな」
 赤羽がまたしてもマッスルポーズをしてはっはっはと笑う。そんな彼を羨望の眼差しで見ていると、不意に表情が曇った。
「おい、今の見たかよ。やべーのがいたぞ。あんな顔初めて見た」
「何が?」
「ニキビだらけの真っ赤な顔した禿げがいた。何だあいつ。気持ち悪すぎるだろ。俺だったら自殺するな」
 赤羽がそう言い終わる前に、笑い声が聞こえてきた。あの夢で聞こえる笑い声と同じ声だ。
「まあいいや。どうする?この後、ジムにでも行く?」
「いや、いいや。家で遥香が待ってるし、腹減ったから帰りたい」
「そうか。じゃあ、明日な」
 赤羽は特に俺を引き止めるわけでもなく、ジムに向かって行った。これも筋トレをしているからだろうか。彼女がいなくて寂しいなんてこれっぽっちも考えていない堂々とした背中を見せて、人混みの中に消えて行った。そんな赤羽の背中を見送り、携帯を見ると、遥香からの「ご飯できてるよ」という連絡が来ていた。
 家に帰ると、ひんやりとした空気とスープの匂いが出迎えてくれた。今日はトマトスープだろうか。酸味のあるトマトの良い匂いが部屋全体に満ちている。
「今日もお菓子貰っちゃった。食べる?」
 病院の受付の仕事をしている遥香は病院で一番の美人だと評判らしい。病院でお世話になった患者さんがわざわざ手土産を遥香に渡して退院するということもしばしばあるようだ。「太っちゃうなぁ」と困ったように笑いながらマドレーヌに手を伸ばしていた。
「運動する?俺の知り合いにジム好きな人がいるからさ、良い運動方法とか聞いてこようか?」
「それってあの声の大きい人でしょ。私あの人苦手だから」
「え、なんで?良い奴だよ」
「康介にとっては良い人なんでしょ。あの人絶対に人の悪口とか言いそうじゃん。ホームレスとか見て悪気もなく『俺はあんな生活をするなら死んだ方がマシだ』とか言っちゃうタイプだと思う。顔に傷を負った人とか見ても『やべぇな』とかデリカシーの無い事言って無意識に人を傷つけてそう」
「そうかなぁ」
 そう言ってみたものの、先程、まさしく赤羽は無神経に人の悪口を言っていた所だ。それ以上のフォローは何もできない。
「そんな事より、お風呂入ってきてよ。それからご飯にしよう」
 服を脱いで体を流し、湯船に浸かる。少し熱めの温度が好きな遥香はいつも風呂温度は四十度の設定だ。同棲した頃は驚いたこの温度も今となっては当たり前になった。気持ちよくて眠ってしまいそうになる。
 遥香とは不登校の子供を支援をするボランティアに参加した時に出会った。当時から遥香はとてつもなく美人で、人の目を惹いていた。俺もその一人で、ボランティアをするために参加したのに遥香の様子をちらちらと伺ってしまったほどだ。
 遥香はまるでお母さんのように優しく柔和な笑顔で、心地良い声で子供と向き合っていた。十代の女の子に出せる雰囲気ではなく、この人はこういうことをするために生まれてきたのだろう。と感心できるくらいの立ち振る舞いで、俺は気付いたら「凄いですね。こういうボランティアはよくされるんですか?」と声をかけてしまっていた。遥香はそんな俺に対して子供たちと接するように微笑みながら「はい。しますよ」と答えた。そして、俺は恋に落ちたんだ。
 今思えは、その時から遥香は人の悪口に対しては敏感だった。俺が「普通の十代の女の子なんてこんなこと出来ませんよ。バカみたいにキャーキャー騒いでるだけじゃないですか」と言ったら、遥香は「そういうこと言わないでください」と短く俺を否定した。男が女を馬鹿にしたという嫌悪感よりも、発言自体に嫌悪感を抱いている様子だった。
 なんであんなに敏感なんだろう。
 のぼせた頭で考えてみる。もしかしたら、遥香にもそういう経験があるのかもしれない。いや、あんな美人が虐められるのだろうか。でも、女の子は美人を虐めると聞くし…あーわからない。本人に聞きたいところだけど、本当に虐められていたなら、聞くべきではないか。
「ちょっと、いつまで入ってるの?お腹すいたから出て来てよ」
「あ、ごめん」
 気が付けばもうお風呂に入ってから一時間経っていた。頭がくらくらする。
 まあ、考えても仕方ないか。
 リビングに戻ると、やはりトマトスープがテーブルに並んでいる。玄米ご飯とサラダと鮭のムニエルもある。
「健康第一。頂きます」
「頂きます。あー美味しい」
「でしょ。夏だからね。トマトが美味しい季節」
 遥香があの頃と変わらない顔で柔和に笑う。俺は今日もあの夢を見るのだろうか。できるなら、この笑顔が夢でも見られることを願うばかりだ。
「あ、明日、ボランティアだよね」
「うん。いつもの所」
「ここ最近ずっとじゃない。たまには休んで、どこかに出かけようよ。二人で買い物とか映画とか観光地とか行って遊ぼうよ」
「うん。明後日でいい?」
「やったー。じゃあ、日曜日ね。約束だよ」
 夕食を済ませ、遥香がお風呂に入り、甘い匂いを漂わせてリビングに戻ってくる。見慣れた遥香のすっぴん姿を愛おしく思いながら、俺はビールを飲んだ。酔ってる体がふわふわとして気持ちがい。遥香も自分の好きな缶チューハイを飲んで下品な笑い声が聞こえるテレビを見て一緒に笑った。それから、俺たちは一緒のベッドで日曜日の事を考えながらキスをして眠りについた。


 空は快晴。気温は酷暑。あちこちから日焼け止めの匂いと制汗剤の匂いと汗の臭いが入り乱れているショッピングモールに俺と遥香は来ていた。休日だからだろうか、子供連れの親子や若いカップル。高校生らしき女の子たちで溢れかえっている。この場に立っているだけで眩暈がしそうなほどの混雑ぶりだ。
「二人で買い物するの久しぶりだねぇ」
 遥香は朝からルンルンと音が出ているのかというくらい機嫌が良い。化粧をいつもより丁寧に仕上げ、部屋の中ではTシャツとハーフパンツというラフすぎる格好なのに、モデルのようなお洒落な服を着て香水もふりかけ、家を出た。
「何する?買いたい物とかあるの?」
「映画見ようよ。最近話題になってる海外の何て言うんだっけ。賞を受賞したっていう」
「あぁ、あれは日本の映画だよ。村上春樹の小説の映画でしょ」
「それ見ようよ」
 確か、あまり明るい感じの映画ではなかった気がするのだけれど、見たいのだろうか。それに、絶対に混んでいるだろう。心地良く見られるとは思わない。
 そんな僕の感情とは正反対に、遥香はもう映画館の方へと足を運んでいた。この機嫌を損なうようなことをするのはやめた方がいいだろう。今日一日が楽しめなくなってしまうかもしれない。
「映画と言えばやっぱりポップコーンだよね。キャラメルと塩どっちにする?」
「どっちでもいいよ。遥香の好きな方でいいんじゃない?」
「文句言わないでね」
「じゃあ、先に席に座ってるから」
 映画館内は程よく空いていた。てっきり混雑しているものとばかり思っていたけれど、昨今の映画館離れの影響はかなり大きいようだ。これなら映画に集中していることができる。
「おー。思ったより空いてるね。よかったよかった」
遥香がちっちゃな紙コップを持ってやってきた。どちらでもいいように塩とキャラメルの二つを買ったらしい。
「あ、始まる始まる」
 ブザーが鳴り、証明が消える。大きな画面からは禁止事項や決まり事などがうるさく映し出されていた。
 やばい。この暗さは眠くなる。ただでさえ、最近はうなされて上手く眠れていないんだ。普段なら絶対に眠くなんてならないのに、今日はやばい。やばい。やばい…
 気が付くと、エンドロールが流れていた。部屋は明るくなっていて、遥香は「ちょっとちょっと。何寝てるの」と笑いながら起こしてくれた。
「ごめん、最近あんまり眠れてなくて。本当にごめん」
「いいよいいよ。じゃあ、買い物しよう」
 遥香が歩いて行く。朝のルンルンが無くなってドスドスと聞こえるような気がする。本当は怒っているのではないだろうか。もしそうなら本当にごめん。
 遥香はモール内にあるファッション店を隅々まで見て回った。一回から三階まであるお洒落な服からカジュアルな服まですべて。その間にも雑貨店にも寄ったから、もう一時間以上歩きっぱなしだ。下手したら仕事よりも疲れる。遥香は疲れていないのだろうか。
「そろそろお昼だし、休憩しない?お腹すいてない?」
「あ、もうこんな時間。お昼にしよう。何食べたい?」
「遥香が決めていいよ」
「じゃあ、和食が良いかな。和食ある?」
 モール内の地図を見ると、一回に飲食店が並んでいるようだった。和食どころか、洋食も中華も一通りすべての人間の要望に応えられそうなほどの店舗だ。
 一階に降り、飲食店の並ぶ場所まで行くと、人通りが多くなってきた。皆、列を成し、順番を待っている。予想はしていたことだけれど、実際に見るととてつもなくうんざりしてしまう。
「混んでるねぇ。並ぼうか」
「私はちょっとトイレに行ってくるね」
「気を付けてね。迷子にならないでね」
 遥香がトイレに行っている間に今日のこれからのことを考える。せっかくの休みだ。ショッピングモールで寝て、買い物をしました。なんてそんな事で終わりにしたくない。何かもっと遥香を楽しませないと。そう考えて、思い出した。そう言えば、遥香は体を動かしたがっていた。そうだ。運動でも一緒にすればいいじゃないか。
 さっそく、近くに体を動かせるところはないか確認する。すると、家の近くにスポーツのできる施設があることがわかった。
 午後、ここに行ってみようかな。
 以前、遥香と一緒にフットサルをしたことがあったけれど、遥香は運動はそこそこできるみたいだった。女の子にしては走れるし、ボールをしっかりと蹴ることができていたからセンスがあるのだろう。運動部だったということは聞いていないけれど、何かやっていたのかもしれない。もし、そうなら彼女の機嫌を取り戻せるかもしれない。
「お待たせ。あ、結構進んだね」
「うん。思ったよりも早く座れそう。それでさ、午後さ、家の近くに体動かせるところあるんだけど、行ってみない?遥香運動したいって言ってたし、ここなら楽しく動かせるしさ、どう?」
「うーん。来週だったらいいけど、今日はもう歩き疲れちゃった。ごめんね。また来週」
「そうだよね。来週にしよう」
 作戦が綺麗に散った所で、店員から案内の声がかかった。そして、遥香が返事をして店に入ると同時に「あれ、やばくない?食欲なくなるんだけど」という声も聞こえてきた。
 僕がその声に思わず振り返ると、そこにはニキビとニキビ跡の痛々しい顔をした見たことのある男が歩いていた。その男は虚ろな目でどこを見るわけでもなく前を見て歩いて行った。
 なんで、なんであいつが、ここにいるんだよ…
 眩暈がする。あいつが歩いた所からは嘲笑や侮蔑が聞こえる。あぁ、やめてくれ。俺の前に現れないでくれ。悪口を言わないでくれ。
「何してるの。行こう」
 遥香が僕の手を引く。空調が効いているからか、遥香の手は少し冷たい気がした。


 女子たちが群がってくる。バカみたいな面をして猫なで声で「橋岡く~ん」と気持ち悪い呼び方で俺を呼ぶ。その度に「何?どうしたの?」と返事をしてみるけど、いつも内容は無い。わけのわからない愚痴ばかりだ。
 中学二年になってから、俺は自分がかっこいいらしいことに気が付いた。女子たちが言うには白い肌と清潔感のある顔が良いらしい。そんなの知らないけど。その上、成績も学年トップクラスでバスケ部の県選抜なんかにも選ばれたから、皆が俺を見て色めきだっていた。先生だってそうだ。新任の若い大卒くらいの先生は男女関係なく俺をあからさまに贔屓をする。この学校全体が俺の味方なんだ。
 でも、その分、常に良い人でいなくてはいけないというプレッシャーが常にあった。基本的に俺は頭も良くて運動もできて顔も良いのかもしれないけど、優しくはないんだ。だから常に気を張っている。それがとてつもなく大変だ。
「高橋く~ん。テスト良い点取れなかったぁ。勉強教えてよぉ」
 可愛くもない頭の悪そうな女の子が話しかけてくる。心の底で「教科書読んで問題解けばいいだけだろ」と思うけれど、そんな事は口に出して言えない。彼女が傷つくから。
 「ごめんね。自分の事でいっぱいいっぱいだから。先生に教えてもらって」
 笑いながらそう言うと、女の子は満足したのか笑顔でどこかに行ってしまった。どうせ、俺と話したかっただけなのだ。真剣に応える必要もない。
「よお、今日も頑張ってるな」
 友達が話しかけてきた。気を張らずに話すことができる数少ないバスケ部の友達だ。浅黒い顔には小さなニキビが無数にできている。
「うるせぇ黙れって言ってやればいいじゃん。そうしたら面倒な女の子たち皆どっかいくだろう。蜘蛛の子を散らしたようにさ」
 こいつは僕ほどではないけど、頭が良い。部活をしている時も常に考えて動いてくれるし、バカみたいに俺を褒めないからすぐに友達になった。向こうも気が合うと思っているのか、こうしてちょっかいを出してくる。
「言えるわけないだろ。俺の印象が悪くなる」
「いやいや、印象なんて気にするなよ。ありのままに生きようぜ。ほら、あいつ。あの気持ち悪い顔の奴に言ってみろよ」
 視線の先を見えると、小柄で大人しそうな男の子が座っていた。顔中にニキビができているから赤く痛々しい。それに、俯いているから虐められっ子みたいで格好悪い。
 こんな奴、同じクラスにいたか?特徴的な顔をしていたならすぐに覚えるはずなのに。
 春の頃を思い出してみる。皆一回づつ、自己紹介をしているはずだ。俺は普通に自己紹介をした。中にはおちゃらけて、好きなアイドルを告白していた人もいた。隣にいるこいつは確か小さな声でぼそぼそと話していた気がする。そこまで覚えているのに、どうしてもあの男の子の事が思い出せない。本当にクラスにいたのだろうか。
「しょうがねぇな。俺が見本見せてやるよ」
 友達がそいつの所に歩いて行く。そして、耳元で誰にもバレないように何か囁いた。男のこの反応はない。
「ほら、こうやってストレス発散すればいいんだよ。あいつは何も言ってこないから大丈夫。やってみれば?」
 手を引かれて近くまで行く。近くで見ると、その男の子は顔が赤く爛れている。夏だからか服からも汗の臭いが漂っていて、清潔感がまるでない。
「キモ。何だお前」
 耳元でそう囁く。男の子の反応はない。
「ほらな。こいつ何も言い返してこないだろ?」
 それから、俺たちは一日に何回も悪口を言った。髪を切ってくれば、似合ってねーぞ。ニキビが増えていたら、キモすぎるだろ。汗をかいていたら、クサすぎる。という具合に。友達と一緒に何度も何度も。いつしか、女子たちもそれに気づいたらしく、俺と同じように言い始めた。それから、その男の子は学校に来なくなった。それでも、誰も俺を非難しなかった。追い込んだのは俺がきっかけなのに。


 「うなされてたけど大丈夫?」
 遥香が顔を覗き込んでくる。すでに化粧を施しているからか、人工的に見える顔はいつもよりも大人びて見える。
「うん。シャワー浴びてくる」
「わかった。朝ごはんの準備しておくね」
 浴室に向かう。最悪だ。昔の夢を見た。もう思い出したくもないのに。全部あいつのせいだ。あいつが俺の前に現れたからこんなことになったのだ。
 そう考えて、シャワーを止める。違うだろ。悪いのは自分だろ。人のせいにするな。だから罪滅ぼしのためにボランティアだって精力的にしているじゃないか。
 リビングに戻ると、遥香はニュースを見ていた。また誰かが自殺したとかやっている。朝からよくこんなニュースを流すものだ。
「虐めって本当に最低。そんな人いなくなればいいのに」
 やめてくれ。そんなこと言わないでくれ。俺はもう反省して生きているんだ。虐めた側だって罪の意識に苛まれているんだ。頼むからそんなこと言わないでくれ。
 嘘つけ。忘れて生活しているくせに。反省なんかしてないくせに。
 お前の本書はいじめっ子だろ。
「誰だ」
「え、何?」
 確かに聞こえた。男の声だ。あいつの、あいつらの声だ。
「いや、何でもない。ちょっと最近本当につかれてるみたい。今日は仕事休もうかな。ごめんね」
「大丈夫?病院から薬買ってこようか?」
「いや、大丈夫。ご飯食べよう」
「うん。頂きます」
 遥香が出て行くと、すぐに会社に連絡して休みを貰うことにした。支配人は心配そうな声で無理するなよと言っていたけれど、本心では「こんな時に休みやがって」とでも思っているのだろう。声に感情は全くこもっていなかった。
『大丈夫か?最近顔色悪かったからゆっくり休めよ』
 赤羽からも連絡が届く。手早く『ごめん』と返信すると、既読のまま返信は帰ってこなかった。
 しばらくご飯をゆっくり食べて食器などを片付けた後、中学校の卒業アルバムを本棚から引っ張ってきた。淡いピンク色の表紙には桜がちりばめられている。表紙を見ただけでも懐かしさで胸がいっぱいになる。
 これを見るのは十年ぶりだ。中学を卒業して高校に進学した頃、友達何人かに中学生の思い出を語るために見せたのが最後だ。皆、楽しそうにページを捲り、俺の写真を見ると「子供っぽいなぁ」とか「可愛い」とか言ってくれた。そんなアルバム。
 どこだ。あいつは。確か、同じクラスだったはず。
 自分のクラスのページまで捲り、そいつを探す。すると、修正されているのか、ニキビ顔ではないが、目が虚ろで覇気のない先日見た男の面影が残る男の子がしっかりと写っていた。河野という名前だった。
 こいつだ。こいつに違いない。俺はこいつに酷い事をした。良い子でいなければいけないというストレスを全てこいつにぶつけたんだ。こいつが何も言い返してこないから、好き勝手悪口を言っておもちゃみたいにして揶揄った。
 でも、俺だけじゃない。その他の奴だって、皆悪いだろう。先生だって見てみぬふりをした。特に友達だ、名前は確か、田中だ。こいつが一番最初ではないか。そうだ。俺だけじゃない。俺が気にする必要は無いんだ。
 ぎゃははははは
 笑い声が聞こえる。夢で聞こえたあの嘲笑だ。そして、もう一つは、控えめな笑い声だ。何だこれは。誰が笑っている。
 ぎゃはははは。あいつマジで告白したよ。
「誰だ!」
 声に出してから気が付いた。ここは俺と遥香の住んでいる所だ。他の人間がいるわけがない。俺の聞き間違いだ。そうに決まっている。
 一応、窓を開けて外を見る。むわっとした熱気と湿気が肌にまとわりつく。蝉の大合唱が耳につんざくように聞こえる。それだけだった。誰も歩いちゃいない。当然だ。平日の午前なのだから。
「くそ。くそくそくそ」
 今度は高校のアルバムを本棚から引っ張りだす。貰ってから一度も見ていない卒業アルバムだ。怖くて勇気が出なかったけれど、もう時間も経つ。今なら大丈夫なはずだ。
 恐る恐る、ゆっくりとページを捲る。そして、俺のクラスのページになった瞬間、目を閉じて、ゆっくりと開いた。俺たちのクラスの全体写真には右上の方に一人、合成させられて顔写真が載っている。名前は佐々木晃。俺が殺してしまった人間だ。


 高校でも俺はちやほやされていた。身長も伸び、すらっとしていたためにモデルをやらないかと誘われたこともあるくらいだった。当然、女子たちは中学の時と同じような顔つきと猫なで声で話しかけてきた。俺はそれを上手くあしらいつつ、満足した学校生活を送っていた。
 順風満帆な俺に転機が訪れたのは二年生の春だった。佐々木が話しかけてきたのだ。佐々木は河野と同じく小柄で声が小さく気が弱そうに見える。ニキビこそできていないものの、典型的な虐められっ子という印象だった。おそらく陰気な自分を変えたくて、俺たちのグループに入りたいと思ったのだろう。佐々木はそれから何かと俺の傍をうろつくようになった。体育でペアになるときも声をかけてきたし、お昼休みもなんとなく一緒にお弁当を食べるようになった。
 俺は佐々木が自分の周りをうろついていることを不快に思ったことはなかった。嫌なことをされるわけでもないし、ノリが合わないと思ったことも無い。佐々木は昭和時代の女房のように、三歩後ろを黙ってついてくる人畜無害な奴だった。高校から出来た友達たちも特に不快に思っていなかったからか、会えば軽く挨拶をして、ほんの少しだけ話してそれ以降は触れない。そんな関係だった。
 しかし、そんな俺たちと佐々木の関係が変わったのが梅雨が始まる少し前だった。何のきっかけかは思い出せないけれど、佐々木が俺たちの前でモノマネをしたんだ。それを俺と友達たちはかなり面白がり、何回もおねだりした。それは本心だ。佐々木もそれが嬉しかったのか、何回もやってくれた。今思えば、その時から佐々木は苦しかったのかもしれない。でも、俺たちはそんな事に気付くことはなかった。
 ある日、俺は佐々木にこう言った。「今度、皆の前でモノマネやってみろよ。ウケるぞ。もしかしたらモテるようになるかもな」と。佐々木はそんな俺の提案に対して嫌がっているような素振りは見せなかった。やや時間をおいて小さく「うん」と言った。
 そして、先生がいない皆の気が一番緩んでいるお昼休み。俺たちは教壇に立ち「今から佐々木君のモノマネショーを始めます。どうぞ、見て言ってください」と声を上げ、佐々木にモノマネをさせた。結果は惨敗だった。俺たちが笑っていたモノマネは誰にも伝わらず、一部の男の子たちがくすくすと笑っているだけだった。女子にいたってはくすりともしていないうえに、無視さえされていた。
「ま、どんまいどんまい。こんなこともあるって」
 俺は佐々木にそう言った。こういうことをして人は人と仲良くなっていくんだ。貴らわれたわけでも無いんだから、気を落とすなよ。そう思いながら、佐々木の小さな体を叩いた。佐々木はその時、何も言わなかった。
 幸運なことに、佐々木の印象はそれから変わった。思ったよりひょうきんな奴と男たちから好意を向けられるようになったらしい。
 俺たちはそれで気を良くした。俺たちがしたことは間違っていなかったと、自分たちの行為を正当化したのだ。
「今度、佐々木に何かやらせよう」
 雨が降り、ビニール傘がメロディを奏でる帰り道、友達の誰かが言った。もう俺たちの間ではモノマネはと飽きられており、新しい何かを探していたのだ。
「あ、この前さ、テレビでやってたやつ見た?なんか、口の巧いお笑い芸人が口下手な男に指令送って恋人作れるかどうか検証するみたいな番組」
「なにそれ、それやるの?」
「やってみようぜ。佐々木ってさ、最上さんの事可愛いって言ってたじゃん。だから、俺たちが指令だして、佐々木と最上さんをくっつけてやろうよ」
「面白そうだなぁ。やってみよう:
 俺は意気揚々とその提案に乗った。
 翌日、さっそく佐々木にその旨を伝えた。佐々木はかなり考えていたけれど、俺たちがやろうぜとしつこく言うと、やはり小さな声で「うん」と返事をした。俺たちはまた上手く行くものだと思っていた。そんなわけないのに。
 数日後、俺たちは佐々木を操り、最上さんを呼び出すことに成功した。最上さんはクラスの中でも真面目で勉強ができる地味な女の子だ。こういうことに慣れていないのだろう。物陰から隠れてみている俺の目には緊張しているように見えた。
 佐々木は俺たちの言ったとおり、しっかりと告白をした。俺たちが完璧だと思った文章を一言一句間違わずに口に出した。しかし、最上さんの口から出てきた言葉は意外なものだった。
「私、佐々木君みたいな人は嫌い。いつも人に良い顔して自分の考えを主張できない弱い人。なんであの人達と一緒にいるの?揶揄われていることに気が付かないの?それでいいの?どうせこれもあの人達にやってこいって言われたんでしょう?」
 佐々木は何も言わなかった。下を向いてずっと目を左右に動かしていたように見えた。
「じゃあね。ばいばい」
 佐々木はそれから学校に来なくなった。そして、夏休みが終わった頃、自殺したと担任から聞いた。おそらく虐めに耐えかねて命を絶ったのだと。
 先生は俺たちを怪しんだ。当然だ。俺たちと佐々木は一緒にいたのだから。でも、遺書は出てこなかったし、虐めをしていたという証言は誰一人しなかった。佐々木が誰にも何もいわなかったからだろう。
 俺たちは悪くない。嫌なら嫌と言えばよかったんだ。俺たちは悪意でモノマネをさせたわけでも無し、告白をさせたわけでもない。良かれと思ってやったんだ。善意だ。俺たちは悪くない。
 そう思うことで、俺たちは平静を保ち、卒業をした。


 気が付くと、外から子供たちの声が聞こえるようになっていた。もう、下校の時間だ。外はまだ熱そうではあるが、西日が強くなっている。
 窓を開ける。子供たちの声がさらに鮮明に聞こえた。女の子と男の子だろうか。キャーキャーと楽しそうに騒ぐ声だ。時折、女の子の怒る声も聞こえる。おそらく男の子側がちょっかいでもだしたのだろう。子供らしい可愛い声はそれでもこちらまで響いていた。その声が微笑ましくて羨ましい。
 何笑ってんだよ。
 そんな声が聞こえた。窓を開けて、隣を覗き込む。しかし、そこには誰もいない。もう一度、目を凝らして左右を確認する。それでもやはり誰もいなかった。
 くそ、疲れすぎた。休まないと。
 せっかく仕事を休んだのに、全然休めていない。思い出したくもない過去を思い出し、さらに体調が悪くなった気がする。
 そんな事を考えていると、遥香から連絡が来ていた。もう帰ってくるらしい。買ってきてほしいものはないかという文章が添えられていた。
『睡眠剤とか貰ってくれた?』
『それは貰ってないかな』
『わかった。別に買ってきてほしい物はないよ。ありがとう」
『わかった。すぐ帰るからね』
 遥香は連絡をしてから、数分後に帰ってきた。会うなり「大丈夫?」と声をかけて心配そうな顔で見てくる。よほど、俺の顔色が悪いのだろうか。
「とりあえず、しっかりご飯食べてしっかり寝ようね」
 眠れないんだよ。笑い声が聞こえるんだ。昔のことを思い出してしまうんだ。こんなのどうしたらいいんだよ。そんなことを内心思いながら「うん。ありがとう」と返事をする。
「明日も仕事休む?」
「いや、行く。迷惑はかけられないから」
「無理しないでね。無理して仕事した方が迷惑だからね」
「わかってるよ。駄目だと思ったら早退するから大丈夫」
 そう言ったけれど、早退なんてできないだろう。風邪で熱があるなら大丈夫だけれど、寝不足で頭が回らないから帰りますなんて誰が許してくれるだろうか。
「それとさ、ボランティア増やそうかなって思ってるんだよね」
「え、なんで?今週、運動するって約束だったのに」
「ごめん。ボランティアしないと…気が済まなくて」
「そうなんだ。じゃあ、運動はまた今度ね」
 遥香が作ってくれたそうめんを食べて、お風呂に入って今日も寝ることにした。リビングからテレビの音が漏れている。バラエティだろうか。下品な笑い声だ。俺は耳を塞いで掛け布団を頭まで被るようにして眠りについた。それでもやはりいつものように夢を見た。
 翌日、罪悪感と疲労感でいっぱいの体を引きずりながら出社すると、赤羽が真っ先にやってきて「大丈夫かよ」と声をかけてくれた。てっきり心配なんてしていないと思っていたのに、思っていたよりも優しい奴だ。
「お前がいないとビアガーデンが成功しないからな。頼むぜほんと」
「あぁ、ごめん。頑張る」
 前言撤回。やはりこいつは仕事が第一優先らしい。俺を心配しているのではなくてビアガーデンを心配しているのだ。
「お前、本当に顔色悪いぞ。大丈夫かよ」
「あぁ、ちょっとね、眠れなくて」
「眠れない?」
 赤羽は眠れない日など無いだろうな。いつも仕事終わりにジムで筋トレしているらしいし、きっと疲れた体で気持ちよく寝ているに違いない。羨ましい限りだ。
「お前、風邪とかじゃないのか」
「風邪じゃないな。風邪の方がまだマシ」
「そうか。ビアガーデンの方に影響は無いだろうな。催する直前で相方が倒れ込んで一人でやることになったら嫌だからな」
「そうならないように頑張るよ」
「あぁ、頑張ろうな。で、この前話してた地鶏と地酒を振る舞うっていうアイデア支配人に相談してみたらなかなか好感触でさ。実現しそうなんだ。だから、お店の方々と連絡を取ることが多くなるから頼むな。まあ、俺がいれば大丈夫だけどさ。はっはっは」
「笑うんじゃねぇよ」
「あ、ごめん。体調悪いんだったな。うるさくしないようにするよ」
 違う。そうじゃない。声の大きさの問題じゃないんだ。どうしても笑い声に不快感を感じてしまうんだ。赤羽が悪いわけじゃない。悪いのは俺だ。
 何だよあの顔、だらしねぇなぁ。
 声が聞こえる。誰だ。誰かが俺を馬鹿にしやがった。眠れていなくても思えらよりかはいい顔をしているぞ。ふざけるな。
 ぎゃはははは
 誰が笑ってるんだ。何が面白い。もうすぐ始業だ。早く仕事の準備を知ろ。談笑なんてしてるんじゃないだろ。そんなだから副支配人に怒られるんだぞ。
「おいおい。大丈夫か。悩んでるんだったらジムにでも一緒に言ってやるぞ。今日行くか?はっはっは。おっと、ごめんごめん。睨まないでくれ」
「悪い。やっぱり帰る。病院に行ってくる」
「そうか。薬でも貰って来いよ」
 始業を待たず、会社を出ると、夏の日差しが容赦なく照りつけてきた。満足に眠れていないからか、くらくらと眩暈がして倒れてしまいそうになる。
 きゃははは
 そうか。この時間はまだ小学生が登校している時間だ。屈託のない笑い声がそこら中から聞こえる。いい気なものだ。子供たちはまだ社会人の理不尽さ苦労も何も知りもしない。好きな事を好きなだけやって遊んで暮らしているのだから。
 あぁ、俺もそうやって生きてきて人を傷つけてきたのか。
 何だあいつ。ニートかよ。だっさ。
 どこからかそんな声が聞こえた。周りを見てもやはり誰が言ったのかはわからなかった。


 土曜日、いつものように塾に向かうと、安田さんが待っていた。安田さんはこの塾の代表だ。まだ三十代と若いにもかかわらず、自身が虐められた経験から、この塾を開き、不登校児や学校に通えない児童のために毎日動いている。
「塾の卒業生からはがきが届いているよ。ほら、君の教え子からも来ている。読んであげて返事をしてあげなさい」
 ニコニコとした顔は厳しさが一切なく、声も柔らかくて優しい。仏と呼びたいくらいだ。顔も性格も悪くはない。しかし、こんな人でも虐められたのだから世の中不思議なものだ。
 俺はこの塾で講師のボランティアを始めて三年近く経つ。最初こそは、戸惑い、児童を困らせ、安田さんやその他スタッフに迷惑をかけていたけれど、慣れてからは児童たちと距離を詰め、得意の勉強を積極的に教えることができた。ホテルマンで培った接客術も生かすことができるこのボランティアは俺の天職なのではないかと思うほどだ。
「では、今日は研修なので、部屋に集まってください」
 このボランティアでは月に一度、研修がある。児童を教える俺たちも日々、勉強をしなくてはいけないのだ。児童が何に困っているのか、どういう状況に置かれていて学校に行けてないのかなど、現在の児童たちの状況を把握しておかなければならない。特に、ウイルスが流行る前と後では大違いだ。マスクを取りたくない子や、自粛期間を経て、学校に行きたくなくなった子など、理由は様々だけれど、明らかに不登校児は増えた。安田さんやその他スタッフは困りながらも「腕の見せ所ですよ」と笑っていた。
「あ、そうそう。橋岡さん。ちょっといいですか」
 研修が終わった後、帰り支度をしていると、安田さんが僕を呼び止めた。いつものようにニコニコしておちゃめに手招きをしている。可愛らしい女の子みたいなその仕草に何とも言えない気分になりながらも「なんですか?」と近寄ると、安田さんはやはり女の子みたいな小さな声で「実は取材の話しが来ています」と切り出した。
「取材ですか?そうですか。良かったですね」
「いえ、私たちの塾を取材するのではなく、あなたを取材するのですよ」
「え?僕ですか?なぜですか?」
「あなたはもうここで働き始めて三年近く経ちますね。凄くよく働いてくれています。私たちスタッフはあなたを尊敬しているんですよ。ボランティアという立場でここまで働いてくれるあなたに。だから、私はあらゆるところであなたの話しをしているんです。私の塾にはこんな立派な青年がいるのだと。居酒屋でも、家庭でも、同窓会でもね。あなたの話しをすると、いつも皆感心してくれるので、私はあなたと一緒に仕事ができて誇らしいのです」
「そうですか。ありがとうございます」
「そして、先日、知人と話していまして、あなたの話しになったのですが、その知り合いがテレビ関係者でしてね。ぜひ、取材をしたいと言っているんですよ。どうでしょうか。悪い話しではないと思いますが。あなたの彼女さんを連れて来てもいいですよ。あの方も一年間だけでしたが、とてもよく働いてくれた」
「ありがとうございます。ちょっと考えさせてもらってもいいですか?」
「ええ。出来れば明日中には連絡をくれると嬉しいですね。待っています。所で今日は顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「実はあまり眠れていなくて」
「そうですか。ゆっくり休んでください」
「はい。ありがとうございます」
 取材か…
 一体、何を話せばいいのだろう。ここにボランティアに来る動機などだろうか。それとも、あなたにとってボランティアとは?などと聞かれるのだろうか。
 まあ、明日考えるか。とりあえず、赤羽に連絡しておこう。
『取材?なんで?イケメンだから?』
『違う。ボランティア会社の代表の人が俺の事を話してくれて、取材が来ることになった。何の取材なのかはわからない』
『チャンスじゃねーか。ビアガーデンの宣伝しておけよ。こんなことやりますって』
『わかったよ。じゃあな』
 相変わらず、赤羽は仕事人間だ。俺のボランティアも体調も全く興味が無さそうである意味清々しい。これも筋トレのおかげなのだろうか。
 家に帰ると、遥香はテレビを見ていた。僕が帰ってきたことに気が付かなかったのか、後ろから声をかけると、びっくりして振り向いた。
「ちょっと。連絡くらいしてよ。びっくりしたじゃん」
 遥香は最近、俺を見ると驚く。理由はわからないけれど、ずっと眉を八の字にして困った顔をしている。少し前まであんなに可愛らしい笑顔で話しかけてくれていたのに。
「実はさ、取材を受けることになったんだ。ほら、以前、遥香も一緒に働いていたあのボランティアの」
「へー。すごい。頑張ってね。私は行かないけど」
「なんでだよ」
「一年しか働いてないし、取材されても困るから」
「そっか。わかった。じゃあ、俺一人で受けてくるよ」
「ねぇ。明日は?」
「明日もボランティア」
 遥香は僕を見て「そう」と小さく返事をしてまたテレビを見た。下品な笑い声が部屋の中に響く。その声に苛立ちを覚えつつ、お風呂に入る。何もしなければしないほど、嫌な事ばかり考えてしまう。
 とりあえず取材の事を考えよう。
 忘れるようにインタビューの練習を繰り返した。かっこいい自分を思い浮かべて。

第2話
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#創作大賞2023  

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