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頑なに拒んだ晴れ着18-2023/1/07

 お正月に晴れ着姿を見ることは少なくなった。成人式では晴れ着を着ているかな。ふと、自分の晴れ着?着物?和装?との接点を想う。こんな
思いがけない写真が出てきたからだ。

 この写真、平野家家族4人で写っているレアな写真だ。家族4人の写真はこれ以外にはないかもしれないくらい、レアだ。父が写っているのだから、父が撮ったのではない。いったい誰が撮ってくれたのだろう。私は、小学校に入るかそこらのころだ。お正月、父方の祖父母に一家であいさつに来た時、祖父母宅の前。昭和な雰囲気が漂っている。
 このときは、着物を着たんだなーーとしみじみする。あまりなつかしさはないが、、(苦笑)。

 私は7つの七五三の時、、、親は晴れ着を着てほしかったらしいが、頑なに拒んだ。なんで拒んだのかわからないが、拒んだことはよく覚えている。「ぜったい着ない」くらいのことを言った。母が、「うちの子は着物を着ないというからお金がかからずにすむのよ」と知り合いのおとなに話していたっけ。そうか、、洋服は安いんだとそのとき知った。今思えば、母は着てほしかったはずなのだが、お金がかからず喜んでいると思っていた(笑)。

 次の晴れ着がらみは、まさに成人式。4つ上の姉の振袖があった。が、七五三同様、私は晴れ着に関心なく、成人式も行くつもりはなかった。住まいの近くの学校に行っていなかったから友人に会えるわけでもなく、大学2年生だったから、本当のおとなになるのは就職するときだと思っていた。だが、忘れもしない。このときは、母に頭を下げられた。姉の振袖があるのだからお願いだから着てほしい、、、と。母に頭を下げさせてしまったのはこの時だけのはず(たぶん)。さすがに拒めず、着て写真だけ撮った。成人式には行っていない。だがプロに撮ってもらった写真がどうしても気に入らず、母と死別後実家を出たどこかのタイミングで捨ててしまった(あーごめんなさい)。そうそう、大学の卒業式は多くの女子は袴姿だったが、この時も和装に全く関心なしで、スーツだったかピンクハウスだったか(笑)。

 なんでこんなにも着物をきたくなかったのか、自分でもわからない。ただ思うのは、自分が着るものに対して、好みがはっきりしていたことだ。和装がキライだったのではなく、そのときどきの着たいものがはっきりしていたのだ。小学校低学年の時に、シャツにネクタイをしてブレザーを着るスタイルをしたくて、ネクタイをねだって買ってもらった。男の子がするような首にかける輪がついているタイプ。小学校高学年になってからは、ジージャンがほしくてほしくて、上野のアメ横に行って買ってもらった。何を着たいか、その好みは今もはっきりしていて、おかげで買い物がすごく速い(笑)。

 こんなに着物を好まなかったのに、家族4人全員のレア写真には、晴れ着ではないが着物で写っている。母も姉も着物姿だ。やっと着てくれたと母は思ったかもしれない。貴重なのだ、、、私の着物姿(笑)。こんな時もあったね、と語り合える家族が誰もいないのが切ないが。

 母は日常で着物を着ることがなかった割には、嫁入りに持ってきた桐の箪笥にけっこう着物が残っていた。その何枚かを、ドレスやワンピース、スカートに直した。子ども時代ほど着物を着たくないとは思わなくなった。旅先の大正時代の芝居小屋で嬉々として着たこともある。だが母の着物はサイズ的にそのままでは着られず、洋服にした。気に入った柄がいくつもあり、洋服に変身した母の着物を大切にしている。

 七五三では頑なに着物を拒んだ私は、着るものへのこだわり、自分なりのオシャレ感を持ち続けてきたように思う。お高いものは昔も今ももてないが、自分の身の丈の中で、自分らしい装いの追求は、自分らしさの表現と思ってきた。母の意向には沿えなかった七五三だったが、自分の表現をあのときすでに主張したと思えば、大したもんだ(笑)。それは今、クラウン衣装のこだわりにつながっている。いや、ふだんの装い以上にクラウン衣装を考えるとワクワクが止まらない。まちを歩いていても、そんな目線ばかりになる。昨夏クラウンの師匠の師匠パッチが言っていた。どこに寂しい気持ちの人がいるかわからない、だからいつもこういう格好だよと。そう、パッチはいつだって明るい派手派手シャツにたっぷりおズボン姿だ。私もクローゼットのモノトーン系は出番が少なくなった。パッチみたいにありたいからね〜カラフル衣装で普段も過ごす、、めざしてますよ❤
(表紙の写真は、和装だっていけるぜクラウンは!!の夏祭りの姿。)

追加
クラウンの師匠の師匠パッチ・アダムス氏はいつだって派手派手衣装。2022年6月24日クラウンツアー中。休憩したカフェでのパッチ。


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