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顔もみたことないのにLINEだけで人を好きになる現象について持論を展開させていただきたい

突拍子もなくみなさんに質問ですが
恋人認定試験において、LINEの文面は審査対象に入りますよね?
なんなら合否を大きく分ける最重要審査といっても過言ではありませんよね?

例えばですが
わたしの判断指標として即不合格にする事例の一部をあげるとすると

こんにち「わ」だったり、
「オレ」だったり、
「お前」って言ったり、
この世の終わりみたいなスタンプに課金してたり、
面白いこと言ったつもりなのに「わろた」一言で返されるという世紀末のような状態になったり、
「wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
→放牧したろかと思うほどには草生えすぎてたり、(たまに自分もやるが)
腹を立たせる程のことでもないはずなのに無意味なほどに絵文字が多いことに痺れを切らし全てを無に帰すためには「バルス」不可欠になったり、、、

めちゃくちゃ顔はタイプなのに、文面を受け入れられず付き合うことをやめる
という事案、割とわたしの周りでは多いのだ。
それくらい、コミュニケーションにおいて文面は大事なのだと思う。
なんだかそれって本末転倒のようだが、、実は理にかなっているように思う。

かつて和歌が一大ブームになった平安時代の古人たちは
文(ふみ)でコミュニケーションをとっていた。
タイプかどうかを判断するツールが、ふみなのである。
どんなうたを詠むのか、ウィットに富んだ返歌ができるか、相手の気持ちを慮ることができるのか、、
何度かうたを詠み合い
「あゝ直接まみえたい」
という旨を伝え承諾されて初めて、逢瀬案件成立だ。
そして、その時代では「会う=セックスする」なので、
初対面でセックスするのだ。
今の時代で考えれば、、
会ったことのない異性とLINEで数回やりとりし、会うの?会わないの?の二択が提示され、「会う」を選択してしまったら最期、そこはセックス不可避のネバーランドが待ち受けているのである。
という解釈でいる。

、、、。

地獄だ。

「やっべ、ふみはまじタイプなのに顔面が想像と違いすぎる」
という個人的非常事態宣言打ち出したくても、セックスしないといけないのだろうか?そんな事態になることがないのだろうか?いやなることないなんてことがあるか?もしくは顔を凝視せずに執り行われるのだろうか?
いずれにせよ疑問が多すぎる。。。。

1000年先輩たちと比べたら、
LINEを通じて実際に会ってもセックスをしない権利があるわたしたちは、恵まれていると勝手に思っている。
お互いの心的平穏をもたらすためにも、ネバーランド強制入場スパイラルを止めてくれて本当によかった。
今伝えたい、先輩方ありがとう。

という話はさておき、
今わたしたちが生きる時代でも文面でのやりとりで相手を判断してしまうことがあるが
1000年先輩も同じようにやっていたと思うと、日本人は昔から文字からみえる情緒を重要視する生き物なのだと思う。
文面から、相手の性格や雰囲気、言葉遣い、どんな表情をするのかがなんとなく見えてしまうのは
絵文字文化の発達や
漢字・ひらがな・カタカナという多様な表現技法も後押ししているかもしれないが
もしかすると日本人特有の能力なのかもしれない。
わたしはこの現象を「平安古人的感性のフラッシュバック」と呼んでいる。

わたしも、会ったことのない人を文面のコミュニケーションだけで好きなったことがある。文字から誠実さと優しさが滲み出ているのだ。
でも、この現象をおかしなこととは思わなかった。
それはわたしの中に遺伝子的に宿る平安個人的感性が開花しただけのことで、
「太古昔から日本人に備わっている能力」でしかないからだ。

直感的に好きか嫌いか、文面をひと目みるだけでなんとなくわかる。
そう考えると、やはりコミュニケーションにおける文面の印象は
できるだけ相手に不快感を与えないよう一言一句気をつけたい。
送る前に一度校閲してみる。
それだけで第一印象は大きく左右されるのではなかろうか、
更には、人生さえも分岐させてしまうかもしれない。

わたしは今日もそんなことを考えながら、
送る前に一文字一文字を確認して
誰かにふみを送る。
伝えたいことを「伝えたい!」と思った瞬間に
リアルタイムで気持ちを伝えられるコミュニケーションツールがあって、
表現の自由があるこの世界。
今日も変わらない幸せがあることが、どんなに幸福なことなのか。

ちょっと考えるだけで、
背筋がなぜかピンッと伸びた、日曜日の昼下がり。

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