9/6の日記~タコ交差点、天秤に分銅、サナギ~
交差点のアスファルトは、昼の内に取り込んだ熱を冷ますために、その身の奥深くまで雨を染みこませている。雨を染みこませて黒く変色し、夜に擬態しようとする交差点のその姿は、巨大なタコのようにも見える。幾本もの腕のように道が伸びている。点字ブロックが吸盤のようだ。ともすれば、僕が立っているこの辺りは丁度口に該当するだろう。てことはもうじき胃袋の中か?
「いかにも。タコにも。ご名答」
社会人として東京に暮らし始めて5ヵ月と少々。馴染みの店は持てていないし、満員電車で潰れかけのパーソナルスペースをかろうじて保っている。思ったよりも貯金は増えてなくて、思った通りに気力は摩耗している。なんてこった。これが立派な社会人か。
「いかにも。タコにも。おめでとう」
まったく、うるせぇよ。
交差点を渡った先の区営のジムで身体を鍛える。“タコの腕”から逃げ抜けた先で羽根を休めよう、とは中々いかないものだ。右側の筋肉を鍛えたあとで、左側の筋肉を鍛える。天秤に分銅を載せて左右のバランスをとるように。また、それと同じように僕は頭の中で、数々の上手くいかない重たい現実を右側に、ささやかで軽やかな夢とか希望をたくさん左側に載せる。効果があるのかないのか全く不明だが、そうやって社会人は鍛えられていく。思い当たる節はあるはずだ。そしてまた鍛錬というのは継続されなければ意味がなく、そしてそれは常に効率的でなければならない。現状、効果の有無が不明、というのはいささか不安であるものの。
やがて巣立つ社会人の雛、とか可愛らしい鳥をたとえに世界へ羽ばたけると簡単に妄信してはいけない。我々の多くが鳥に食べられないよう樹上にしがみつき、枝葉に擬態する慎ましやかなサナギそのものである。
理科の授業中によく資料集を開いて、授業内容とは関係のない項目を読み漁ったものだった。木に留まって動かないサナギにも、やがて羽根に変わる部位が見て取れるというのを知った。
隣の腹筋台に、羽化途中に地面に打ち捨てられたサナギのごとく悶え、腹直筋を鍛える小汚い初老の男性がいる。蝶に変われやしないその男性の代わりに、僕は背筋台で上体をそらし、背筋や肩甲骨辺りに羽根の名残をさがした。
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