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【ショートショート】ここにいる

 会社を出てると、冬の鋭い陽射しが雪に反射し目を眩ませた。近頃降った雪はまだ溶けず残り、所々を白く染め、なんでもない道を足元の不安定な場所へと変えている。陽が出ている時間帯に溶けた雪は夜になると固まり、氷のように固くなる。そうして固くなった雪は溶けるのに時間がかかるからまだしばらくはこうした不安定な足元は続きそうだった。
 白井透は雪を避けながら会社の近くの蕎麦屋へ向かった。その蕎麦屋は最近開店したらしく、提供スピードの速さ、良心的な値段、そして味も良いというしがない会社員には願っても無い飲食店という噂で人気のお店だった。平日の昼にはスーツを着たおじさんたちが多く訪れ、とても混雑しているらしい。平日の昼なら。
 趣のある暖簾をくぐり、引き戸を開ける。当然、「いらっしゃいませ」の声はない。スーツを着た会社員らしきおじさんもぽつぽつと数えるほどいるだけだ。
 白井は席に座り、自分で水を用意し、メニューを見た。ここは鴨蕎麦や南蛮蕎麦、とろろ蕎麦などメニューが豊富だ。カレーや親子丼といったメニューもある。その中でも看板商品なのか地元の名産であるねぎを使った蕎麦は大きなイラストが載せられていた。

 千円か…

 高い。白井のような会社員にとっては全く良心的ではない値段だ。千円なら百円以下の納豆を十パックほど買えるではないか。
 メニューを閉じ、財布を開ける。中には百円玉が一枚と五百円玉が一枚、あとは一円玉が何枚か散らばっているだけだ。そもそも、一番安い掛け蕎麦以外食べられない。白井は溜息をついて、店員を呼んだ。

「すみませーん。注文お願いしまーす」

 やはり店員は誰も反応しない。店員はどこにいるのか姿が全く見えない。

「お会計お願いします」

 先程からいた中年男性が食べ終わったのか席を立った。すると、おばさんがどこからか現れ、レジに立った。お会計を済ませると、おじさんは満足そうに店を出て行った。

「あ、すみません」

 レジにいるおばさんに向かってもう一度声をかける。しかし、それでも反応はない。

 まあ、そうか。

 白井は諦め、メニューを戻し、水だけを飲んで席を立った。このコップは知らない間に置かれてたコップになるのだろうか。それとも、片付け忘れたと店員が慌てるのだろうか。どちらにせよ、このなんの変哲もないコップの方が白井よりも気にかけてもらえると考えると、なんだか面白さすら感じてくる。

「おい、そこの。ちょっと待て」

 店を出ようと引き戸に手をかけたその時、後ろで呼ぶ声がした。食い逃げとでも思われただろうか。何も食べていないのに、水を飲んだからお金を払っていけなどと言われるのか。そうだとしたら、こちらにも言い分がある。呼んでも来なかったではないかと言い返してやろう。
 白井は振り返った。しかし、そこに店員らしき人はおらず、相変わらず閑散とした寂しい店内が見えるばかりだ。

「こっちだよこっち」

 声のする方を見ると、店の一番端の席にサラリーマン風の身なりを整えた四十代くらいの男がこちらを見て笑っていた。作り笑いのお手本のような顔でそれがかえって怪しさを生み出している。
 こんな経験は初めてだった。ほとんどの人間は白井に話しかけてくる事なんかない。その上、白井が話しかけても見えていないかのように無視するのに、その男はこちらを見て笑って話しかけてきた。

「こっち来てよ。話そうよ」
「なんで見えてるんですか?」

 引き戸の前から動かずそう言うと、男は声をあげて笑った。ちらりと見える歯は黄色く、歯茎は黒い。

「人間なんだから見えるでしょそりゃ。こっち来て話そうよ。蕎麦あげるから」

 すると男は無断で厨房へと向かい、誰かが頼んだであろう出来上がったとろろ蕎麦を勝手に持ってきた。それを当たり前のように自分のテーブルに置き「ほら、食べていいよ」と笑った。

「何してるんですか。良いわけないでしょ」
「大丈夫だよこいつら気が付かないから。今のでわかったでしょ。俺もお前と同じだよ」
「は?」
「だから、同じだよ。人に気付かれない。無視される。そういう人間。存在感が究極に低いっていうのかな。そんな感じ。お前もそうでしょ」

 男はもう一度笑った。

「俺らのこの特殊能力、何かに使えると思わない?」

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 男は名前を水川と言った。どうやら白井と同じらしく、誰にも認識されないらしい。小学校の頃から登校しても欠席扱いされ、家に連絡が行き、親が登校しているはずだと伝えて先生がよくよく目を凝らして教室内を見回すと初めて認識できたらしい。そんな彼は中学校でも高校でも存在感が薄く、誰にも相手にされない。友達もできないし、恋人もできない。授業の途中で席を立ち、帰っても誰も何も言わなかった超一流の透明人間男。ということだ。

「君も同じだろ?」

 白井は赤べこのごとく首を縦に振った。白井自身も同じような経験を当たり前のようにしている。小学校の頃に皆誕生日を祝ってもらえていたのに、自分だけ祝われなかったし、中学校の修学旅行でまだバスに乗っていないのにバスが出発してしまったこともあった。高校生の頃なんて三年間同じクラスだった人間が誰一人覚えてくれていなかったため、卒業アルバムで知らない人間が写っていると騒ぎになったほどだ。
 水川はそんな白井のエピソードを聞いて声をあげて笑っていた。どうやら同じ境遇の人間と話すのは初めてらしい。白井自身も初めてだから、話しが弾んでこんな楽しい時間は初めてだった。

「それでさ。俺たちにしかできない事ってあると思うんだよね」

 水川は急に神妙な面持ちになって白井を見た。どうやらここからの話しをするために白井を呼び止めたらしい。白井はとろろ蕎麦を食べる手を止めて、水を飲んだ。

「例えば何ですか?」
「白井君はさ、今日この時間になんてここにいるの?まだお昼前だけど」
「まあ、帰ってもバレないだろうしなって思って帰ってきました」
「そうだろ。実は俺もなんだよ。俺も会社抜け出してきた。どうせ誰も気付かないしさ。だからさ、俺らって侵入とかできると思うんだよね」
「侵入?」
「そう。例えば、こっそり大学の授業を受けてみたりとか、こっそり温泉に行ったりとか、こっそりライブに行ったりとかさ」
「あぁ、できそうですね。でも犯罪ですよそれ」
「気付かれなければいいじゃん。大丈夫だよ俺達なら。やってみようよ」

 それでも簡単に頷くことができない。水川の言ってることはすべて犯罪でバレたら捕まることが間違いない。仮に捕まらず、潜入できたとしても良心が痛んで何一つ集中できないだろう。

「俺らはさ、ずっと嫌な思いしてきたわけじゃん。小学校からさ、友達もできないし、恋人もできないし、先生には無視されるし、大学に行っても社会人になってもずっとそうじゃん。その間にも他の奴らは友達作って恋人作って結婚して子供もできてるんだよ。俺たちにはそういうのができないじゃん。だからこんなことくらいしても許してもらえると思わない?」
「いや、でももしバレたりでもしたら逮捕されますよ」
「バレないって。さっきも見てたじゃん。蕎麦を持ってきても何も言われないでしょ。無銭飲食したって何も言われないよ。やってみようか」

 水川は蕎麦を食べ終えると、まっすぐにドアへと向かった。そして何も言わずに店を出て、手招きをして白井を呼ぶ。

「ほら。来いよ。このまま帰ろう」

 白井は一応お金を置いて店を出た。それでもとろろ蕎麦の値段には届かない。これで犯罪が確定したわけだ。

「大丈夫だよ。何も言われないから。あの店、精算するときにお金が会わなくて困るだろうなぁ。どうするんだろうね。ははは」
「笑い事じゃないでしょ。一応、百円置いてきましたけど。全く足りないですよ」
「何を痕跡を残してんだよ。馬鹿だな」

 水川は慣れているようだった。おそらくずっと前からこんなようなことをしているのだろう。顔にも行動にも罪悪感が感じられずむしろ楽しんでいるようだ。
 この男と一緒にいていいのだろうか。今はどこかに侵入してみるなんていう軽いものだけれど、この先、もっと悪い事をしようなんて提案してくるのではないだろうか。
 白井はそう考えて自嘲気味に笑った。どこかに侵入してみることが軽いことだと考えている時点で駄目ではないか。何を一緒になって歩いているんだ。断らなければ。

「あ、すみません。やっぱり僕は帰ります。こういうことは興味ないんで。っていうか、どこに行くつもりなんですか?」
「は?今さら何言ってんの?もう無銭飲食してんじゃん。一回やれば二回も三回も同じだよ。まだ躊躇ってるなら、慣れるしかない」
「いや、でも犯罪ですし、今からでも戻ってお金払えばいいんじゃないんですか?」
「何言ってんだよ。どうせ誰も気が付かないって。今お金を払いに行ったって、誰?いつ来たの?何食べたの?で終わりだよ。それにお前は注文すら聞いてもらえてないだろ?何もしてないのと同じなのに、お金払いますなんて言ったら『なんだこいつ』って思われるだけだろ」
「まあそうですけど。でも、僕はこれ以上何もする気が無いんで。帰りますね」
「ダメダメ。せっかく誰にも気付かれないっていう特徴がある者同士が出会たんだから楽しまないと。バレたって謝ればいいだけだよ。大事になるわけない。捕まるとか思ってんの?大袈裟だなそれは」

 確かに考えてみれば、無銭飲食も施設に無断で入るのも、見つかったらかなり怒られるだろうが、逮捕されて懲役がつくことになるとは思わない。あっても書類送検になるくらいだろう。水川もおそらくそう思っているからここまで大胆に行動を起こせるのかもしれない。もしかして、すでにそういう経験があるのだろうか。

「ちなみに、次行くのは大学だから」
「大学?それって食堂とかなら誰でも入れるんじゃないんですか?」
「そんなつまらない事するわけないじゃん」

 水川は笑って歩いた。当然のように電車も無賃で乗り、すぐ近くの駅まで行くと、当たり前のように改札を出て駅を出た。
 心なしか、女の子が多くなったような気がする。白井はまさかと思って携帯を調べるとここの近くにはやはり女子大学が一校あった。

「わくわくするだろ。良い匂いがするんだろうなぁ。女子高と迷ったんだけどさ、女子高生ってなんか凶暴そうじゃん。言葉遣いも悪そうだし、素行も悪そうだし、それなら大人な女子大生の方がいいかなって思ったんだよ。最高だろ」

 何が最高だよ変態。しかも、女子高生は凶暴そうだから嫌だって、犯罪じみたことはするくせに小心者じゃないか。

「しかも、この大学はお嬢様が通うことで有名なんだ。ほら着いた」

 目の前には大学名が書かれた大きな柱が二本立っている。その間を吸い込まれるようにして女の子たちが歩いていく。

「ほら。行こうよ。どうせ誰も気付かないから大丈夫だよ」

 水川は当たり前のように女の子に混じって歩いていく。白井はその後ろを何も言わずに着いて行った。

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 水川は苛立っていた。この一週間、女子大学に潜入したり、チケットを持たずにライブやスポーツ観戦をした。温泉にも入ったし、映画も見た。でも、それはただお金を使わなかったというだけで、本質的な所は何も変わっていない。相変わらず誰にも見向きはされないし、話しかけられもしない。

「次何すっか」

 水川は所かまわず煙草を吸い、ポイ捨てを繰り返していた。一緒にいると煙草の臭いが移りそうで、「やめてくれ」と言ったけれど、当然、なんで?と笑われてあしらわれた。
 水川は徐々にその凶暴性を隠さなくなってきた。言葉遣いも悪くなり、何か口答えしようものなら襟を掴むくらいの勢いですごんでくる。

「あ、家に侵入してみねぇ?若い女の家に入ってみたいんだよな」
「は?何言ってるんですか?」
「若い女の家ってどうなってるかわかんないじゃん。入ってみてーな」
「いや、それはもう完全に犯罪じゃないですか。何言ってるんですか?」
「こっちのセリフだよバカ。もう犯罪してんだよ最初から。無銭飲食してんの忘れてんのかお前。前も言っただろ。一回やれば二回も三回も同じなんだよ。それにバレないから。わかってんだろ。もう何度もやってんだからさ」
「いや、でもさすがにバレるでしょ」
「バレねぇって。大丈夫だから。誰も俺らの事なんか気付かないんだから」

 水川は煙草を吸い終わったのか、植え込みに捨てた。眉間に皺を寄せて気分悪そうにどこに行くわけでもなく歩いている。
 白井も一緒にいるようになって機嫌が悪くなることが増えた。以前まではどんなに気付かれなかったとしても、それでも会社の同僚は良い人達だったし、ご飯は美味しいし、テレビや小説は楽しくて、気付かれないけれど、楽しい人生を送ってきた。でも、今は会社も辞め、ご飯も美味しく感じない。テレビも小説も楽しくない。それは水川と関わるようになってからだった。

「あ、あの女いいんじゃね?尾行してみよう」

 水川は大学生くらいの背の低い大人しそうな女の子に目をつけたらしかった。その子は駅に向かって歩いているようで、まさしく今帰るといったような雰囲気だ。
 できるなら実家暮らしであってくれ。それかバイトか友達との待ち合わせ場所に向かっていてほしい。そうすれば、水川も諦めるはずだ。一度諦めたらもうこんなふざけたことをしようなんて提案しなくなるかもしれない。水川の気まぐれな犯罪が無くなるかもしれないんだ。
 しかし、女の子はどんどんと人通りの少ない道に入って行った。そして、アパートらしき物件に入っていく。

「おい、走るぞ。オートロックだと入れねぇ。あの女が入るときに一緒に入るぞ」

 二人は走り、女の子がドアを開けたのと一緒に滑り込み、エントランスに侵入した。そして、部屋の前でも同じく、女の子が開けたのと同時に部屋に入った。

「おぉー。これが女の子の家か。なんか甘い香りがするのな。それに家具が全体的に淡い色だ。そして何より部屋が綺麗。想像していた通の女の子の部屋だな。感心感心」

 部屋を見て水川がそう言った。その間も女の子は何も気付きそうにない。

「お、着替えるぞ。鑑賞するか。女の子の着替え」

 下着になった女の子が部屋着へと着替える。白井は思わず目を逸らした。

「あぁ、駄目だ我慢できねぇ」

 水川は呟くと女の子に襲い掛かった。女の子は触れられて初めて認識したのか、目を見開き、声も出せない状態だ。

「お嬢ちゃん。ちょっと静かにしててね」

 気色悪い笑みを浮かべた水川はもう自分が存在感が薄いだけの人間だということも忘れ、感情の赴くままに女の子を触り始めた。

「おいおいおいおい。やめろよ」

 白井は水川に掴みかかり、女の子から引き剥がすと、数回頭を床にたたきつけ、最後に首を絞めた。水川の体は少し痙攣した後、動かなくなり、精巧な人形のように温かみを失っていった。

「ごめんなさい。自首してきます」

 女の子に向かってそう言ったけれど、すでに何も認識していなかったのか、こちらを向くことはなかった。

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 深夜一時、近くの山まで遺体を持って行った。冬の寒さは肌に刺さり、手袋や靴下を何枚も身に付けても寒く感じる。
 結局、警察に行っても何も変わらなかった。警察は白井も遺体にも気が付かず、何時間いても駄目だった。
 水川の素性も調べてみた。しかし、それも無駄だった。小学校も中学校も高校も、水川の存在していた形跡がなかった。社会人になってからの勤めていた会社にも連絡をしてみたけれど「誰それ?」と返されただけだった。

「あぁ、水川さん。寂しかったんですね」

 水川の体を穴に入れ、土をかぶせる。人形のようになってしまった水川の体は何も拒むことなく口や鼻、目にも砂が入っていく。
 水川があんな人間ではなかったら、仲良くできていたのだろうか。そんな事を考えてももう遅いけれど、どうしても虚しさややるせなさが募っていく。

「この先も誰にも気付いてもらえないのかな」

 埋め終えた白井の体には罪悪感と疲労感がたっぷりと残っていた。気が付くと、朝日が昇り、木々や雪を照らし始めている。白井は手に持っているスコップを見ても何をやっていたのかわからず、茫然と立ち尽くし、しばらくしてから何も考えずに山を下りた。


 

 

 

 

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