絶望と反省とプライド
気が滅入る。まったく毎日気が滅入る。
テレビのニュース番組をつければ問題だらけの法案の可決が報じられていて(もしくは触れられていなくて)、Twitterを開けばヘイトスピーチが流れてくる。
趣味はメディアの情報に触れること。以前起きたことと今起きていることの繋がりを感じるのが好きだ。パズルのピースがはまったときのような快感を覚える。
自分の持っている知識やものの見方を使って、新しい(ように見える)事象を観察するのも面白い。
しかし最近はあまり楽しめず、息苦しさを覚えることもある。
先日閉幕した国会では、嫌な法案が次々と可決された。「嫌」どころではないが、一つ一つに憤りや悲しみを向けたり、適切に表現する言葉を探したりするだけの体力が残っていない。
改定入管法、防衛力の強化、マイナンバーカード、そして「LGBT理解増進法」。
どれも避けては通れない話題だが、とりわけ「LGBT理解増進法」については、多くの時間をかけて考え、様々な思いが溢れ出た。僅かに残った体力でそれを言語化しようと思い、パソコンを開いた。
おきゅはマイノリティ
遅ればせながら、簡単に自己紹介をする。
私のSOGIを言葉にすると、「女性が好きなシス女」といったところだ。要するにシスジェンダーのレズビアンなのだが、「レズビアン」という単語が持つ歴史の重さを背負いきれないと感じ、このように表現することが多い。このことについてもいつか書きたい。
人を好きになるのが遅かったり、あとで好きだったと気がつくことが多かったりするが、セクシュアリティと性格のどちらがもたらした性質なのかは分からない。どちらでもいい。
今は、私にはもったいないくらい素敵な女性と付き合っている。全ウーマロマンティック/セクシュアルが惚れてしまうのではないかと思うほど完璧な人だ。ちなみに、彼女といるときの私は非常にデレデレしていて、その姿はとてもではないが知人には見せられない。
さて、本題に戻ろう。
先日成立・施行された「LGBT理解増進法」(「差別禁止」が「理解」になったことも、現在の内容が「理解増進」とはかけ離れていることも到底受け入れられないため、かぎかっこを外したくない)において、最も傷つき、怒りを覚えたのは「すべての国民が安心して生活することができるよう留意する」と「不当な差別は許されない」という文言だ。
前者に関しては、何というか、「全部嘘じゃん」と思った。
法律の内容の是非は別として(非だとは思うが)、「LGBT」という単語が明記されていることから、タブー視されていた時代と比べれば前進したといえるだろう。
しかしこの一文が、可視化されたように感じられたマイノリティの存在を再び見えないものとしている。
それらしいことを記しておいて、結局「すべて」の中に閉じ込めてなかったことにしたいのか、と失望した。
確かに、マイノリティもマジョリティも、「すべて」の人が生活しやすい社会は理想的だ。
だが、現時点ではマイノリティの権利は守られておらず、「すべて」から漏れている。
このような現状を無視して「すべての国民が安心して生活すること」を掲げるのは、差別の温存に他ならない。
後者を目にした際、「『正当な差別』はあるのか」という疑問が浮かんだ。
そして、「同性愛者には生産性がない」といったような主張を思い出した。
「異性のカップルは子どもを作れる(とされているが、実際はその限りでないのは言うまでもない)が、同性カップルは子どもを作れない。このような差異がある。これは区別で、同性婚ができないのは『正当な差別』だ」。
なんて声がいつか耳に入ってくるのではないかと思った。
実際、似たような文言を大阪地裁の判決文で見たし、「正当な差別」と銘打った差別を受ける日もそう遠くないような気がしてしまう。
環境に恵まれてきたためか、私はこれまで面と向かって差別的な言動を取られたことはない。
カミングアウトした友人はそれまでと変わらず仲良くしてくれている。「おきゅは女性の方が好きそう。逆に男性と付き合ってるところが想像できない」という言葉をかけられたことも何度もある。
念のために述べておくと、これは偏見に基づいたものではなく、私がカム前からそれを仄めかすような発言をしていたがゆえのものだと思われる。嘘をつくのが苦手で、信頼した人にはカムしていなくても取り繕わずに自然体で接している。
また、私自身に結婚願望はない。つい最近まで消しゴムのカスを集めて練り消しを作るような子どもだった私には、結婚が何かなんてさっぱり分からない。正直なところ、恋愛も分からないことだらけだ。
だからといって、差別が存在しないとも、同性婚の制度が不要だとも、決して思わない。
もし差別がないのだとしたら、なぜカミングアウトする友人を選んでいるのだろうか。なぜ彼女がいることを親に黙っているのだろうか。
結婚を望む気持ちがあろうとなかろうと、さらにはパートナーがいようといまいと、異性カップル(異性愛者など)には当たり前に用意されている法律婚という選択肢が、同性カップル(同性愛者など)にはない。
こんなの、どう考えてもド直球差別だ。
政治家をはじめとする著名人の差別発言も後を絶たない。元総理秘書官の発言内容が耳に飛び込んできたときの、体温が下がっていくような感覚は今でも忘れられない。
この法案をめぐる議論や成立・施行された現実を見て、勝手な想像で恐縮だが、近いうちに大きなバックラッシュが起きるのではないかと思った。
同性愛者に対する偏見が差別になり、エスカレートしてジェノサイドに発展したらどうしよう。これはさすがに考えすぎだろうか。
いや、香港の女性同士のカップルが襲撃された事件を思うと考えすぎとは言えないかもしれない。あの一件はあまりにもショッキングで、映像を再生することは未だできずにいる。
彼女とはよく手を繋いで歩くが、いつかそれが原因で怖い目に遭うのではないかと、にわかに不安を覚えた。
デート中は彼女のことしか見えないため気がついていないだけで、奇異の目を向けられているのかもしれないが、身の危険を感じたことは一度もない。それが言葉や暴力に変わっていくことを考えると、心臓が縮む思いだ。
おきゅはマジョリティ
「LGBT理解増進法」をめぐる議論のなかで、槍玉に上げられているのがトランスジェンダーだ。
「男性でも性自認が女性と言えば女湯に入れる」というデマが拡散され続けている。まるでトランスジェンダーの存在を「認める」ことで社会が不安定になるかのように語られる。
このような状況を見ていて何より辛いのが、差別に敏感であると思っていた人やシスジェンダーのセクシュアルマイノリティがこの言説に乗っかってしまっていることだ。
これまで女性の権利を踏みにじってきたような人々が「女性スペース」を語り始めた様子を見れば、誰の権利も守る気がないのは明らかなのに、それを信じてしまう人が思いの外多い。
ただ、私はトランスジェンダー差別に加担したことがないと言い切れるだろうか。
おそらく、知らず知らずのうちに加害側に回ってしまっている。
無論、排除しようと思ってしたことは一度もない。しかし加害者の意図などどうでもいい。被害側を抑圧していれば、それは差別である。「誤解を与えたなら」「不快な思いをされた方には」と、差別の問題を被害者の感じ方に矮小化するのは卑劣な行為だ。
先日、映画「片袖の魚」を鑑賞した。
トランスジェンダー女性の主人公がモヤモヤするタイミング、すなわちマイクロアグレッションを受ける場面が分かりやすく描かれていた。
ジェンダーやセクシュアリティについて多少なりとも勉強してきたため、もしその演出がなくても不適切な発言に気がつくことはできただろう。だが、自分がどれだけ優位な立場に置かれているかを改めて思い知らされた点で、見なくてはいけない作品だと感じた。もちろん、ストーリーや映像の美しさも気に入った。
私はシスジェンダーであり、性別の説明を求められたことも、自身の性別について考えたこともない。
このような特権を持っている限り、何もしなければ差別に加担することになってしまうのではないか。
しかし、社会運動に参加することにはまだ少し抵抗がある。今回はこのようにnoteを書いているが、ネットでの発信も得意ではない。
だから、せめて、自身の特権性に自覚的であろう。
自分が感じ得ない複雑な思いを想像し、なぜそれを感じないで生きていけてしまうのかを考える。
「周りにトランスジェンダーはいない」と言い切ることはせず、「いるのだろうが、伝えたいと思われるような関係性になれていないのかもしれない」などと思う。
これが贖罪になるとは思わないが、マジョリティに課せられた義務だと考えているため、怠らないようにしたい。
生存を続けていくために
「理解増進法」というけれど、理解はしなくても良いのではないかと思っている。
私も「GBTQ+」のことは分からない。さらに他のレズビアンのことも、彼女のことも、自分のことすらよく分かっていない。
自分と異なるSOGIを持ち、異なる立場に置かれている人のことを完全に理解するのは不可能である。
むしろ、理解することを急ぐあまり(「理解増進法」にその役割は見出せないが)、不適切な認識のまま理解したつもりになることの方がリスクではないか。これほど傲慢で暴力的なことはない。
そのため、理解できないことを念頭に置いたうえで、差別を許さない姿勢と差別を禁じる法律が必要だと思う。
分からなくてもいい。ただ、差別をやめてほしい。どのようなSOGIを持った人でも安心して生きられる権利を守ってほしい。
例えネガティブな感情を持っていたとしても、差別に対しては「それは違う」と言ってほしいのだ。
何かの属性を排除する社会は、いずれ他の属性も排除すると考える。
誰にも標的になってほしくないし、自分がいつ矢面に立たされるか怯えながら生きるのも苦痛である。
だから差別構造を崩壊させるしかないのだ。
そのためには、完全な理解はできないと知ること、それでも学び続けること、自身の特権性に自覚的であることが必要なのではないか。
少々説教臭くなってしまったが、かく言う私も、前述の通り声を上げることは苦手だし、暗いニュースに触れると(というか触れなくても)すぐに疲れてしまう。
自分を棚に上げて偉そうなことを言うのも良くないので、もう少し易しいアクションを示しておこう。
「自分が誰かを傷つけたり、差別に加担したりしているかもしれない」と思うだけでも、周囲の人が少し生きやすくなり、何か良い影響を社会にもたらすことに繋がるのではないだろうか。
ダメな日も(ダメな日ばかりだが…)、これだけは忘れないようにしたい。
自分も含め、誰もが生きやすくなる日が来ることを信じて。
最悪なプライド月間となってしまったが、生存を続けていくために、生存を続けてもらうために、最後にこの言葉を残そう。
Happy pride.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?