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ユリウス・カエサル『ガリア戦記』

カエサルの『ガリア戦記』を読んでいる。紀元前、ローマ帝国の時代に書かれた二千年以上昔の本である。

なぜこの本を読んでいるのか

別段深い理由はない。
何気なく図書館で目に止まったから手に取ってみただけなのだが、以前読んだオルテガの『大衆の反逆』の中に次のような文章があったことも少し影響している。

 明晰と呼ぶにふさわしい、すぐれた頭脳の持ち主は、古代世界全体で、おそらくふたりしかいなかった。テミストクレスとカエサルであり、ふたりとも政治家である。一般に政治家は、著名な人も含めて、まさに愚かなゆえに政治家になるのだから、このことは驚くべきである。(寺田和夫 訳『大衆の反逆』P.203、中央公論新社、2002年)

オルテガの政治家に対する意見はかなり辛辣だが、カエサルについてはその天才的軍略や政略を讃えている。これによって私の、カエサルに対する見方が大きく変わった。

私にとって、世界史で教わったカエサルといえば、「ブルータス、お前もか!」の言葉に代表される、暗殺された英雄のイメージしかなかった。カエサルが英雄として死んだことは知っていたが、彼がいかにして英雄になったのか、また、彼の英雄としての行動はどんなものであったのかは全く知らなかったのだ。

ところが、この『ガリア戦記』が、天才カエサルが最初の英雄伝を打ち立てたガリア遠征(前58年〜51年)について、カエサル自らが記したものであると知り、俄然、興味をそそられた。

天才とよばれる人物について書かれた本は興味深いが、その多くは伝記である。だから、天才が何を考えていたのか、その本当のところは、読者にも、筆者にもわからない。しかし、本人が書いている場合には、誇張などは多少あるとしても、その思考を盗み見ることができるかもしれない。そう思い、『ガリア戦記』を読んでみることにした。

冒頭部分

「ガリアは全体が三つの地域に分かれている」
(Gallia est omnis divisa in partes tres)

本書『ガリア戦記』の冒頭をなす右の件(くだり)は、世界史上もっとも有名な書き出しと言われている。そのような古典を、さいわいにも、われわれはこれから読もうとしている。二千年以上も前の人々の血をわかせ、以来今日まで多くの読者を魅了してきた戦いの物語を、われわれはまさにこれから読みはじめる。このこと自体、なにはさておき、感動的なことかもしれない。これほどの書物をこうして実際に手にとる機会など、生涯でもめったにないことを思えば。(P.4 はしがきより)

訳者のはしがきを読んだだけで、もうワクワクしてしまった!
と同時に、この本を手に取って正解だった、と直感した。
ちなみに、今回借りた日本語版は、中倉玄喜 訳『〈新訳〉ガリア戦記』(PHP研究所、2008年)である。

「ガリアは全体が三つの地域に分かれている」という書き出しは、一見地味だが、「これからガリアというところの話をするんだな」「ガリアというのはかなり広いのか」「カエサルはそこに行ってきたに違いない」「分かれている、ということは……まさか統一してきたのだろうか?」というような想像を読者にもたらしてくれる。たしかに、世界史上もっとも有名な書き出しというのも頷ける。(恥ずかしながら私はそのことを知らなかったが……)

ともかく、ワクワクしながらページを繰っていった。当時のローマ帝国の状況や、カエサルやポンペイウスなどの主要人物の紹介を含んだ、訳者による解説を読んでいくと、早く本編を読みたい、という気持ちが抑えられなくなってきた。読者への親切であろうか、本編の前に訳者解説が付随している珍しいタイプの本である。

ところが、30ページほど読み進めても、一向に本編が始まらない!

目次で確認したら解説部分はなんと100ページ以上あった。恐ろしいことにまだ三分の一未満であったのだ。ひとまず解説はあとにして、本編から読みはじめることにした。

ついにカエサルが語り始める。

いざ本編へ

 ガリアは全体が三つの地域に分かれている。そしてその一つにはベルガエ人、もう一つにはアクィタニー人、またもう一つには自らをケルタエ人と称する、いわゆるガリー人が住んでいる。このうちガリー人は、ガルンナ河を境にアクィタニー人から、マトロナ河とセクアナ河を境にベルガエ人から、それぞれ分かれている。(P.111 第一巻より)

ガリアの占める位置は、現在のフランスを中心とするあたりである。(そういえば、戦場のヴァルキュリアというゲームでもフランスのあたりにガリア公国というのがあったことを思い出した。)
当時のガリアはフランスよりもう少し広く、ベルギー(ベルガエ)やスイス、北イタリアまで含んでいたらしい。また、ケルタエ人というのは、ケルト人のことで、いまのスコットランドやアイルランドに住む人々のことである。かつて大陸にも住んでいたのか……

このように『ガリア戦記』は、戦記という名から想像されるような、たんなる戦いの記録ではなくて、人種や地理、風土や慣習についても詳しく書かれている。

しかし、『ガリア戦記』を名作たらしめているのは、これだけではない。

驚くべき文体

 カエサルは、ヘルウェティイ族が「属州」通過をもくろんでいることを知るや、急遽ローマを発ち、最強行軍で外ガリアをめざし、まもなくしてゲナヴァ近くにいたった。だが、このときガリアに駐屯していたのは、わずか一個軍団であった。そこでかれは、「属州」でできるかぎり多くの兵を募るよう指示するとともに、ゲナヴァにかかる橋を破壊させた。(P.117 第一巻より)

これは訳者による注ではない。本文である。

驚くべきことに、カエサル本人の叙述であるにもかかわらず、一人称「私」ではなく三人称「カエサル/かれ」が用いられ、歴史書のごとくつとめて冷静に、俯瞰的に書かれている。この怖いくらいの冷静さが、物語に緊迫感を与え、内容が事実であることを読者に信じさせる。

最初、本人が書いたものではないのでは?とも思った。しかし、自分の名で他人に書かせたのならば、なおさら「私」を使いそうなものである。なぜなら、ゴーストライターの存在を悟られてはいけないのだから。やはりカエサルは、わざと三人称を用いたと考えられる。

簡潔な記述

 カエサルには、瞬時に処理しなければならないさまざまなことがあった。「武器をとれ」の合図を出し、ラッパを吹かせて工事を中断させ、食糧をもとめて遠くへ出かけた部隊を呼びもどし、戦陣をくませ、兵士をはげまし、突撃命令を出す、ことなどである。
 ところが、敵が急迫したことで、これらの大半ができなかった。がしかし、次の二つのことがこの苦境から救ってくれた。
 そのひとつは、……(P.189 第二巻より)

カエサルの記述は、全編にわたりオーバーな感情表現がなく、淡々としている。読む前に想像していたような誇張など、どこにもない。
しかし、書き手が淡々としていることによって、読み手には、ピンチはよりピンチにチャンスはよりチャンスに感じられる。大変な状況であることがカエサルによって冷静に伝えられると、それが本当に大変な状況である、ということが読者にはよくわかるのである。
二千年後の我々でも、これはもしやフィクションなのでは?と思えるほどにハラハラドキドキしてしまうのに、当時これを読んでいたローマ市民の感情たるや、どんなものであったろう。

 かくしてゲルマニー人との戦争を終えたカエサルは、いくつかの理由から、レヌス越えを決意する。
 最たる理由は、ガリア侵入をくわだてるゲルマニー人にローマ軍のレヌス渡河をみせつけて、かれらを牽制するためである。第二は、……(P.247 第四巻より)

また、それぞれの行動には、必ず理由が示されており、読んでいてスッと頭に入ってくるようになっている。読者が疑問に思う可能性のある箇所には、即座に解答が用意されており、クエスチョンマークを抱かせない。

このように、簡潔・明快な記述が心がけられており、後世の著名な歴史家が書いたと言われても納得してしまう出来である。

カエサルの思惑

実は、カエサルがこの本を書いた意図のひとつは、ガリア遠征というローマ帝国の一大事業の記録を、のちの歴史家のための基礎資料として用意するためだったらしい。

 たしかに、かれの戦記ほど、見事な簡潔さをもって著わされたものは他にありません。そもそもカエサルがこれらの書き物を公にした動機は、あれほどの出来事に関して、歴史家が知識を欠くことのないようにとの考えからでした。ところが、それはそのままで世の絶賛を博し、歴史家に著述の機会をあたえるというより、むしろその機会をうばう結果となったのです。(P.452 第八巻 ヒルティウスによる序文より)

風土資料としても、戰の記録としても過不足なく、(まさに申し分なく)書かれているために、これに対するいかなる付け足しも蛇足になってしまうとは……!
カエサルの死後、第八巻を補足として加えたヒルティウスも、これは何度も断ったけれど頼まれたから渋々書いた、と言っている。
しかしながら、その言い訳をしている序文も、懸念している第八巻の本編も、(読んだのは冒頭部分だけだが、)とても味わい深く書かれている。とりわけ序文はお気に入りだ。

もうひとつの目的

そして、『ガリア戦記』には、歴史資料として以外に、もうひとつの目的があったとされている。それは、カエサルが、ガリア遠征の大大大成功により元老院から危険視されていた中で、ローマ市民からの人気を獲得するために書いた、というものだ。これにより、元老院はカエサルを排除することができなくなる。簡潔な文体で誰にでもわかるように書かれているのは、実はこのためでもあったのだ。

人々が『ガリア戦記』を読むことで、カエサルの知略・軍略を目の当たりにして熱狂していたと思ったら、これも策略のうちだったということだ。我々はカエサルの手のひらの上で踊らされていた。カエサル、恐るべし。

まとめ

以上、『ガリア戦記』の内容や文体、その意図について見てきた。これ以上は自分の目で確認してほしい。

今回、図書館で借りた『〈新訳〉ガリア戦記』は、翻訳も読みやすく、解説も豊富すぎるくらい豊富なのでオススメだ。手元に置いておきたくなったので、私もAmazonで一冊注文した。

さあ、第四巻まで読み終わった。
終わりに向かうのがもったいないくらいだ。

しかし、たとえ『ガリア戦記』が終わっても、カエサルの物語は『内乱記』へと続く。
それを楽しみに、ゆっくり読んでいくことにしよう。

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