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「東京都同情塔」の感想

読む事でゾワゾワする作品なので、あらすじ的なものはあえて書かないが(というより、書けない書きづらい)。強いて説明するならば「架空の世界における、近未来的な芥川賞向きの作品」としておこう。

今でも思い出せる、国立競技場のザハ・ハディド案。確かに奇妙な外観で、費用がかかり過ぎるという理由で最終的にボツになった。が、コロナ禍で延期されたとはいえ開催された東京五輪なんて、めっちゃ予算超過したやん。
さらに電通絡みのズブズブ金まみれ案件だった事も明らかにされ、オリンピックは金のかかる一部の者のみの特権祭りだと認識されてしまった。
但しそれは運営側の問題で、競技者や指導者などアスリート側には無関係である。

結局全ては金なのねと、諦観したところに更に問題提起してくるのが「カタカナ言葉の羅列」。
昨今流行りの"平等"や"多様性"を、さもまことしやかに彩るカタカナ言葉には要注意だと常々思っていたが、この本を読んでその認識はさらに深まった。
確かに判りやすく効果的なカタカナ言葉(元は英単語)もあるが、日本語で事足りること・漢字を見れば一目瞭然な事を何故わざわざカタカナにするのか?私はむしろ、敢えてカタカナ言葉を使わない作戦を取りたいとさえ思っている。

主人公の名前・牧名沙羅は字面も響きも素敵なのにサラ・マキナになると、無機質で堅いイメージを受ける。カタカナには風情がないのだ。
しかし最近はサスティナビリティだのマイノリティだのコンプライアンスだの、中身をぼやかす意図しか感じない。
余韻、少数派、法令遵守…どう見ても漢字の方が解りやすいだろ!

と、小説としてのストーリー性よりも「読者の脳内世界や思考に訴える」という点で、この本は芥川賞向きだと改めて思う。
登場人物に感情移入したり、物語中に起こる出来事に一喜一憂したりするのが小説の面白さだと私は思う。しかしこの作品には、そういうものが一切無かった。登場人物にも魅力を感じなかったしもしや彼らもAIかと思うくらい無機質で、出来事も不可解。
「ふーん、そうなんだ。だから何?」くらいの、まるで説明書を解読する感じの、エンターテイメント性が皆無な無機質な作品だった。が、それこそが作者の真の意図であったならば、流石だと思う。
ちなみに同期直木賞受賞作も読んだが、私は人の息づかいや血の匂いまで感じさせられた「ともぐい」の方が好きである。

帯についた「Q あなたは、犯罪者に同情できますか?」に「基本同情しないし、明らかに犯人だと断定できる殺人には死刑賛成。しかしその背景は知りたいと思う」と回答して、この感想文の〆とする。
ご精読、ありがとうございました。


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