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好きとは

以前、仕事の選び方の一つに好きを仕事にする、というものがあると書きました。

子どもの将来を考えるときに、その子が好きなこと、好きなものを見極めるのが非常に大事で、でも難しいと感じているので、今回は「好き」について考えてみたいと思います。

ゲームが好きな子どもがいたとき、それが本当に「好き」なのか、曖昧な部分があると思います。

例えばパチンコが大好きだという人がいて、毎日パチンコばかり打っていて、それは本当にパチンコが好きな状態なのでしょうか。それは単に中毒になっているだけなのではないでしょうか。

「好き」と「中毒」は、どちらもその行為がやめられないという点では同じなのですが、大きく違う点があります。

それは「報酬の有無」です。

「好き」は報酬を必要としない。報酬なんてなくても、その行為自体が報酬であり、やっていること自体が楽しいのが「好き」だと思います。

対して「中毒」は報酬が必要。パチンコで言えば、当たった時のお金、当たるかもしれないという期待感、脳内物質の放出、それが報酬であって、パチンコはそれを得るための手段にしかすぎないということです。

逆に、パチンコが好きという人のなかで、例えばパチンコ台を自宅に置いて、報酬もないままただ打つことが好きだったり、パチンコの歴史を調べることが大好きで、それを調べているときが無性に楽しい、というような人がいたら、それは本当の意味でパチンコだ好きなんだと思います。

つまり「行為そのもの」を目的としているか、報酬が目的で「行為は手段」なのかが、好きと中毒の違いだと思います。

実際にはその両方が混在している状態がほとんどなので、本当に好きかどうかを見極めるために大事なのは「その行為から得られる報酬がなくても、それをやりたいと思うか?」ということなのではないでしょうか。

しかしここで更なる問題があります。それはゲームなどのエンターテインメントは、ゲームの中に報酬を得られる仕組みが巧妙に隠されている、つまり行為と報酬が一体化しているため、好きと中毒の違いが非常に見極めにくいのです。

これはゲームに限った話ではなく、例えばスポーツでも「うまくいったときの爽快感」というような報酬は、行為と密接に絡みついているためなかなか判断がむつかしいです。

この場合、逆に「ゲームをしていないとき」、つまりゲームによる報酬を得られないときにも、ゲームに打ち込めるかどうかが、本当に好きかどうかの見極めになるのではないかと考えました。

具体的に言うと、ゲームなら、ゲームをしていないときに、どうやったらうまくいくかという戦略を考えたり、パターンを調べたりすることも苦にならないか。サッカーなら、試合でゴールを決める快感がないような、地道なトレーニングやサッカーを見て分析するようなことにも前向きに取り組めるか。

むしろ「好きなことをしていないとき」にこそ、何が好きなのかが現れるのではないかと思いました。

まとめます。

「好きは行為そのものが目的。」

「中毒は報酬が目的で行為は手段。」

好きと中毒を見極めるには、報酬がなくてもやりたいかどうかを考える。そして、「好きなことをしていないとき」にもついそれをやってしまうようなことに好きが隠れている、そう思います。

そう考えると、自分は「お酒が好き」と思っていたのですが、実は「酩酊状態」が目的でお酒は手段だと気づかされました。もちろん、誰かと和やかな雰囲気で会話を楽しむ行為は好きと言えるのですが、それはお酒を好きとはまた違う話だと思います。

奇跡的にも、好きを仕事にすることができるようになった現代だからこそ、好きとは何かをうやむやにせず考えたいと思います。

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