夏彦に触れた手触りが忘れられない
2023年7月13日、音楽映画『キリエのうた』の予告が解禁された。
儚く、切ない映像を観ていると、繊細さと脆さと危うさをはらんだその世界は美しく、尊いもののように感じられる。
映像の中の世界はどんな世界なのか、この世界の中で生きている人々はどんな人々なのか、気になって仕方がなかった。早くその世界に触れ、出逢いたかった。
7月5日に発売された小説『キリエのうた』を購入していたものの、なんだか手を伸ばせずにいたその本をすぐに手に取った。
そして、手を伸ばした世界の中で出逢った潮見夏彦という人物。
物語の中で、彼という存在がどの人物よりも詳細に描かれていたように思う。(彼を通して描かれる人物が複数いることもあるかもしれない。)
彼の境遇を「わかる」なんて決して言うことはできないが、彼の歩んだ日々を想像するには十分な描写がそこにはあった。
その描写を通じて触れた潮見夏彦という人物の手触りが2週間経っても忘れられない。ずっと、ずっと、考えてしまう。
10月13日にスクリーンで夏彦に会えるが、夏彦に出逢った時の気持ちを忘れたくないため、ここに残しておきたい。
ネタバレにならないよう、決定的な出来事や詳細については触れないように綴りたいと思うが、『キリエのうた』の物語に触れずに映画を観たいという方はここから先を読むことを控えていただければと思う。
夏彦と希の物語
(希の詳細についてはあえて触れずにお話しする。)
夏彦と希の歩んだ日々は“恋”が“愛”へと変わる過程のように私には思えた。
最初は希という、自分に好意を向けてくれる存在、“女性”という存在への興味から始まった関係ではあったが、そこから徐々に夏彦は希に恋をしていく。
夏彦は人生で初めて恋人という存在のいる日々を過ごし、自分と希の存在が一体化していくような感覚に溺れていく。自分たちの気の赴くままに相手を求め、相手を感じる姿は若さ故の勢いと危うさを秘めた関係だったのだろうと想像する。
そんな日々を過ごす二人はある一つの変化を迎えることになる。
それは自分たちが過ごしてきた時間によって生まれた変化ではあったが、その変化によって、二人はこれまでのように自由に、自分たちの気の赴くままに恋を楽しむことができなくなる。その変化と向き合うためには、覚悟と責任が必要であるという現実に直面するのだ。
この現実に夏彦は戸惑い続ける。
自分の未来、そして希との未来に。
この現実を受け入れるための夏彦の葛藤こそが、「愛とは何か」「愛するとは何か」を知る過程だったのではないかと思う。
夏彦は第三者から見ると、恵まれた環境にいる人物だと思われるが、実際には希と出会うまで、愛を受けたことのない、愛の知らない青年だったのだと思う。愛は一方的なものではなく、お互いの想いが無いと存在し得ないものであり、物的な充足では満たされない、お金では買えないものである。故に、夏彦の“恵まれた環境”の中には存在しなかったのだろう。
しかし希と出会い、時間を共にする中で、本当の愛を知らない、本当の愛を与えられなかった夏彦が“恋”を知り、希に対する覚悟と責任という現実に直面することは、“恋”から“愛”へと変わる大切な苦悩だったのではないか。自分が招いたことなのだからしっかりしろ、と世間的に言われてしまうことかもしれないが、それまでの夏彦の歩みを想うと、すごく尊いもののように感じた。
だが、その直後に、夏彦が現実を受け入れて、これから希を愛していこうと覚悟を決めた直後に、二人に訪れた突然の出来事。夏彦は“愛”を知った瞬間、“愛”を伝えようと覚悟を決めた瞬間、“愛”を失うかもしれないという恐怖に苛まれる。
結果として、失ってしまったのだが、失うかもしれない、失ってしまうのかもしれない、という恐怖に苛まれ、藻掻き、足掻く夏彦は何とも苦しかった。藻掻いても、藻掻いても、夏彦は暗闇から出られない。恐怖と不安に追い詰められながら、それでも希を求める夏彦の姿は“愛”そのものに思えた。普通じゃできないこともやれてしまう夏彦は、それだけ希を愛していたのだと。
奇しくも夏彦は“愛”を失って、初めてそれが“愛”だったのだと少しずつ、少しずつ、時間をかけて、気付いたように私には感じられた。
夏彦に触れた手触り
この『キリエのうた』という物語の中で生きている人々は皆、何かを背負いながら生きている。
それは決して、幸せに繋がるものとは言えない、重くて、苦しくて、忘れたくても忘れられない、十字架を背負っているような、意図せず呪縛と化してしまうようなものである。生きている限り、人間は大なり小なり、そういったものを抱えながら生きている。「心の傷が癒える」という言葉があるが、一生癒えない傷もある。苦しくても、忘れずに生きていかなければならない、ある種の宿命のようなものを一人一人が背負っている。
若い頃、特に高校生や大学生という多感な時期は、刹那的な恋に落ちることがある。他のことすべてがどうでもよいと心の底から思えてしまうほど、相手のことしか考えられなくなり、相手とすべての時間を共にしたくなる。今自分が生きていて、相手と一緒にいること以上に大切なことなんて、この世に存在しないと思えてしまう。そんな深い恋に溺れてしまうことがある。
夏彦はまさにそれだったのだろう。
家庭と学校といった変わり映えのない環境の中で、日々を過ごしていた夏彦の日常に、突如現れた希というある種の異質な存在。希によって、外の世界を遮断したくなってしまう。すべてを遮断し、自分たちの世界に溺れる悦びを知ってしまう。
しかしその悦びの反動が大きすぎたのだ。到底高校3年生、18歳が背負えるようなものではない。重く、苦しく、自分の行動のすべてを悔いてしまう、悔いても悔いても悔やみきれないようなものを夏彦は誰にも話せず、一人で背負って生き続けている。孤独に耐えながら、生き続けている。そのつらさ、いや、つらさを超えた苦しみを夏彦と本当の意味で心の底から分かち合える人が誰もいないまま、生きていくことの苦しみは計り知れない。
物語を通じて、そんな夏彦に触れ、その手触りは指からすり抜けていってしまうような手触りだった。「待って、」と叫びたくなるような、抱きしめてあげたいのに消えてしまう、守ってあげたいのに消えてしまう、そんな感覚になり、胸が苦しくなった。
潮見夏彦と松村北斗
2023年10月13日。
潮見夏彦にスクリーンで出逢うことができる。
でも私はこの日を迎えるのが怖い。会ってみたいという気持ちはあるのに、怖さの方が勝ってしまう。一体松村北斗がこの潮見夏彦をどう演じるのか。その現実を受け止められる自信が無い。
予告を観ただけで、確信してしまった。
北斗がまた一つ、新たな扉を開くことを。
北斗がまた新たなステージに上がっていく姿が想像できてしまった。
ファンとしては喜ばしいことである。ステージが上がれば、これまでに観たことのない北斗の姿を観ることができるから。
でも、どこか寂しくなる気持ちもあるのが正直である。もちろん元々、遠い存在というか、手の届かない存在であるが、さらに北斗が遠くなってしまう、と真っ先に思ってしまった。夏彦に触れ、指からすり抜けてしまう感覚があったように、北斗も指からすり抜けてしまうように思った。(最初から掴んでなんかないのに。)
でもそのくらい、『キリエのうた』で生きる北斗は、私の想像を超える北斗だから。
だから、より、夏彦に逢うのが怖い。
もちろん巷で噂されている某シーンも怖さの10%くらいは占めているが、北斗はノンバーバルの演技の魅力をしっかり持っているので、そこも期待したい。なぜなら、そのシーンは夏彦と希の“愛”の過程として重要な意味を持っているから。
希を誰が演じるか?ということについて、まだ正式には明かされていない。ただもし、巷で言われているようにアイナ・ジ・エンドさんなのであれば、どことなく納得感がある。
というのも岩井俊二監督もYouTubeで話しているが、アイナさんのソロ楽曲「きえないで」という楽曲を聴くと、希がアイナさんになる所以がなんとなくわかるような気がする。
「きえないで」の歌詞は不思議と鮮明に映像が浮かんでくる。幸せだった頃の二人やその二人の関係が失われていく様子が目に浮かぶ。そして失った後の想いまでがぎゅっと詰まっている。とてもリアルに。
こういう表現ができる方が演じる希はなんだか合うような気がする。
そして、この表現ができるアイナさんと北斗の演技の化学反応はちょっと恐ろしい。とてつもなく圧倒的なものを見せつけられそうで、怖くなる。
人間の表と裏、浅いところから深いところまで、一人一人の感情と、その感情たちが互いに縺れ合って生まれる感情が立体的になって見せられるような、そんな気がする。自分の心を直接掴まれるような、そんなものになるような気がする。
私は夏彦と希に出逢ってから、なんとなく「きえないで」が希視点の二人を描いた楽曲のように思えて、毎朝聴いては二人に想いを馳せる日々を過ごしている。
松村北斗の演技の魅力は“体温のバランス”とでも言えば伝わるだろうか?
形容するならば、虚無、絶望、不安定、何かを背負って、目に光が宿っていないような演技が秀逸である。
過去の作品も、おそらく今回の『キリエのうた』も、ある出来事を通じて、体温を失った人物が徐々に体温を取り戻していく。誰かの力を借りたり、自分の中の葛藤を乗り越えることで、体温を得ていく。決して取り戻すことが簡単ではないものを苦悩と葛藤を通じて、取り戻す。その過程における表現こそが松村北斗の演技の神髄ではないかと思う。
きっと夏彦も体温のあるとき、体温を失うとき、体温を取り戻すとき、それぞれが描かれるのではないかと思う。
その繊細なバランス表現に期待したい。
また、この『キリエのうた』の共演を経て、作られる松村北斗ソロ楽曲「ガラス花」。
アイナ・ジ・エンドさんが松村北斗という存在を考え続けて生まれたモチーフであるガラス。そこから紡がれる音と歌詞。そして貪欲に表現を生む松村北斗の声。この掛け合わせが何を生むのか。これもまた恐ろしい作品が生まれるのではないかと今から怖くなっている。
できれば、できれば、振付もお願いしたい。素敵なコンテンポラリーダンスをお願いしたいと欲張ってしまう自分がいる。
結局私は自分の想像や理解の範疇を超えるものを目の当たりにすることに対する恐怖心が大きい人間なんだなと、北斗のことを応援しているとつくづく思う。でもその先に、自分のエネルギーになるような、生きる力になるようなものがあることにも気付いているから。だから、これからも北斗についていきたい。
松村北斗の表現
先日発売されたStage fanの中で、北斗は自分の表現について、こう語っている。
北斗の表現が、自分の中に芽生えたものを誰かに伝えたい、届いてほしいという想い、そして周囲の期待に応えたい、喜んでほしいという想いが相まって生まれているものだと思うと、とても尊いし、ありがたい。
あなたのその想いがきっと、何百人も、何千人も、何万人もの心を打つものを生み出しているから。
きっと、北斗が届けたいと思った潮見夏彦の物語、『キリエのうた』の物語についてはこれからのインタビューや雑誌で聞けるのではないかと思う。
これからはそれも楽しみにしたい。
北斗、いつもありがとう。
今は体調を第一に、ゆっくり休んでください。
おけい
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?