良く生きるために写真を撮っている
インスタ更新が途切れた時に、ふと「自分は何のために頑張っていたんだろう?」と我に返る瞬間があったので #写真を撮る理由 について。
プロであれば「飯を食うため」なので解りやすい(とは言えその仕事を選んだ動機を問えば同じだ)けれど、趣味で写真を続けている人は何を動機にしているのだろうか。
もし自分が聞かれたら一筋縄に答えられないことにも気付いたので、自分なりの答えを捻り出して記す。
写真を撮る本質的ニーズを言い当てるのは難しい
マーケティングやUXデザインで、「写真を撮る真のニーズは何か?」という問いを深追いすると、「人は何のために生きるのか?」くらいの哲学問題にまで近づく。
それを言ったら、大体の事は「なぜ?」を何度か繰り返せば「しあわせになるため」にまで遡ってしまう。でも、他のニッチな趣味であれば1度目の「なぜ?」に対して「あえてそれをやる理由」が挙げやすいのに対して、息を吸って吐くように意思を伴わずスマホ写真が撮れる今日、1度目の「なぜ?」から回答しにくくなった。
似たような例だと、「食事をとる理由」なんてのも当たり前すぎて答えにくい。生命維持であれば点滴で済ませられるとしても、どうせなら美味しい食事を求めるし、さらに楽しい場を求めるように、欲求には段階がある。食事を取り囲むニーズも多岐にわたるので人によっても違う。働くために食べるのか、食べるために働いてるのかも曖昧になる。状況を限定すると少しは捉えやすいかもしれない。
そんな「食事をとる理由」と同じように、「写真を撮る理由」についても生活に溶け込んで、「生きる理由」を答えるくらい掴みどころのない問いになったと感じる。
写真を撮るのは身体拡張
最近「編集工学」を読んだので、「○○とは?」について考える際の補助線として「プロトタイプ」「ステレオタイプ」「アーキタイプ」を拝借して答えようと試みる。
(編集工学は学びや創作が何であるかを解き明かす内容で、情報デザインなんかに近い。クリエイティブに憧れる工学畑の人には #推薦図書 )
プロトタイプ
「写真を撮る」とはつまり、人の視覚を模した光学系・撮像素子・記憶媒体(or フィルム)を組み合わせたカメラを使って、記録した情報をもとにして目に見える画像を手に入れることだよ。
ステレオタイプ
「写真を撮る」と言えば、
・スマホの無音カメラアプリを起動してサッと撮った写真は、ストーリーズ投稿や自分用のメモがわりに使うよ。
・動画映像が必要な時は、GoProやVLOGCAMで撮って、Premiere Proで簡単な編集をしてSNS投稿やアルバム共有するよ。
・表現としての写真を撮る時は、祖父の形見であるオールドレンズを装着して、Nikon D90で撮ってRAW現像して、SNSやアルバム共有するよ。
アーキタイプ
「写真を撮る」とはそもそも、視覚にまつわる人間の欠点を補う身体拡張である。欠点とは具体的に、①視覚で捉えたことをすぐに忘れてしまうこと、②視覚から湧いた感動が他の人に伝えられないこと。
3つの中では「アーキタイプ」を考えるのが特に難しかった。「これが正解」というよりかは、「そんな風に捉える人もいるんだ」くらいの感じで読んでいただければ幸い。
だけどもし「当たらずとも遠からず」だったら。「進化思考」という書籍の中で「創造と進化の共通点」が取り挙げられていたように、カメラによる視覚の拡張は、「視覚から湧いた感動を留めて他の人に伝えられる」ように進化したい人類の願いだと言える。
(進化思考は創作を掘り下げる内容でありながら、読み物としても面白いので #推薦図書 である)
ここまで分解して、①自分で反芻する意味もあるけれど、基本的には②他者に見せることが内包されていることが浮き彫りになった。また、写真を他者に見せることで自分が何を成し遂げたいのか?という新たな問いが生まれた。それこそ記録・交流・情報交換・表現など様々であろう。
良い写真が撮れた日は良く生きた日
冒頭の節で、『「生きる理由」を答えるくらい掴みどころのない』と書いたけれど、けっこう言い得て妙なんじゃないかと思っている。良い写真が撮れた日は良く生きた日。良く生きるために写真を撮っている。
「写真のアイデア手帳」と言う書籍の冒頭に、「写真は見て感動したものを、自分なりの解釈で写す」と書かれていた。もちろん風光明媚な世界の観光名所に行けば感動に溢れているけれど、人生の多くを過ごす自宅-職場の往復でも感動を見出せたとしたら、とても素敵ではないだろうか。
(余談ながらこの本はテクニックより心構えについて書かれているのが凄く良いので #推薦図書 である)
「近所の風景なんて撮り尽くしたので、もう撮るところが無い」はよく聞くけれど、「いつも繰り返しの生活だから、新たな1日を生きる意味がない」なんて話がまかり通る訳はない。昨日や去年と比べて少しは景色が違うし、もし同じ風景だろうと自分側の捉え方が違えば世界は違って見える。
私の感動を誰かに伝えて共鳴させられれば、私の感動が誰かの中で生きる。大袈裟に言えば、私が今日と言う日を生きた証が残せたくらいに素敵なことが「写真を撮る」ことによって成し遂げられる。
私の感動を誰かに伝えて共鳴させた指標
それを目的に写真を撮っている訳ではないけれど、「今日も写真を通して私の感動を誰かに伝えて共鳴させた」と感じられる指標があるにはある。
SNSのイイネ数なんかも指標ではあるけれど、ギブアンドテイクによる義務感やノールックイイネもあるので弱い。それよりも、自分の写真をプロフィール画像に選んでもらえたり、自分の記事を飾る画像として選んでもらえたりすると嬉しい。
この度、「みんなのフォトギャラリーが使用された数」で100を達成したのは、たいへん励みになった。