#0139 問題は人口減少ではなく人口密度
一昨日の木下斉さんのVoicyは、地方都市の在り方を考えるうえで気付きの多い放送でした。
日本の人口増加フェーズは終わり、人口減少社会に入りました。
もう昭和や平成のようなマチの賑わいを復活することはできません。そう簡単に。
地方創生も人口を増やすことを目指した「活性化」対策が主でしたが、人口減少社会においては、自治体間で人口を取り合う不毛な競争を行うことになります。
これからは人口の多寡ではなく、人口減少社会において社会機能を維持していくために、一定の密度が重要になってくると思います。
Voicyでもキーファクターは「人口密度」と解説されていました。
人口減少は不可避としたうえで、どのように社会を機能させるかが、いま生きる世代が考えなくてはならない課題です。
以前、地域の在り方にも「活性化」一択ではなく「消滅」「再編」といった選択肢も認めるべきとの記事を書きましたが、縮小社会において社会を機能させるにはという問いにおいても、マチの「活性化」一択ではなく、中心部への集約化、再編など様々なデザインをしていかなくてはならないのではないかと思います。
人が減れば、社会を維持していくために必要な役割の担い手も減っていきますし、散財していれば移動など様々なコストも発生してきます。
そうした観点からも重要なファクターは「人口密度」であり、集約化や再編などを通してマチの人口密度を高める(≒徒歩圏内で完結するエリアを作る)ことで、利便性、安心感、市民の健康、財政健全化といったメリットを享受する未来をデザインしていくことが必要になってくるのではないかと考えました。
○釧路駅前の変遷
実体験も踏まえて、私のふるさと・釧路を例に人口密度の重要性を考えていきたいと思います。
私の実家は昔、釧路駅前で商売をしていて、一階が店で二階が自宅という職住一体型でした。
昔は職住一体の暮らしを町内みんなしていて、今と比較にならないほど人口密度が高い状態だったと思います。
通学路を歩いていると、配達準備をしている人、歩道を掃除している人など、朝から活気あるマチでした。いま同じルートを歩いても、誰一人すれ違うことなく歩けてしまうのではないかと思うほど変わってしまいました。
(20年くらい前と思われる釧路の様子は以下のリンクを参照ください)
実際に釧路駅前商店街周辺の人口推移をみていくと、あまり古い時期までさかのぼることが出来ませんが、減少傾向にあることがわかります。
恐らく、この傾向は何十年も前から変わっていない傾向ではないでしょうか。
実際に現在の釧路駅前は、空き家・空きビルが多く、危険な建物が多く存在します。最近は廃墟のマチとしてYouTubeに取り上げられるなど、変な意味で有名になってしまいました。
○ドーナツ化現象
イオンなどの大型駐車場を完備した商業施設が郊外に進出すると、我が家も徐々に車で出かけることが多くなりました。それまでは、徒歩で通える範囲で和商市場や長崎屋、金市館に買い物に出かけていたことを憶えています。
駅前に買い物に来るお客さんも減っていくなか、大人たちがうちの店で「駅前には駐車場がないからダメなんだ」ということをいつも挨拶代わりみたいな調子で話していたことを今でも鮮明に覚えています。
近所で商売をしていた人たちも、広い土地を廉価に確保できる郊外に駐車場付きのお店を作って移っていきました。するとますます釧路駅前に空き家や空地が増えて人口密度が低下していきます。
小学校の友達も、どんどん転校していき、小2か小3の頃には、全学年1クラスに(数年後に弟が母校最後の卒業生になりました)。
こうした形で、マチのドーナツ化現象が進んでいったのでしょう。
大人たちは「駐車場がない」と言っておきながら、駅前の商店では買い物せず、車で郊外のダイエーやイオンに買い物に行っていました。そうしているなか、ついに駅前の大型店「金市館」が閉店、そこからドミノ倒しのように、市内に5つもあった百貨店が閉店していきました。
(いまの釧路市中心部の現状は、イオンなどの外的要因もあるでしょうが、市民自ら作り出してなるべくしてなった側面もあると思います)
この流れには、釧路駅前の人たちだけではなく、釧路市の基幹産業(石炭、パルプ、水産)の衰退による富の減少。そして、イオンなどの大手資本の進出による富の域外流出など複合的な要因が重なっての結果ですが、駅前の人口密度が低下していくサマを身をもって体感してきました。
百貨店の衰退についての解説は、神門さんのレポートがおススメです!
○人口密度が重要なわけ
人口密度が高いときの暮らしを思い出すと、徒歩圏内で生活が完結するので、非常に便利な生活を送っていたなと思います。
極端な評価かもしれませんが、ブランド品の購入や芸術に触れるなどの特殊なことを除いて、衣食住に関しては東京で暮らしている今とほぼ変わらない生活ではなかったかと思います。
いま実家に帰ると、車がないと何もできないので、非常に不便でコストもかかります。
このあたりに、人口が問題ではなく、密度が問題であるという理由が隠されているように思うのです。
・徒歩圏内で完結する利便性と安心感
徒歩圏内で生活が完結するというのは、単純に便利なだけでなく、安心感にも繋がります。必要なものがあれば買いにでかければ良いし、具合が悪くなったらクリニックに行けば良い。それも歩いて行けるのです。これは物凄い安心感につながります。
釧路市のマスタープランでも、定住する理由の多くが近隣に医療機関があることを理由に挙げている方が多いというデータがあります。
これも安心感があるから、ここに住みたいと考えているということではないでしょうか。
釧路市に限った話ではありませんが、多くの地方都市のまちづくりは、人口が増加する前提で作られてきました。
釧路市もどんどん中心から郊外にマチが拡大していき、ドーナツ化現象が進み、そして人口減少フェーズに入ると真ん中の穴は穴のまま残り、ドーナツ部分の密度も減少して車なしでは生きられないマチになっています。
これまでのまちづくり計画を逆回しにするイメージで、(定住してる人を強制移住させるのではなく)より中心部や中核となるエリアに集まって暮らせるようにしていき、一定のサービスが徒歩圏内で完結するようなエリアを複数構築するようなデザインが必要になってくるのではないでしょうか。
・歩くことの効用:健康と財政
歩けない人はどうしたら良いんだという声があると思うのですが、当然にいま歩けない人はケアをする必要があります。その考えは不変です。
ただこれからは、いま健康な人が今後も健康を長く維持できるようにすることが重要だと思うのです。
実家に帰ると車中心の生活になるので、1日の歩数が3,000歩程度ということがよくあります。東京にいると余裕で10,000歩クリアしますが、実家に帰るとめちゃくちゃ意識しないと歩数を稼ぐことが出来ません。
徒歩圏内で生活が完結するようになると、意識せずとも歩きますので、市民の健康維持にも寄与するのではないでしょうか。
具体的なデータを調べる必要がありますが、歩くことで運動不足が解消され、最終的には医療費や介護費用などの抑制につながれば、市の財政も軽減できますし、新たな財源を確保することで産業育成や子育て支援などにお金を使うことができます。
このようなヘルスケア分野の成果と連動した取り組みが最近行われていて、私も注目をしているのですが、かつてのように税収を人口増加で稼ぐことができなくなる時代には、市民の健康増進と市の財源の二兎を追うことも有益なのではないでしょうか。
○まとめ
駅前に住んでいたからそんなこと言えるのでは?と言われるかもしれませんが、駅前に住んでいたからこそ、車がなくても徒歩圏内で完結する生活の利便性と安心感が分かるので、活性化一択から違った目線で考えることができるのかなと思います。
いま釧路駅周辺のまちづくりが議論されていますが、従来の延長線上の議論が展開されているように感じます。
釧路駅高架化も車の交通量を考慮しているようですが、殆どが通過交通なので他の道路に誘導すれば良いのではないでしょうか。むしろ駅前から車を排除してバスなどの公共交通だけに全振りした姿を想像する頭の体操もあって良いと思います。
せっかく旧KOMにマンションが建ち、定住人口が増加したのですから、丸ト北村跡地などに職住一体のエリアを計画するのとあわせて、北大通をウォーカブルゾーンにしていくなど面白いかもしれません。
駅前にスーパーがないからサービス付き高齢者住宅を誘致できなかったとの話も聞いたことがあります。中心部の空洞化の問題は、地価や家賃の高止まりなど様々な理由があると思いますが、空いたドーナツの穴をどう埋め、密度濃くしていくかがヒントになるのではないかと考えました。
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!