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僕の考える人生の苦しみの意味

すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。

V.E.フランクル著「夜と霧」より

苦しみにもかかわらず存在する意味ゆえに。
癒しの力は、意味の中にこそあるのです。

同上


お久しぶりでーす。
僕がnoteあんまり書いてへんときは、元気でまあ別に書かんくてもええかなって思ってるから書いてないのと、心身の健康状態が悪くて書く気が起きへんのの2パターンあります。
今回は後者ですねー。

大学の課題出し忘れたり、寝坊して1コマ休んじゃったり、生活リズムが狂ったり、ストラテラ(ADHD治療薬)を1日飲み忘れちゃったり、依存性が酷くて1日十何時間もスマホやPCでゲームやネットサーフィンやったりしちゃってましたねー。
あー、あかんなーと思いながらも中々なんともならへんだ数日間でした。

ただそれでも去年の後期よりはマシで、遅刻しながらでも大学にはいったり、課題も全部ではなくても大体は出したり、座禅は毎日数分だけでもしてました。
数日絶食してしまうようなこともなく、ちゃんとご飯も少なくとも1日1食は食べてましたし。
引っ越したり、母が定期的に下宿に来てくれたり、薬を飲んだりして発達障害の治療、対策をしてきた成果が徐々に出てきたんかなーと思ってます。

依存症が酷くなってる時に、精神科医のYoutuberの益田裕介先生の動画を色々と見てました。

「ADHDはドーパミンなどの脳内物質が不足しやすく依存症になりやすい」
「依存症の対策は色々とある」
「薬物治療でADHDの症状を抑えることで解消されることがある。」
「依存症治療に使われる薬は主に、ストラテラ、コンサータ、インチュニブの3種」
「他にも依存対象を物理的に使えない状態にする行動制限や」
「依存症の症状を発症しそうになったら別のことをして気を紛らわせるなどが対策としてある」
などなどが動画を見て知れました。

既知のこと既に自分で試してみたものもありましたが、僕はやはり自分のこの衝動性を意志やシステムで抑えるのには限界がありそうやなーと今まで生きてきて思ってます。
行動制限は一時期タイムロッキングコンテナという箱を使って一定期間入れて制限してみた時がありました。
やっぱりPCやテレビなど箱に入り切らないものでネットを何時間も使っちゃったり、そもそも使う気になれないときがあってあまり上手く行きませんでした。
やっぱり動物性の強い自分が強く表に出てきてしまいます。
発達の問題で行動制限が上手くいかない事例があるそうですが、僕もそれに該当しそうです。

そういう人は脳の神経系にASD、ADHD的問題を抱えていることが多いらしくやはり薬物療法が有効みたいです。
今飲んでるストラテラは常用薬で一日一回決まった量を飲み続けることで24時間衝動性を抑える効果を発揮してくれるやつなんですが。
僕は相当に症状が重いのでもう少し量を増やしてもらったり、コンサータやインチュニブを飲んだりしてみてもええんちゃうかなと思ってます。
依存症については精神科医の先生に相談したことはあまり無かったので今度の診察のときしてみようと思います。
これからも徐々に良くなっていくと良いですね。

ただ益田先生の動画を見てみて、薬物療法で依存症などの困りごとがなくなりやすいと知ってネガティブな感情にもなりました。
「俺は今までの人生こんなに苦しむ必要はあったんかな?」
「自分の意志でどうこうしにくい問題で怒られ続けてきたんやなー。」
「もう少し早くに、発達障害の傾向が強いと分かった9歳の頃から薬物療法してたら俺の人生はマシやったんちゃうかな?」
みたいな後悔とか恨み辛みが出てきましたね。

まあこういう感情や思考が行き過ぎて世や親を呪うようなことはしたくないですし、したってどうしようもない幸せにはなれないことは分かってます。
ただ、まあ自分のネガについて少し向き合ってみてもいいんじゃないかなと思ってます。

まず、僕は大分幸せやと思うんですよね、相対的にみたら。
飯が食えんくて困ったことはない、ニート予備軍みたいなやつやのに大学にも行かせてもらってる、発達障害に理解のある親や友だち、先生が周りにいる。
それに病気の程度もまだマシな方みたいです。
親や医者から聞いた話では、こうやって色々自分のしんどさに向き合って言語化できたり、後天的にある程度の社会性を獲得してるだけ大分ちゃうみたいですね。

しかし、こう他人よりマシそうなものを数え上げて見てもあんまし幸せな気分にはなれませんね。
なぜならやはり僕の苦しみは主観的苦しみとして在るからです。
辛いもんは辛いんです。
理性が弱かったり、生活や自己管理がだらしなかったり、それで人にバカにされがちやったり、自分が嫌いになったり。
そういう苦しさは確かに在るように思えてしまうんです。
それに「人よりマシ」っていうのはあんまり好きくないというか救われないですね。
だって話聞いてて「まあでも他の人よりマシじゃない?」って言われたらやじゃないですか?
「ああ俺って人よりマシやのになんで辛く感じてるんやろ、心が弱いなあ。」って罪悪感感じたりとか。
「いやとにかく辛いもんは辛いんや!」ってキレそうになりません?
僕はこういう人と比較する考え方は合わへんなーと思いました。

じゃあどうすんの?って話ですけど、もうこの苦しみを受容するしかないんじゃないかなーって思ってます。
苦しみが在ることを認めつつ、この苦しみを肯定する。
どうやって肯定するかっていうのでパッと思いついたのだと、苦しんだおかげで以前より人に優しい気持ちを向けられるようになった気がしますね。
つらい人の心に寄り添えるようになった気がします。
「そういう時も在るよね」とか、「そっかー、今その人なりに苦しいんやなー」、「今その人にはそういう風に世界が見えてるんやな」って他者の苦しみや主観をそのまま認められるようになった気がします。
僕が生きてきて感じた苦しさはこのために必要だったんじゃないでしょうか。
社会的に弱い立場だったり、心身がつらい状況だったりを経験しているからこそ自他に優しくできるっていうのはあるんじゃないでしょうか。
禅やこのnoteを書くなどして自分に優しくすることで、他者にも優しくできる。
逆に他者に優しくすることで、自分に対しても優しい目を向けることができる。
そうなって行けば苦しんでいる自分の心はどこか救われるんじゃないかなーと思ってます。
逆に僕の今書いたnoteを読んでくれた誰かが、救われた気持ちになったり自他に優しくできるようになったりしたら本当に嬉しいですねー。

今日はこの辺にしときます。
書いてみてすごく楽になりました。
ありがとうございました。


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