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出されたものに駄目出しするのが良い仕事と思い込む病

前回「食べたいものは先に言え」という話をした。続いて今回は「言えばいいってもんじゃないぞ」という話をする。

例えばの話。普段の夕食を準備する時に「何が食べたい?」と聞いて、「フルコース」がご所望されたとしよう。あぁ、、、確かに、、、食べたいものを言えとは言ったけど、、、何でも言えばいいってもんじゃなかった。

気持ちは受け止めるとしても、いきなり作れるもんじゃない。準備や設備まで考えると「餅は餅屋」で、日を改めてレストランを予約していただくのがよい。

フルコースを食べに行く計画は日を改めて計画してもらうとして、まずは今日の食卓を一緒に考えようという気持ちになる。

前回のお話「要件定義の段階で求めているものを言え」がクリアできたとして、以下では「要求に対して適切にリソース確保して相手を選べ」と「遂行後は確約した要件に対する過不足に集中しろ」という話をする。

最速で60~70点を狙う仕事

冒頭のフルコース問題は、制作の現場でもおきる。金に糸目は付けずにクオリティを追求できる制作なんてそうそう無い。ビジネスとしてやる以上は、何かしらの納期・コストの中で折り合いの付く品質を出すケースは多い。

それを理解した上で、限られた予算・納期・設備・技能の中で創意工夫して、最速で60~70点を出すことが求められるタイプの仕事がある。

インハウスでやってると、何でも屋よろしく自前でいろいろこなす。自然光ライティングでパンフのスチル写真を撮影することもある。

レストランと比べてうちの夕食はイマイチ

でもやっぱり、制作の着手時に挙げられる「こういうイメージが希望」で、自炊の食卓にフルコースを要求するようなケースは往々にしてある。

その方向性やエッセンスは汲もうとするけれど、想定しているコストでは辿り着けない。コストをかけた「作り込み」の要素を、制作前にイメージ合わせするのは難しい。

前回の話で言う「肉って気分じゃない」と言いがちな人が、プロトタイプ段階で「未実装」と「方向性の違い」が区別できない話にも通じる。正しい方向に向けてしっかりした土台を組んで「作り込み」をしなければ、求めるものに辿り着けない。それが感覚的に分からないのだろう。

60~70点狙いだと認識を合わせて進めるも、その前提や水面下の努力は汲まれず、結果として「レストランと比べてうちの夕食はイマイチ」発言が浴びせられる。

これ、家族のために自炊している人が言われたら怒って当然だと思う。でも、制作の現場だと無神経に言われる。やられると腹立たしいけれど、言ったところで「そんなの知らないよ」と返されるだろう。

パラダイムの違いがあるのは仕方ないのは承知しつつ、知ってほしいから書いている。

並にぎりを注文しといて上にぎりを求める客

良くて70点というお約束で取り組んだのに、いざ完成したモノを見た段階で「もっと頑張れば80点を狙えるんじゃないか?」と要求を上げられることがある。最後の味付けだけで解決することはなく、各工程の質が絡めば作り直が必要となるので不可能だ。

最上志向そのものは素晴らしいことだし、モノを見ると欲が出てくるのも理解はできる。頭を下げられると応える気持ちにもなる。ただ、当然の権利のように「もっと上を目指せ」と言うのは違う。比較すべきは世界最高ではなく、最初に約束した要件である。

私の仮説として、こういうトラブルを起こす人は、アラ探しをして駄目出しすることで「自分はよく仕事をした」と満足するタイプなんだろう。話していて「正しいことを言ってるのに何が問題なの?」という反応だったので、宗教か病気のレベルで刻み込まれた信念に思えた。

仕事を「有言」「実行」に分解したうち、要件定義で示した「有言」した70点以上のことを「実行」しろと求めているから問題なのだ。

寿司屋で「並にぎり」を頼んだのに、手元に来てから「こんなに早く作れるなら、上にぎりに変えてくれても良かったんじゃないの?」とクレーム付ける客を想像してもらえれば、そのヤバさが伝わるだろうか。

ヤバ客にならないためにも、自分が欲しいものから逆算して、適切な相手に適切なお金積んで望んでほしい。その結果、私の仕事が奪われたとしても、世界全体は幸せになるなら良い。

何度でも言いたい。駄目出しする状況はディレクションが機能していない。本当に駄目なものは駄目と言わないといけないけれど、是正策として制作の過程をコントロールするよう働きかけ、駄目出ししなくても望んだものが出てくる状態を目指さねばならない。

丁寧な仕事は関わる人に「自分が大切にされている感」を与える

ここまで書いて、正反対の視点のお話も紹介する。「自分の仕事をつくる」という本の中で、丁寧な仕事は使う人に「自分が大切にされている」という印象を与えると書かれていた。

我に返ってドキッとした。矢継ぎ早に60点の仕事をすることは、心を貧しくするんじゃないか。

使う人だけではなく、作り手に対しても言えることに思えた。現に私がやさぐれながらnote書き殴るのも、すでに心を貧しくしているからと言える。

自分の作品であれば、わざわざ言われなくても高い点を目指して作り込みたくなる欲が出る。でも、それがクリエイティブを搾取する論法として振りかざされてはならない。

クオリティを出すことが大事と認めた上で、次回はコストかけてでも80〜90点を目指そうと認識を合わせて取り組むのは歓迎。関わる人々の「自分が大切にされている」感に繋がり、健全なことではないか。

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