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地方創生を反面教師にする組織開発

採用困難な時代

デフレ経済からインフレ経済への移行は、指標に基づけば経済の発展を意味します。だから、様々な業種・業態で、人手を求める声が上がるのでしょう。しかし人口減少時代にあっては、なかなか不足する人手を賄うことができません。そこで、最低賃金を引き上げるばかりでなく、地方あるいは業種・業態によっては、それ以上の賃金を提示していきます。ところが、それでも人は集まりません。
例えば、若い女性が地方から都会へ出るのは、必ずしも地元に仕事がないから、地元の仕事(会社)に不満があるからではありません。女性として生きていく上で、その地方の文化的体質に我慢がならないからという見方もできます。だからと言って、地方を都市化することが、地方創生に繋がるようには思えません。なぜなら、過去の伝統と現在の革新の間の得難い均衡を、領域に応じて異なる基準を使い分けることで両立させる知恵こそが、地方の存在意義になると考えるからです。

何に報いるのか

そうであるなら組織は、労働に対して、どのように報いるべきなのでしょうか。そもそも報いるとは、ふさわしいお返しをするという意味です。しかし同時に、仕返しをするという意味もあります。「働いてくれて、ありがとう」なのか、「雇ってやったんだから」なのか…。この違いは大きいように思われます。
あるいは、「部下は育成されたいとは思っておらず、信頼されたいと思っている」と指摘した経営者がいます。これは、仕事は“丸投げ”するのではなく、任せて見守る文化が必要だということでしょう。
つまり、信頼こそが報いることに繋がっているということだと思います。おそらく地方創生施策には、信頼の捉え方のギャップが潜んでいるのではないでしょうか。翻って採用難の企業においては、どうでしょうか…。

自律型社員を育成するとは

経済指標の結果がどうであろうと、組織メンバーは、常に時代の閉塞感を感じてきているように思われます。すなわち、自分が何者で、どのように生きていけば良いかがわからないという感覚が、広く共有され続けているように見受けられます。
例えるなら、カボチャは「俺が、俺が」と周りを潰しながら育っていきます。一方、キュウリは、一本の蔓さえ支えてあげれば、自らの意志でツルに巻き付き、そのツルに従って育ちます。他方、トマトは、棚を作って蔓を支えてあげ、さらに屋根をつけて守ってあげないと育ちません。トマトはマジョリティを形成する従順な社員(他律的社員)であり、カボチャは跳ねっ返り、そしてキュウリは、自律型社員というところでしょうか。
この例えを踏まえると、何かを成すという想いが強ければ強いほど、人は空回りをするのでしょう。なぜなら、カボチャの土壌がそこにないからです。そこで、むしろ何かを成すという想いを捨て去ったとき、何かが成されるのではないでしょうか。つまり、その土壌にあった育ち方をする、あるいは自分に合った土壌に耕すということ(何かを成すこと)に繋がるのだと思われます。
ここで、多くの組織は、カボチャである自身に気づき、自らがキュウリになるように仕向けているように思えます。しかし重要なことは、気づいた結果、自らがカボチャになること、トマトになることを望む人も出てくるということです。実際、成功者の立身出世物語をみると、概ねカボチャな人でしょう。また、それぞれが自分勝手なことをされては、組織は回っていかず、実業務では、多数のトマトを必要とするでしょう。
ここから、組織における育成・指導には、何かの理想的な社員にメンバーを染め上げることではなく、それぞれを活かす、それぞれのやり方が必要だということのように思えます。
余談ですが、これを面倒くさいと言ってしまったら、メンバーシップ型人事は成り立ちません。昨今のジョブ型礼賛やタレントマネジメントシステムの導入ブームは、このようなメンバーシップ型人事が面倒だからと言っているようにも見えます。

訪う(おとなう)機会

ところで、訪うとは、単に出向くだけではなく、探し求めるというニュアンスを含む言葉です。
ここで、何か明確な目的を持って組織に参加する姿勢を否定するものではありませんが、それだけが組織参加の要件とすることには抵抗を覚えます。訪うために組織メンバーとなることもまた、認められるべきではないでしょうか。
なぜなら、組織目的と、組織の可能性の間の得難い均衡が、革新へと導くのだと考えるからです。しかし、それを実現するためには、過去の組織目的に拘らない新しい基準で評価していく知恵が必要だとも思われます。
夏休みも終わりましたが、バケーションの語源がvacate(空にする)であることを踏まえれば、人は、常にリセットしながらでないと生きていけないように思われます。そして、組織がこのリセットをした瞬間に、人はその組織に可能性を感じるのではないでしょうか。つまりは、このリセットをする知恵こそ、組織に必要なものだと考えます。

イマジネーションを働かせて考えられる施策へ

疑うことと批判することは違います。確かに、何に対しても鵜呑みにせず、まずは疑ってみることは必要でしょう。しかし、無知であることを棚にあげて批判する行為は、愚の骨頂と言わざるを得ません。
疑うとは、本当かどうか、自ら検証することです。そして批判は、論理的矛盾を突くことです。ただ感情に任せて反対と叫ぶと、真理を見失う恐れさえあります。「難しいことを言われてもわからない」と逃げるのではなく、「他の考え方はないのか?」と問うべきでしょう。そして、もし「ない」と回答が返ってきたら、その考え方には疑いを深め、別の意見を探すべきなのだと思います。
このような疑いと批判を根拠に、選択はなされていくべきだと考えます。しかし、その選択がベストな選択であるかどうかの判断は、所詮、結果論に過ぎないでしょう。換言すれば、良い選択や悪い選択などはなく、ただ、後悔しない選択があるのみだとも言えると思います。
後悔しない選択とは、直感に従った選択であることのように思われます。直感に従うとは、自身の感情に従うということです。ここで、自身の感情に従うためには、何を求めての選択であるかが、明らかになっていなければなりません。
例えば、理性的に考えれば、給料があがることは、生活をラクにすることです。にもかかわらず、解放感を得ていないのが現実ではないでしょうか。理性の対語は本能とされますが、この場合に考えるべきは、理性に付随する感情であるようにも思われます。
論理で思考するのではなく、イマジネーション(想像力)を働かせて考えることが、結局は自律性に繋がり、後悔のない選択を導くのでしょう。そして、そのような選択を可能とする個人の成長は、もちろん、大切ではありますが、環境を整えていくこともまた、同じくらいに重要だと思われます。さらに蛇足を覚悟の上で申し添えるなら、施策とは、環境整備を指すことのように思われます。

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