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【短編小説】夜の公園


 目が痛い。
 ゆっくりと瞼を閉じて、ベッドにうつ伏せになってみる。しかし痛みは変わらず、意識だけが研ぎ澄まされていく。外を流れる風に揺れる木々の葉擦れやキッチンにある冷蔵庫のモーター音、自分の口から出る呼吸がやけにうるさく感じた。
 目を閉じたまま、手探りでスマホを探し、薄目で時間を確認する。時刻は十二時半を過ぎた頃だった。ベッドから起き、テレビを点けると、下品な笑い声のする内容が無さそうなバラエティがやっていた。瀬戸はすぐにテレビを消して、ダウンジャケットとバッグを持って家を出た。
 春の夜は肌寒い。日中は汗ばむ陽気があるというのに、夜になると冬が戻ってきたような息が白くなるくらいの寒さだ。これが秋ならさぞかし綺麗な紅葉が見られるのだろうが、残念ながら今は春で桜が咲き誇っている。つい先日、近くの公園に咲いている桜の木の下で花見をしていた若者が騒いで通報されたという噂を聞いたばかりだ。瀬戸はそんなニュースを見て、嘲笑と羨望が綯交ぜになった。
 大学に入ってから仲良くなったのは寝不足からくる頭痛と目の痛みだけだ。もともと人見知りで自分から話しかけることができない瀬戸に都合よく話しかけ、手を取ってくれるような王子様が現れるわけがなく、ただの消極的で陰気な男として大学生活を過ごしている。そうしているうちに、眠れなくなり、夜になると、彷徨うように歩くようになった。そうしているうちに、ちょっと歩いた所で公園を見つけ、そこで過ごすようになった。最初はホームレスなどと間違われ、通報されることを恐れていたが、その気配は全く無く、もう一年近く経つ。
 広い公園にはブランコやシーソーなどはなく、日中、元気よく走り回った子供たちの喧騒や面影はすべて夜に覆われている。あるのは木の固いベンチとその近くにある街灯がぽつんと灯っているだけだ。瀬戸はこのベンチに座ってラジオを聞きながら小説を読むのが日課になっていた。
 ベンチに座り、ラジオをアプリで開くと、好きな芸人のラジオが始まったところだった。芸人にしては物静かなトーンで始まるこのラジオは瀬戸が眠れなくなってから毎週聞いているお気に入りのラジオだ。このラジオを聞きながら小説を読むと不思議と気分が良い。頭痛や目の痛みなんか忘れて気持ち良くなれる。そんな気がしていた。
 背もたれの無い木のベンチは座り心地が悪い。お尻も痛くなるし、腰も痛くなる。だから時折、ベンチに寝そべったりしながら体勢を変えて本を読んだ。

「あのー…すみません」

 小説の主人公が蟲になって四苦八苦している場面を読んでいると、不意に小さく遠慮がちな声がした。驚いて顔を上げると、見かけない同い年くらいの女性が真っ黒なダウンジャケットを着てこちらを見て綺麗な歯を覗かせて笑っていた。

「あ、すみません。驚かせてしまって。何をされてるんですか?」

 瀬戸は会話をしていいのか迷い、声を出せなかった。女性の足音がしなかったのだ。こんな静かな公園で入口からベンチまで数十秒はかかる距離なのに、一切、音がしなかった。足音も服の擦れる音も、何も。
 この女性はもしかしたら幽霊なのではないか。昔、この公園で不慮の事故で亡くなったとかで成仏できずにさまよい、瀬戸のようなふらっと立ち寄った人間に悪さをする幽霊。もし、本当に幽霊だとしたら話してはいけない。憑いてこられたら問題だ。

「あのー…どうかしました?」

 瀬戸が考えるように下を向いていると、女性は覗き込むようにして視界に入ってきた。長い髪が地面に届きそうだ。

「私、不審者じゃないですよ。大丈夫ですよ」

 それでも瀬戸が何も言わず下を向いていると、女性は「じゃあ、勝手に座って話しますね」とポケットから温かそうなミルクティーを取り出し、飲みながら話し始めた。

「一年くらい前から夜にここ来てラジオ聞きながら本読んでますよね。ずっと見てたんですよ。あ、ずっと見てたとか言うとストーカーみたいですね。もう一度言いますけど、私、不審者じゃないですからね」

 ミルクティーの甘い香りが鼻をくすぐる。空気が冷たいからか、温かい匂いに心がほぐれていく気がした。彼女の落ち着いた小さな声も今の時間帯には心地良い。まるでオルゴールのようなリラックス作用のある声色だ。

「私も眠れないんですよ。ちょっと前から不思議と眠れなくなっちゃって。将来に不安とかあるわけじゃないんですけど、なんか急に眠気がやってこなくなっちゃったんですよ。だからこうして歩いてるんです。歩いてたら疲れて眠くなるかなーって思って。でも、眠れないんですけどね。結局寝るのは四時くらいです。起きるのは八時なので、四時間くらいしか眠れないんですよ」

 女性は話し終えた後、ミルクティーを飲み干して、近くにある自販機の横のゴミ箱に捨てた。ラベルとキャップを取りはずして。
 
「それ、今読んでいる小説、ずっと気になってたんですけど、カフカの『変身』ですよね。名作ですよね。私も読みましたよ。いきなり蟲になってるって始まり方が最高ですよね。あと、そのラジオも「オードリーのオールナイトニッポン」ですよね。私も好きです。リトルトゥースです。ちなみに春日さんが好きです。髪型が変わってるからわかりづらいですけど、普通にイケメンですよね。ちょっと節約しすぎる所はあれですけど、友達になるなら春日さんの方が断然良いです」

 最近、若林がラジオで「リトルトゥースは禁止」とかなんとか言ってた気がする。この女性は本当にラジオを聞いているのだろうか。いや、それよりも、さっきの話しでこの女性が幽霊ではないということがわかった。おそらくつきまとわれる心配はない。話しても大丈夫だろう。
 瀬戸は顔を上げ、彼女を見た。すると「あ、やっと目が合いましたね」と目を細めて笑い、眠れないと言っている割には血色の良い頬を緩めていた。

「夜更けなのに元気ですね」
「まあ、体の調子は良いですね。特に疲れとかも無いです。悩みも無いです。ただ、眠れないだけなので」
「そうですか。すごいですね」
「はい。私はすごいです」

 それっきり、瀬戸は話さずに小説を読み続けた。彼女は図々しくも小説を覗き込み、時折ラジオを聞いて笑っていた。彼女が近づくたびにシャンプーの甘い匂いと先程飲んでいたミルクティーの匂いがした。瀬戸は時々、彼女の横顔を盗み見ては、ゆっくりとページをめくり、十ページを一時間かけてゆっくりと読み進めた。気が付くと、ラジオは終わっており、知らない芸人のラジオが始まっていた。

「優しいんですね」

 空が白くなってきた頃、彼女はそう言ってベンチから立ち上がった。ちらほらと年配の人が歩いている。時計を見ると、四時前になっていた。

「やっと眠気がやってきそうなので帰りますね。今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」

 こちらを見ることもなく、軽い足取りで公園を出る彼女を見送った瀬戸は本を閉じて帰る準備をした。もう手足が冷たく、感覚がない。これ以上外にいたら風邪を引いてしまう。携帯の充電も残りわずかだ。
 しれっと「またよろしくお願いします」と言った彼女の言葉を思い出す。明日もここに来たら彼女に会えるのだろうか。日曜日だからラジオはやっていないけれど、タイムフリーで好きな番組でも聞こう。確か最近有名になった女性タレントが番組をやっていた気がする。それなら下ネタも無いだろうし、彼女も喜んでくれるだろう。
 家に着き、お風呂に入って体を温める。いつもならこの時に眠気がやってくるのだけれど、今日はやってこなかった。

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 目と頭の痛みを抱えながら、今日も瀬戸は家を出た。今日はさほど寒くないらしく、手足が冷たくない。ダウンジャケットを家に置き、ふらつく足取りでいつものように公園へと向かった。時刻は二時。こんな時間にふらふらとした足取りで外を歩くなんて警察に見られたら職務質問をされるのだろうか。一般人に見られたら通報されるだろうか。春は変質者の出る季節だと聞く。警察はいつも以上に巡回に力を入れているかもしれない。そんな事を考えながら瀬戸はきょろきょろと不審者に拍車をかけながら歩いた。いつも通り誰もいない。そもそも、ふらふらしていなくても、二時に出歩くなんておかしい事だ。今まで通報されないということはこの近辺には二時過ぎに出歩く人がいないという事だろう。
 公園に着くと既に彼女は来ていた。昨日と同じようにミルクティーを横に置き、温かそうなジャケットを着て、綺麗で長い指で本をめくっている。

「こんばんは。昨日ぶりですね。ゆっくり眠れましたか?」
「眠れませんでした。なんか目が冴えちゃって。おかげで今日はぐっすり眠れそうです」
「そうですか。私はぐっすり眠れました。と言っても三時間くらいしか眠れませんでしたけど。今日は私も小説持ってきたんですよ。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』です」
「そうですか。僕は昨日の続きです」

 続きと言っても、昨日は彼女との距離が近くてほとんど内容など覚えていない。だから本当は昨日の続きではなく、一昨日の続きから読み始めるつもりだ。今日は彼女が自分で本を持ってきたから覚えていられない事はないだろう。嬉しいような悲しいような気がする。

「今日は何のラジオ聞きます?日曜日って何かやってましたっけ?」
「日曜日はラジオやってないですね。タイムフリーで聴きます。最近、有名な女性タレントがいるのでその人のラジオ聞こうかなって思ってます」
「プレミアム会員入ってるんですね。ラジオ好きなんですね。気が合いますね」
「まあ、趣味が他に無いだけですよ」

 彼女はバツが悪くなったのか「そうですか」と言って本を読み始めた。だから瀬戸も隣に座って本を読んだ。ラジオから聞こえてくる甘ったるい不思議な声が珍しくて、それに驚きながら小説を読み進めていく。
 二人のページをめくる音とラジオの音だけが響いている。それ以外には何も聞こえない。木々の葉擦れも車の音も何も人が歩いている音も何も。ここ近辺全体が休んでいる。動いているのは瀬戸と彼女だけだ。この時間だけは二人だけが生きている。二人だけの世界。
 そんな子供みたいなことを考えていると急に彼女が「この子の声、面白いですね」と言い出しだ。

「そうですね。僕はあまり好きではないですけど」
「そうですか?良いと思いますけどね。個性があって」
「そうですか」
「はい」

 再び、沈黙が訪れた。瀬戸は昨日と同じく小説の内容がまったく頭に入ってこなくなり、読む手を止めた。どうせ、この後読んでいるふりをしていても、無駄だ。明日も今日と同じところから読むことになるだろう。それならいっそのこと、読むのを諦めて彼女との会話を楽しもうではないか。会話をするのは六法全書を丸暗記するよりも気が乗らないけれど、克服するにはいい機会だ。昨日の様子を見た所、彼女は人と話すのが好きそうだし、こちらから話しかけても文句は言われないだろう。本を読んでいるけれど。

「そういえば、学生さんですか?」
「はい。学生です」
「僕もです。眠れないと大変ですよね。頭にあんまり入ってこないっていうか」
「私は入ってきますよ。多分、三時間くらい眠れたらそれで充分なんだと思います。便利な体ですよ。体調不良とかも一切ないですし」

 だからこんなに血色が良いのかと彼女の顔をまじまじと見た。小説を読みながら会話する彼女の横顔は漫画みたいに綺麗だ。メイクをしていないようだけど、くまなどは無く、伏し目だから色気すら感じる。時折見せる綺麗な形をした唇から漏れ出るため息は小説の内容の濃さから来るものなのだろうか。それもとても妖艶に見えた。
 一方の瀬戸は寝不足のせいで顔色は常に悪い。心なしか、目つきも変わったように見えるし、鼻の形や口の形も変わったように思う。ふとした瞬間に鏡を見る度に、こんな顔をしていたか?と不思議に思うほどだ。もしかしたら二十代の中盤になったら、寝不足のせいで高校生の頃とは全く違う顔になっていて、高校の友人たちは誰も気付いてくれないのではないかと恐ろしくなる時もある。まるでこの小説のように。
 
「いいですね。僕なんて寝不足になってから体の調子が悪くて大変ですよ。すぐに解決したいくらいです」

 このわけのわからない睡眠不足が解決したらもっと楽に生活できる。勉強だってもっとできるはずだ。それこそ六法全書を丸暗記するくらい。バイトだってミスをして怒られることも無くなるだろう。それに、友達だってできるかもしれない。いや、人見知りは寝不足関係ないかもしれないけれど、でも、寝不足さえなければもっと楽な生活ができるはずなんだ。

「でも、寝不足が解決しちゃったら私たち会えなくなりますね」

 あぁ、神様。どうか寝なくても生きられる体にしてください。そうすれば何もかもがうまくいくんです。お願いします。お願いします。
 公園の周りにちらほらと人影が見えるようになってきた頃、僕たちは解散した。帰宅してお風呂に入ると、昨日の分の眠気が一気にやってきた。溺れないうちにすぐに出て、痛い目をこすり、瀬戸は彼女の事を思い返しながらベッドに飛び込んだ。

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 今まで頭の片隅でひっそりと陰に隠れていた眠気が一気に押し寄せてきたのが彼女と会うようになって一週間経った頃のことだった。大学から家に帰宅して、やたらと味の濃い幕の内弁当を食べ終え、一息ついた時、意識が遠のくほどの眠気が襲ってきた。すっかり暖かくなり、夜も寒くなくなったからか、彼女みたいな話せるような人ができて安心したのか、原因はわからない。とにかく、瀬戸は手早く歯磨きを終わらせ、ふらふらした頭でしばらく考えた。
 お風呂に入れば間違いなく眠れる。しかし、そうすれば今日は彼女に会えない。あの綺麗な横顔と心地良い声を聞くことはできない。しかし、今日、ぐっすり眠って、この慢性的な寝不足の生活から抜け出せるなら、これほど嬉しい事はない。
 今日は寝てしまおうか。夜じゃなくても会えるかもしれないし、明日でも明後日でも会えるかもしれない。彼女がこの世に生きている限り、いつかどこかで絶対に会えるはずだ。そう思うと、今日は寝てしまってもいいのかもしれない。
 眠気はさらに強くなってきているように思えた。もう彼女の顔を思い出すのも精一杯だ。瀬戸は意を決したようにお風呂を沸かした。今日は寝てしまおう。せっかく眠気がやってきたんだ。こんなチャンスを逃すわけには行かない。明日また眠れないかもしれないのだ。そうしたら彼女に会える。
 お風呂が沸き、体を温め、ベッドに潜り込んだ。時刻は夜の九時を過ぎたところだ。こんなに早く寝るなんて小学生以来だろうか。
 ベッドの傍らに無造作に置かれていた「変身」を手に取る。結局、あの日から一ページも読めていない。
 これ結末はどうなるんだろう。元に戻れるのかな。
 もし、明日の朝、起きて蟲になっていたらどうしよう。そうしたら彼女はどんな顔をするのだろうか。バケモノを見るような目で叫ぶのだろうか。それとも、瀬戸だと気付いて元に戻る方法をみつけてくれるのだろうか。それとも、彼女に見つけられないまま、バケモノとして始末されてしまうのだろうか。
 そんなくだらない考えをしているうちに、意識は完全に無くなった。

 朝、起きると、今までの体の不調が嘘のように無くなっていた。頭にあった靄は消え、眼球を掴まれているような目の痛みも無くなった。食欲もわき、体がすいすいと軽く動く。時計を時刻は朝の三時だった。
 快眠とはなんて素晴らしいのだろう。たった六時間たっぷり寝ただけで、体がアップグレードしたようだ。健康というのがこんなに素晴らしいとは思ってもいなかった。
 この素晴らしさを彼女にも教えてあげたい。今日は調子が良い。彼女も寝不足なのだ。いや、全く体調不良などではないと言っていたから、あまり心配はしなくていいのだろうが、それでも、今の体調が万全の状態で一度話してみたい。本とはこんなに明るいんだと、ハキハキ話せるんだと証明したい。
 まだ、時刻は三時を過ぎたばかりだ。いつもなら彼女はあの公園にいて本を読んでいるはずだ。
 瀬戸は大急ぎで顔を洗い、歯を磨き、家を出た。今日は雨が降る予報だからか、風が湿っぽくて生温い。嫌な空気だ。
 すっかり散った桜の木を通り過ぎ、信号が赤になっている横断歩道も無視して走った。公園が見えてくると、やはり、彼女は座っていた。

「あ、遅れてすみません。今日はすごく眠くてこんな日は珍しくて、つい、夜の九時に寝てしまいました。いや、謝る事でも無いんですけど、今日はすごく調子が良いんですよ。今までの不調が嘘のように。どうですか、違うでしょう」

 そこまで一気に話すと、彼女は笑った。

「そうですか。良かったですね。じゃあ、もうお別れです。これあげます。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』です。ちょうど読み終わったのでどうぞ」
「え、なんでですか。朝でも会えないですか?普通に友達として」
「会えないですね。残念ながら」
「なんでですか?僕のこと嫌いなんですか?」
「嫌いじゃないですけど、会えないんですよ。どうしても」
「じゃあ、また夜に来たら会えますか?」
「夜なら会えますよ。私はずっとここにいます。もし、あなたが引っ越して遠くに行ったとしても、眠れなくなって寂しくなったらいつでも会えると思いますよ。それでは」

 彼女は小説を手に置き、公園を出て行った。何もできず、茫然としたまま家に帰ってきた瀬戸の頭には、彼女が前を通り過ぎた時にふんわりと香ったシャンプーの匂いと綺麗な横顔だけがこびりついていた。
 眠れなくなったらまた会えるのだろうか。そんな事を考えながら、瀬戸は「変身」を読み進めた。

 


 

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