【虎に翼 感想】第51話 花岡の死
花岡の死
花岡は誓っていた。「正しい道を進む」と。
婚約をしていたことが発覚し、よねと轟に呼び出されたとき。よねが先に出ていってしまい、轟と二人きりになったときに発していた言葉だ。
この言葉は、目の前の轟に向けられているが、その実、寅子にも誓っていたのかもしれない。
このときの記事で、『「正しい道」の誓いが後々、辛いことのフラグにならなければいいのだけれど……』と書いたのは、花岡のモデルとなった、実際に餓死した裁判官の出身地が佐賀だということを、多くの視聴者とともに知っていたからだ。
佐賀出身の登場人物といえば、花岡と轟だ。性格的には、一見すると轟のほうが当てはまるが、彼は弁護士だ。そうなると消去法で花岡になってしまう。
二人登場させていたのは、そのところをぼやかすためだったかもしれないし、二人に分散して投影させていたのかもしれない。
予感が当たらないことを、多くの視聴者とともに祈っていたが、そのとおりになってしまったことは、本当に残念なことだ。
花岡は実務修習のころ、民事に異動したばかりの桂場に付いていて、「きみは裁判官向きじゃない」と言われていた。
(今となっては桂場が民事に異動したのは、共亞事件の無罪判決を出したことによる左遷的なものだったのかもしれないね……)
このことを当時、同性の目を気にして女子を軽んじる発言をしてしまう花岡には、フラットにものを見るべき裁判官は向いていないということなのかと思っていた。しかし桂場は、もっと本質的なことを見抜いていたのだろう。
以前、寅子は、法を「綺麗なお水が湧き出ている場所」=“水源”と表していた。花岡も同じ考えではなかったか。汚すまいと、自分を縛り付けてしまったのではないか。しかし、食糧管理法という個別具体的な法律においては、元々、不備があったようだ。
優三さんは、「すべてが正しい人間はいない」と言っていた。優三さんの考えには余白がある。全員が正しくない部分があって、好きに立ち振る舞ってしまうと、誰かを傷つけるおそれがある。余白を線引きするために法律があると感じていた。
桂場にも余白はある。久藤にお酒を飲もうと言われたときを思い出そう。一旦は断るが、クラッカーとジャムを見せられた途端、それを受け入れるのだ。甘いものの前では自分を許す、線引きの個所がある。花岡にはそれがなかった。
餓死した裁判官の話は、『梅ちゃん先生』にも出ていた。
主人公、下村梅子(堀北真希)の父親、下村健造(高橋克実)が、この新聞記事を読み、「医者である自分もこうあらねばならない」と、同じく配給のものだけを食べる生活を始めたのだ。
このときは、「ヤミのものでも何でも食べて、目の前の苦しんでいる患者を救う」ことに着地したが、今回は、そうはならなかった。
花岡にも、やむを得ずヤミのものを食べて裁かれる人々に対し温情判決を出すために、何としても生きて欲しかったが、それも難しいことだったのかもしれない。「あなたはヤミのものを食べていないのか」などと言われたときに、まっさらな裁判官でありたかったはずだ。
花岡は、ずっと不器用だった。本当に残念でならない。
実際には、この裁判官の死により、食糧管理法の不備や裁判官の薄給が問題となり、改善の機運となったようだ。
敗戦により憲法や民法が新しくなり、一人の裁判官の死が社会問題を呼び起こした。いつも誰かの犠牲により、物事は改善されていく。
・・・・・・・・・・・・
寅子はいつものベンチでお弁当を食べる。今日は花岡の姿しか思い浮かばない。
思い返すと、優三さんは、いつも寅子の右側にいた。川辺でも、ベンチでも。
花岡は左側に座っていた。
この二人は、立場は違えど寅子の両翼となって、これからの寅子の歩みを支えていくように思えた。
轟法律事務所、開設!
轟は今までどこにいたのだろうか。シベリアにでもいたのだろうか。轟だったら生き残れそうだから。
日本に帰り着いて、東京に戻ってきた途端、花岡の死を知らされた気持ちは計り知れない。このまま堕落していきそうだったところに、よねが都合よく現れてくれて本当によかった。
カフェー燈台のマスターは空襲で亡くなっていた。マスター、よねの言葉であっけなく死す……そのマスターのお店である建物を、今はよねが自由に使っている。所有権があやふやになっている戦後の混乱期である。ここから離れてしまえば、誰かに占有されるだけだ。そういった意味でも、よねはここから離れられないでいる。
よねは、終戦前と変わらず “よろず法律相談(非弁)” をして、糊口をしのいでいた。
「惚れてたんだろ。花岡に」
思ってもいない視点だった。轟自身が戸惑っている。
現代のようにLGBTが広く認識されている時代ではない。自認に至るのも困難だし、自認したらその道も困難が待っている。轟の答えもあいまいだったが、花岡に特別の思いを抱いていたことは自覚している。
しかしこうなると、こじつけかもしれないが、花岡が轟に婚約していたことを話していなかったことも、なんだか辻褄が合うと思ってしまう。もし、花岡が轟の気持ちに気づいていたらの話だが。
よねはよねの理由で男装をしていたが、轟が常に “漢” を強調していたことも、”こうあらねば” と意識していたのではと腑に落ちた。
それぞれの理由は異なるが、性別の垣根を超え、人と人として向き合っている二人が共鳴し合えた。そしてよねは、その瞬間を逃さなかった。
「私はまだ何者でもない。今の私にはできることに限りがある。だから、一緒にやらないか、弁護士事務所を。やることもないなら、人助けでもしろよ。弁護士資格の持ち腐れになるなら」
轟は、「回りくどい言い方をするな」と言いつつ、よねの差し出した手を握り返し、花岡のいつものベンチの席をしっかり見据えてから、公園を去っていった。
よねはずっと、寅子の良きパートナーになると思っていた。だがそうではなかった。寅子との決別から、それなりの年月が経っている。
寅子に手を差し出せなかったことを後悔していたのかもしれない。戦争体験、それこそマスターが焼け死ぬところを目の前で見たかもしれない壮絶な体験を経て、轟と共鳴し合えた今、ためらってはいけないと思うのは自然なことだ。
私はこれまで、しつこいくらいに、よねはパラリーガルのほうが向いていると語ってきた(第29回、第30回)。結論を出すのが早いところとか、自分の考えに忠実すぎるところが、弁護士として矢面に立ったら、依頼者をミスリードしそうで心配だった。
だから、自分の名前で書面を出せない、本人いわく「何者でもない」ことが、よねのストッパーになるのではと。だから、試験には受からなくてもよいのではないかと思ってしまうのだ。もちろん、受かっても歓喜するのだが。
昭和24年に制定された弁護士法では、弁護士が事務所を開くときは「法律事務所」とつけなければならないし、この名前は弁護士しかつけることができない。
昭和22年の頃はどうだったか知らないが、”一緒にやろう” とはいっても、事務所名は「轟法律事務所」が有力だ。画数が多いから、「とどろき法律事務所」でもよい。
しかし当面の間は、お客(依頼者)を引っ張ってこれるのは、間違いなくよねである。
それだけではない。長い間、カフェーで男女の心の機微を見てきたことは、よねの財産だ。轟が依頼者に対して間違った理解をしているときや、違った道を行こうとするときは、よねが轟のストッパーとなってくれるだろう。
だから轟にとって、よねはなくてはならない存在なのだ。
よいコンビだ。今日は二人の前向きなシーンを見ることができて、花岡の死のショックも和らげてくれた。今後は、たびたび事務所の様子を見せていただきたい。
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裁判官は、やはり徴兵を免除されていたようだ。桂場も、久藤も、小橋も。轟の話で、一つ疑問が解決した。
桂場も久藤も、それぞれのキャラクターで寅子に寄り添ってくれていることに安心して、今日の感想を終えることができた。
「虎に翼」 6/10より
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