惚れた彼女と夏の夜に
10年前のある夏の夜に僕は彼女と表参道を歩いていた。
少し背伸びをしたい年頃だった僕は、片思いの彼女と広尾で鮨を食べてワインを飲み、それなりにスマートに会計を終えて、次の手を考えた。
外に出ると夏の夜がはじまっていた。
この夜の行く末に期待を感じながら広尾の街を歩いていると、彼女は立ち止まり僕の目の前に立った。
正面から見ると、彼女の黒い髪は耳が隠れるぐらい伸びていた。
彼女と出会った頃、僕が照れながら「短い髪の合間から見える耳の形が好きだ」と言うと、彼女は「そんなこと言うのはあなたがはじめてだ」とにやけていた。
彼女はそろそろ髪を切る頃合いなのかもしれないし、僕はその耳が見えることを密かに期待した。
「今度はわたしがご馳走するから、あなたが行きたいバーに行こう」
彼女はさりげなく僕の手に触れながらそう言った。
美味しい鮨を食べて、ほろ酔いの時に片思いの女性から手を触れられて、バーに行きたいと言われるような際どいときめきを感じることは、この先何度も訪れることではないだろう。当時の僕はそう悟っていた。
僕は都内で行きたいバーの候補をいくつか思い浮かべた後に、南青山にあるバーラジオに行こうと言った。
「やっぱりバーラジオだと思ってた」
彼女は僕からその左手を解いて笑顔で言った。
僕の右手は行き先を見失い、自由を持て余した末にポケットに隠れた。
原宿駅を降りて、2人で表参道を歩きはじめたとき、夏の風が彼女の短い髪を揺らした。その香りが風と絡まり僕の五感に届くと、この上ない心地よさが感じられた。
「今ここを歩いている時のことは、この先もずっと覚えているからあなたも覚えていてね」
前触れもなく彼女は言った。
10年後にこうして文章を書いているから、今のところは彼女が言った通り、僕はその時のことを覚えている。
バーラジオに着くと、タイミング良くカウンターが2席空いていて、店主の尾崎さんの目の前に座ることができた。
尾崎さんの著者『バーラジオのカクテルブック』では、村上春樹や村上龍、塩野七生らが寄稿文を寄せているが、尾崎さんの文章は左記の著名人に劣らず品位が保たれている。
僕はその文章を読んで以来、いつの日かバーラジオで尾崎さんのカクテルを味わうことを切望していた。
念願のバーラジオのカウンターで目の前には尾崎さんが、左隣には彼女が僕に視線を向けている。
静かなジャズが流れる薄暗いカウンターで、尾崎さんが艶やかな夜を整えると、僕らは互いを意識しながら彼女はマティーニを、僕はギムレットをオーダーした。
心地よい緊張感の中で僕はギムレットを味わった。
隣の彼女はマティーニを一口飲むとオリーブを口に含み、そのグラスを僕に傾けた。
代わりに彼女は僕の前にあるギムレットのグラスを手にして、その唇を近づけた。
「美しく官能的なマティーニに出会えたね」
彼女は言った。
「どこまでも鋭くもまろやかなギムレットだ」
僕は応じた。
僕と彼女は尾崎さんが作るカクテルを2杯ずつ味わい、彼女が決して安くはない会計を済ませてバーラジオを後にした。
僕らは来た道を折り返し歩きながら、自然な流れで手を繋いだ。その時彼女が何を望んでいるのか分からなかった僕は、青山通りの交差点でタクシーを捕まえた。
行き先を聞かれて、彼女を一目確かめた後に、僕はそれぞれの帰路を運転手に伝えた。
タクシーの中で彼女は静かに移り変わる夜の景色を眺めていた。
その夜、僕は彼女に自分の想いを伝えたのか、伝えずにいたのかはどうしても思い出せない。
記憶は前触れなく僕らの意識に訪れては、いつの間にか煙のように消えていく。
確かなのは、僕はどうしようもなく、抗えない程に彼女に惚れていたことと、彼女は僕の想いに気づいていたことだ。
それは恋人と眺める月が我々の瞳に綺麗に映るぐらいに確かなことなのかもしれない。
尾崎さんに真先にマティーニをオーダーして、僕に一口味あわせてくれた彼女はいつだって僕の気持ちを先読みしていたから。
そんな彼女と数年振りに会ったのは、ある夏の夕暮れ時だった。
僕がカフェで文章を書いていると後ろから聞き覚えのある声がした。
「相変わらず書いてるんだね」
彼女の前には、コーヒーカップとサリンジャーの短編小説『ナインストーリーズ』が置かれていた。
彼女は僕の目の前の席に移った。
その黒い髪は肩まで伸びていて、僕が好きだった彼女の耳は完全に隠されていた。
「やっぱりサリンジャーは野崎訳だね。バナナフィッシュにうってつけの日って訳すなんて最高だよ」
久し振りという挨拶も近況を確かめ合うこともなく、彼女は続けた。
「バナナが大好きな魚が、穴の奥にたくさんのバナナを見つける。魚は穴をくぐり、バナナを食べ続ける。太った魚は穴から出られなくなる」
「入口と出口は変わらない。変わったのは魚だけ」
僕が応じると彼女は笑った。
久し振りに会う彼女はとても陽気だったが、そこには不自然な明るさが含まれていた。
わずかな沈黙の後に彼女は僕の目を見て言った。「ねぇ、覚えてる。あの夜に表参道を2人で歩きながらわたしが言ったこと」
「覚えているよ」
「今ここを歩いている時のことは、この先もずっと覚えているからあなたも覚えていてね」
彼女は当時自らが言ったセリフを一字一句違わず再現した。
彼女の後ろから西日が差し込み、その表情が陰に隠れた。
僕が冷めかけたコーヒーを口にすると彼女は言った。
「ねぇ、どうしてあの夜好きって言ってくれなかったの。わたし、バーラジオでマティーニを飲んだんだよ。あの夜だけはわたしあなたに、あなたに抱かれたかったのに」
何も言えずにいる僕に彼女は笑って続けた。
「あの夜じゃなきゃ断ってたけどね」
再び苦い沈黙が訪れると、僕は彼女の左指に眩しくて目を背けたい輝きが灯っていることに気がついた。
僕はもう彼女の髪の合間からその耳を見ることはないだろうと悟った。
コーヒーは冷めて、苦味が増していた。
僕の視線に気づいた彼女は言った。
「わたし、来月にね」
「やっぱりサリンジャーは野崎訳だね」
不自然に話題を変えることしか出来なかった僕の気持ちを察した彼女は「入口と出口は変わらない。変わったのはわたしたちだけ。サリンジャーっぽいね」と言った。
彼女は席を立ち「じゃあね」と言ってその場を去った。
僕は「またね」を期待するなと自分に言い聞かせながら、彼女の後ろ姿を見ていた。
彼女の席には飲みかけのコーヒーと共に『ナインストーリーズ』が置かれていた。
曖昧な別れの挨拶だが、僕はもう2度と彼女に会うことはないと確信した。
その夜、僕は彼女が置いていった『ナインストーリーズ』を片手に表参道を歩いてバーラジオへ向かった。
夏の風は生暖かく、当時感じた心地よさは失われていた。
いや、夏の風は変わることはなく、彼女が言ったように変わってしまったのは僕らの方なのかもしれない。
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