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“タイパ”を無視して効率の良い会議を実現する組織開発

「総論賛成、各論反対」という場面は、よく目にするところではないでしょうか。そして、各論においてディベートが行われ、誰かが勝つことになるのでしょう。しかし、ディベートで得られた結果に満足する人は少数です。負けて納得することは稀で、大抵は悔しがるものだからです。そこで、このような場合の対処方法としては、一度、総論に戻ること、すなわち、総論の根元にまで議論を遡ることが求められます。その上で、改めて各論に向けた議論を展開し、新たな方向性を見つけることが必要でしょう。

この時、対立が起こった前回と同じ各論に立ち戻るようであれば、すなわち、堂々巡りを繰り返すようであれば、視点が偏っていると判断されます。偏った視点を修正できない原因としては、情報の足りないことが考えられます。この場合は、新たな掘り下げを求めれば、新たな発見にたどり着けるでしょう。しかし、もうひとつの理由が考えられます。それは、メンバーの誰かが、結論ありきで議論に臨んでいる場合です。この場合は、特定の結論に至ることが、自身の利得(別の案件で有利に働く、簡単に終わらせることができるなど)になるからという動機を持っていることが想定されます。

いすれにしても、会議が堂々巡りを起こす理由は、そもそもの会議に向かうスタンスの問題と言えるでしょう。したがって、常に総論に立ち返り、場合によってはさらに掘り下げるという行為が、その組織の文化になることが必要だと考えます。このプロセスが常態となれば、メンバー全員のスタンスが揃い、新たな発見に向かう準備が整うのだと思います。

一方で、このようなプロセスを採用することは、時として時間がかかります。大抵の場合、組織は限られた時間で結論を出す必要があるでしょう。だから、その議論は、本質にまで遡る価値があるのかを判断することが重要です。いたずらに、あらゆる議論において本質を求めることは、学級会であって会議ではないでしょう。話し合うべきテーマであっても、ひたすらに合理性のみで判断すべき議題はあると考えます。ただし、だからといってディベートに頼ることは、組織の分断を招いたり、生産性の低下(イヤイヤやれば効率は下がり、品質も劣化する)に陥ったりするでしょう。誰も組織から切り離されないことは必要です。時間を節約しようとする行為は、決して人を豊かにも幸せにもしないと考えます。

イヌイットの間には、「ナルホイヤ」という言葉があります。意味は、「わからない。なんともいえない」というものです。これは、何かをしようという提案に対して、今、合理的に考えて最善と思えば従うが、判断保留の状態は保つというニュアンスで使用されます。(だから、行動はするのです。)大自然の中では、常に何が起こるかわかりません。だから、何かを決定的に決めることはせず、「取り敢えず」という発想で、いつでも考えを変更できる余地を残しているので、急な変化に対しても、高い瞬発力をもって対応できるのだと思われます。そして、それを共有する社会を形成してきたからこそ、今も、生き残っているのだと思います。

過去のデータをいくら集めても、最適な答えは得られないでしょう。むしろ、現場は常に流動的であることを認め、その時々の偶然性に柔軟に対処することが、結果的に真の最適解になるのだと思います。十分に対話し、納得感をもって先に進むことが大原則ですが、時間の制約の中で組織の成果を求められる場合は、いつでも変更できるばかりではなく、変化に高い瞬発力を発揮できる準備、すなわち「取り敢えず、今は…」という合意を共有することが必要であるように思われます。ディベートでは還元されない成果こそ、組織の成果であるのではないでしょうか。

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